35、慚愧
閑散とした廊下をたどり、ジルフィスが尚書局の薄暗い一室を訪ねると、顔なじみの尚書官が燭台をともして山のような書類を築いている最中だった。
裾が長い詰襟の漆黒の上衣と、裾の合わせからのぞく同色のズボンは尚書官の制服だ。キツネかイタチのように少々吊った切れ長の目に、耳の形がはっきりわかるほどみじかく刈り込まれた黒髪。尚書官という生き物は太陽よりも紙の束を愛する類の者なので肌色に血の気はなく、青白い。その蒼ざめた左の頬には小さな片眼鏡が乗っていた。
「筆頭騎士様が事務屋にいったい何の用かな? おや? 面白い顔をしているじゃないか」
片眼鏡の尚書官はジルフィスの気配に顔を上げ、書き物の手をとめてにやりと笑んだ。
「この世の終わりを見てきたって顔をしているな。あんたともあろう御仁がめずらしい。どうした? 生まれてはじめて女にふられでもしたか?」
「……どうしてわかる?」
そう返したジルフィスを、尚書官は珍獣でも見るような目で見た。
「まさか、本当なのか? うわあ、たしかにそりゃあこの世の終わりだな! ジルフィス・グラントリーが女にふられた? 私はあんたが男の子に恋をしたと聞いたとしてもこんなには驚かないぞ!」
ただでさえこれ以上ないほどに落ち込んでいるというのに、たいそうな言われようだ。ジルフィスはげんなりした。
「気色悪いことを言うなよ。俺にそういう趣味はない」
「知ってて言ってるんだよ。あんたをふった奇特なご婦人に幸あれ! ……で、なんだ? 私のところに何をしに来たんだ? なぐさめてもらえるだなんて思ってないだろ?」
ジルフィスはおのれの額に手を当てため息をつき、同情の片鱗すら見せない黒く澄んだ瞳を見返した。
この尚書官は、生まれ育った環境が並みの尚書官とはいっぷうどころかも二風も三風も変わっているので口も態度も不遜だが、ジルフィスが信用できる数少ない人間の一人だ。同い年で、出会ってから十年以上の付き合いになる。煮ても焼いても食えないし食いたくもないが、今回ばかりはほかに頼るあてが見つからなかったのだ。
「おまえに、女心を教えてもらいに来たんだ」
恥を忍んで用向きを白状すれば、「はあ?」と思い切り馬鹿にした声が返ってきた。
「ふられて頭のねじがぜんぶぶっ飛んだか? ジルが私に女心の教えを乞う日が来るなんざ、天地がひっくり返ってもないと思っていたんだが。コルディアに訊けばいいだろ? 彼女はその道の玄人だったんだから」
「玄人じゃ駄目だからコルディアのところじゃなくてここに来たんだよ。コルディアと違って、少なくとも、おまえはその道の経験がないだろ?」
「敬意をこめて乙女と言え、乙女と」
この尚書官――ユンナ・ゾルデは「乙女」という言葉から連想される可憐さとは無縁だが、ジルフィスはひかえめに肩をすくめただけで言い返さなかった。男女共通の制服を着ていると華奢な男か、幾分譲歩しても少年にしか見えない。そんな彼女でも実際女性であり且つ乙女であることは間違いないと知っているからこそ、ジルフィスは今日ここへ来たのだ。
「なんだ? ジルを手痛くふったのは花もはじらううら若き乙女なのか! 私はてっきり結婚後三十年を経てもなお夫と大恋愛中の何某夫人かと思ったぞ。だからあんたでも太刀打ちできないのかと」
「うちのおふくろみたいなのを想定してくれるな」
「じゃあ相手は誰なんだよ?」
ユンナが身を乗り出した。片眼鏡の奥の瞳が楽しげに光る。ジルフィスはおのれに残された冷静さを総動員して、低く告げた。
「……アーラだ」
「アーラって、おい、あのアーラ嬢?」
素っ頓狂な声をあげるユンナを張り倒したいという思いに駆られつつも、ジルフィスは耐え忍んだ。ユンナこそが、アーラを王弟グラントリー公の娘でありジルフィスの妹であると証明する戸籍を作成した張本人なので、彼女はこのあたりの事情をすべて承知している。
「ってことはつまり、あんた自分の妹に手ぇ出したのか!」
戸籍上は兄妹だが、血は一滴もつながっていないことを知った上で言っているのだからユンナは人が悪い。
「人聞きが悪いこというな。まだ手は出してない。キスしたらすぐに断られたんだ」
「ああ? 〝まだ〟とはなんだ、聞き捨てならんな! キスしたらそれは手ぇ出したってことなんだよこの色男。それすらもわかんないのか。あんたに気のない女の子に是非問わずそんなことしでかしたら嫌われてあたりまえたぞ! まったく、あんたは今より年が半分の思春期のうちに手痛い失恋のひとつやふたつ経験しとくべきだったんだよ」
まくしたてるユンナに圧倒され、彼女の言葉の意味を理解するにつれて血の気は引いてゆき、ジルフィスは胃の底が冷える心地を味わった。
「やっぱり……嫌われた、のかな」
「あんたらの話を聞く限り、アーラ嬢はしっかりしたお嬢さんらしいけど、本当に清く正しく生きてきたお嬢さんならあんたの振る舞いを大いに軽蔑しただろうな」
「軽蔑」
「そうだ。私だって軽蔑するよ。私も初めておやじさまにキスされたときには思いっきり引いたからね。花街でおしろいくさい姐様がたにかこまれて育った私でさえ、心の準備なく持ってかれたときには乙女心に大いに傷を負ったんだ。もしもあんたが奪った唇がお嬢さんにとっての初めてだったりしたら、最悪だね」
その最悪をまさにしでかしたのだと再認識を突きつけられ、ジルフィスは壁に頭をぶつけたい気分だった。
「図星かよ? あーあ、打つ手なしだ」
「あんなかわいい泣き顔見せられたら、ついってことも」
なんとか弁明しようとしたが、自分で口にしても最低で馬鹿らしい言い訳としか思えなかった。ユンナは腕組みした体をそらして、大きく鼻を鳴らした。
立っていられなくなって、ジルフィスは手近にあったスツールに腰を下ろした。
アーラを守りたいと思い、ゼファードの従姉妹になったことで否応なしに宮廷に引っ張り出された彼女を守るつもりだったのに。
夜会の晩、庭の泉で手を洗いながらアーラは何と言ったのだったか。
『相手がジルか殿下かセリスでもなければ、信じたりのこのこついていったりしない。今ここでジルに襲われるようなことがあれば、私はただのまぬけだけれど』
彼女から寄せられていた信頼を、ジルフィスは自分からもののみごとに壊してしまったのだ。
「ユンナ。俺は、これからどうしたらいいんだ?」
「それくらい自分で考えろよ。ま、心から謝って誠意を態度で示すより他ないだろうけど。そうしたってゆるしてもらえるかどうかは知らないがね。……まあ、せいぜい頑張りたまえ」
悄然と尚書局を出たジルフィスは、柱の陰で深々とため息をついた。
そっと、指先でおのれの口元に触れる。アーラの唇のやわらかさと、涙と蜂蜜の香りが思い出されて、ジルフィスはきつくにぎった拳を柱に打ちつけた。




