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34、節制

 ジルフィスの体を押すと唇が離れた。アーラはなおも下がろうとしたが、しかし狭い馬車の中では壁まではわずかな距離しかなく、すぐに背中は行き止まりになってしまった。

 現状は把握できたものの、どういった事情でこのようなことになったのか理解が追いつかない。混乱する頭をそのままに、とりあえず目じりと頬に残っていた涙を袖口でぬぐった。

――何がどうしてこうなったの? 

 ここは赤くなるべきなのか青くなるべきなのか、それすらもわからない。これが少女小説ならばころりと恋に落ちるか、そうでなければ無礼な相手を平手でぶつ展開なのだろうとは思い浮かんだが、あいにくアーラはそのどちらの態度も取りかねたので何の参考にもならなかった。

 ジルフィスの乾いた唇の感触が、まだ残っている。そしてなおもジルフィスはこちらを見つめていた。

 その蜜色の瞳に浮かぶ熱が、アーラの混乱に拍車をかけた。そのまなざしの意味を察したけれども信じられなくて、呆然とする。

――どうして? 

 心の内で問いかけながらも、そういった種類の熱はなぜと理由を問うのも馬鹿らしいものだということを頭の隅ではわかっていた。

――落ちつけ、私。冷静になれ。

 ひとつ、ふたつ、深呼吸をする。怒涛のように轟々としていた思考の手綱を手繰り寄せる。

 〝あちら〟で、異性から好意を寄せられたことがないわけではない。けれどもそれはアーラが受け取りたいとは思わなかった相手からの好意だったので、気づいても気づかぬふりをし通した。「試しにつきあってみる」などということは面倒以外の何ものでもなく、不経済で時間の無駄だと信じて疑わないのがアーラなのだった。

 シスターたちとともに過ごした中学、高校生の頃は同じ年ごろの異性に会う機会などなく、共学の大学に入ってからも特に恋だの愛だのと意気込むことはなかった。思いを打ち明けることなく終えた小学生時代の初恋を胸の奥に大切にしまいこんでからというもの、そのようにうるわしくはなやかな感情とは疎遠だったのだ。成人してもアーラは自分自身のこぢんまりとした世界に充足していて、ときめきや安らぎを他人に求めることはなかった。

 けれど今目の前にある金褐色の双眸は、蜂蜜のように甘やかな色と蠱惑的な感情をたたえ、アーラを求めているらしかった。

 今度は顎に手がかけられて上向かされそうになるのを、アーラはかぶりを振って止めた。ジルフィスの表情がわずかに傷ついたかのように揺れ、その様子にアーラも心苦しくなった。

 泣いたせいで喉が痛くて、思うように声が出せない。ひゅうひゅうとかぼそく鳴る喉元をさすって、なんとかなだめた。

「ジル」

 呼ぶと、期待をこめたまなざしで見つめられた。声が喉にひっかかったようにかすれるのがもどかしい。彼は何か言いたげだったが、黙ったまま、アーラの次の言葉を待っている。彼が望むような言葉をかけられないのをアーラは申し訳なく思った。

「まずひとつ、言わせて」

 何度か咳をすると、ようやくかすれてはいるものの聞き取れそうな声が出た。

「キスをするなら、それは相手の気持ちを聞いてからにすべきだわ」

「え? ああ……わ、悪かった」

 アーラは至極もっともなことを言ったつもりなのに、ジルフィスは瞠目しひどく戸惑ったようすで、詫びる言葉をささやいた。

――きっと、ジルはこれまで女の子にキスを断られたことなんかなかっただろうから、相手の気持ちを確認するのをはぶいても不都合はなかったのかもしれない。

 しかしシスターから貞節と節制についてこんこんと聞かされて思春期を過ごしたアーラは、そういった物事に潔癖だった。色めいた事柄について他人がどんな主義を持っていようと干渉するつもりはないし、ギリシャやローマ、北欧の神話の神々の奔放な愛を物語として読むのも面白いと思う。けれども我が身となると潔癖でいたほうが何かと面倒ごとにならないのはたしかなはずで、その信念が揺らぐほどの異性に出会ったことがないのもまた事実だった。

 ここで曖昧なままにしておいてはお互いのためにならないと信じて、アーラは言った。

「ジルは私の兄さんでしょう? こういうのは、よくないと思うの」

 すると泣き笑いのような痛々しい表情でジルフィスが問うた。

「俺のこと、嫌いになった?」

 ジルフィスの手のひらがアーラの手を包む。そのぬくもりをアーラは好ましく感じたが、その感情はジルフィスから求められたものとは違うのだとわかっていた。

「ジルはかっこいいし、優しいし、親切よ。兄妹にされる前からいろいろよくしてもらって、とっても感謝してる。好きか嫌いかと訊かれれば私はもちろん好きだと答えるけれど、でもそれは唇にキスを許す好きとは違うわ」

「……これから、そういう好きに変わるかもしれない可能性は?」

 アーラは困惑した。訊かれてもわかることではないから答えられないというのに、ジルフィスのまなざしに責められているような気さえする。悪いのは自分ではないはずなのに、アーラは目をそらした。

「はじめて、だったのに」

 声に出すつもりはなかったのに、ため息とともに恨みがましくこぼれてしまった。ジルフィスが息を吸い込んだ音が聞こえ、続いて大きな両手のひらで頬を包み込まれた。せっかく顔をそむけたのに、彼の瞳とまた向かい合う羽目になる。

「……はじめて?」

 ジルフィスの指の腹がそっと唇をなでてゆくのを、噛み付いてやろうかと考えながらアーラは「そうよ、いけない?」と返した。

「いけなくは、ないさ」

 驚きの表情のままでジルフィスがつぶやく。アーラは彼の手をどけて、今度こそ体ごと背を向けた。

 馬車に乗っている間中、気まずさのために窒息しそうな気分だった。

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