33、別れ
「最初っから、アーラは普通の娘さんとは違うと思ってたのよ」
夜会の翌日。春の芽吹き亭にて。
ジルフィスの話が終わると、おかみさんは落ちつかなげにエプロンの裾をもみしぼりながら、言った。
「だって、下町の育ちにしてはお上品すぎたもの。記憶をなくしたって言ってたけど、育ちのよさは隠せないからねえ。でもまさか、まさかグラントリー公のご令嬢だっただなんてねえ!」
アーラのわずかばかりの荷物はとっくに馬車に運び込まれていた。書き物をした紙の束と木炭を入れた箱、質素な普段着と下着、給金で買ったこまごまとしたもの――それくらいしか春の芽吹き亭の部屋にはなかったし、それが、グランヴィールに来てからアーラが築いてきた全財産だった。
「たいそうな箱入りのお嬢さんだったら、買い物の計算ができなくたってしかたないわよ。だって、ぜんぶ召使いがやってくれるんだろうからねえ。そんな大金持ちのお嬢さんにうちは店の手伝いさせて、金の勘定を教えていただなんて! ああアーラ! ごめんなさい、ごめんなさいね」
「こらおまえ、グラントリー公のお嬢さんになんて口のききかたをするんだ! アーラ様、だろう!」
ご主人はおかみさんの肩をなだめるようにたたきながら、大きな体を精一杯小さくしてジルフィスに何度も頭を下げている。アーラはたまらなかった。
「そんなの、気にしないでください。私、ご主人とおかみさんには言葉で言い表せないくらい、本当にとっても感謝しているんです。私のほうこそ、本当のことを言わなかったことを謝るべきなんです。ですからどうか、頭を上げてください」
「アーラの言うとおりです。あなたがたは彼女の恩人だ。おもてをお上げください」
「あなたさまも、グラントリー公のご子息とはつゆ知らず、先日はとんだご無礼を働きました。どうかご容赦を」
「ご主人、今日俺たちはお礼に伺っただけなんです。何もとって食おうってわけじゃありません。家出をした不肖の妹が世話になったことを、心から感謝しているんですよ。あなたがたが大切にしてくださったおかげで、アーラは身を危険にさらさずに一年間過ごしてこれたのです。だからこそ、俺もこうして妹を見つけることができた。……近所で評判の語り手がまさか自分の妹だとは思いませんでしたから、ゼファード王子の使いで始めてここへ来たときは、驚きましたけれど」
ジルフィスは恐縮し通しの宿屋の主人夫妻にクラーレン金貨がぎっしり詰まった袋をわたそうとしたけれど、夫妻は受け取ろうとはしなかった。だから立ち去り際に、ジルフィスは金貨入りの袋をカウンターの果物籠に押し込んでいった。主人夫妻はきっとすぐに見つけることだろう。
アーラは二人の手をにぎっただけで、胸がいっぱいになってしまった。感謝の気持ちを気の利いた言葉でたっぷり表したいのに、いざとなるとただありがとうとしか言えなかった。
アーラはジルフィスにうながされて、後ろ髪を引かれながらも馬車に乗り込んだ。馬車のドアが無情に閉められる。鞭があてられ、馬車は走り出す。窓から外をうかがうと、角を曲がって見えなくなるまで、おかみさんとご主人は見送ってくれていた。
アーラは大きく息を吸って、すとんと座席に腰を下ろした。喉が締め付けられるように痛くなり、こらえていたものが熱い雫となって目元から零れ落ちた。
どんなに歯を食いしばっても、涙は止まってはくれなかった。次から次へと湧き上がり、あふれ出て、ぽろぽろと頬を伝う。
肩を震わせるのも嫌だった。けれども一度泣き出すとなかなか泣きやめない性質であることは、アーラ自身が一番よく知っていた。
本に感動して泣くことはよくあった。何かが悲しくて泣いたことは数えるほどしかない。怒りやくやしさのために泣いたのはたくさんすぎて、数えるのがおっくうなほどだ。そして永遠の別れが痛くて泣いたことは、その別れの数だけあった。
――これも、きっと永遠の別れの一種なんだろう。
馬車はからからと単調に走る。アーラは嗚咽が漏れないように呼吸を最小限に抑え、みっともない泣き顔を見られまいと、ジルフィスがいるのとは反対の壁を見つめていた。体が震えないように、こぶしをきつくにぎりしめる。爪が食い込む痛みに集中して胸の痛みをごまかそうとしたのに、残念ながら涙腺はごまかされなかった。
「アーラ」
よばれても、喉が痛く熱く、ふさがるように苦しかったせいで返事はできなかった。
けれど、そんなことをジルフィスは知らない。もう一度呼び声がする。
「アーラ」
それでも返事がないと知れると、手が伸ばされた。頬にジルフィスの指先が触れ、アーラはびくりとする。その拍子にしたたった涙が彼の指に落ちて、泣いているのがばれてしまった。
「……アーラ」
やれやれといった響きが、ジルフィスの声ににじむ。彼が立ち上がった気配がして、馬車の窓のカーテンが閉められたようだった。これでたとえアーラが振り向いても、すれ違う人々に窓から涙でずぶぬれの顔を見られるという事態にはならないだろう。アーラはジルフィスの配慮に感謝した。
のだが。
ジルフィスの右腕が視界の端を横切り、左頬に手が添えられたかと思うと、アーラは振り向かされた格好でジルフィスと顔を突き合わせていた。カーテンが外からの視線を遮断してくれた代わりに、金褐色の瞳がこちらを見下ろしている。見られているというのに、アーラの喉はひくつき、唇はわななき、涙が次から次へと流れ続ける。
アーラにとって、泣いた顔を見られるのはとてもみじめで屈辱的だった。穴があったなら入りたい気分で、せめてもと目を伏せた。
その伏せた目の端に、わずかにかさついたやわらかなものが触れて。
触れただけでなく涙の跡をたどるように動くその感触に、アーラは思わず身を引いて目を開けた。
ごく近くに、狐色のゆたかな睫毛があった。その睫毛とともにまぶたが上がり、現れた蜜色の虹彩が近すぎてにじんで見えた。
なぜこんなに近くにジルフィスの瞳があるのか、なぜジルフィスはなおも近づこうとするのか、アーラの脳が正常な速度で情報を処理できぬうちに唇に吐息が降ってきた。まばたきをする間もなく、吐息以上のぬくもりが唇をふさぐ。
息ができないと思ったのが最初で、涙の塩辛さを感じた途端、息が止まった。
情報処理が異常な速度でこなされたというよりは、電気的な反応のようなものでアーラは悟った。
涙の跡に口づけられ、そして……キスされたのだと。