32、一難去って
――すごい腹。
ひどく率直に何の慎みもなく表現することが許されるなら、アーラがボーロック公にいだいた第一印象は、まさにそれだった。
最高級の布地を、ゼファードやジルフィスのゆうに三倍は使っているのではないかと思わせるほどの巨漢。もちろん縦に大きいのではない。横に、だ。
ゼファードもジルフィスも敵対心などおくびにも出さず挨拶を受け、またそれなりに返した。アーラもさりげなくようすをうかがいながら、初対面の作法どおりの礼をする。しかし相手はさりげなく装おうと務めるどころか、あからさまでぶしつけにアーラを観察し始めた。胸元と腰のあたりを何度も視線が往復する。ふつふつと湧く怒りを隠し通すのに、アーラはかなりの努力を必要とした。
――殿下とジルに賛成。私も、こいつが大嫌いだわ。
ボーロックがゼファードにこの夜会の素晴らしさを、独創的とはお世辞にもいえない表現でつらつら並べ立てている隙に、アーラは注意深くジルフィスの陰に下がった。それをみとめてジルフィスもうなずく。しかし彼に限らず、ボーロックもまた目ざとく、身内の後ろに隠れたアーラに気がついた。
「しかし殿下にこんなにもお美しい従姉妹君がいらっしゃったとは! まったく、グラントリー閣下もお人が悪い。これほどのご息女がいらしたならばもっと早くにお披露目してくださればよいものを! そうでしょう筆頭騎士殿? お父上は出し惜しみがすぎるというものです。あなたも自慢の妹君を自慢なさりたかったことでしょう。いやはや、わたくしめに息子がいれば、一も二もなく是非にと申し上げるところです」
是非にといわれても願い下げだ。アーラはボーロックに息子がいないらしい事実に感謝した。
――それに、お美しいご令嬢をご所望なら、私なんかよりずっとおきれいな方々がこの会場にいくらでもいらっしゃるじゃないの。もうちょっとましな口上を考えなさいよ。
胸の内で罵っていたのだが、じとりと見られて寒気がした。すると守るように、ジルフィスに肩を引き寄せられた。
「俺だってもっと早くから堂々と妹を連れ歩きたかったさ。ただ、妹は生い立ちに事情があるゆえおいそれと人前に出すのははばかられた、というのも理解していただきたいね。だがまあ諸々考え合わせた結果、いつまでも隠しておくわけにも行かなくなった。よってこの運びとなったわけだが……これ以上野暮なことを俺に言わせなくたって、公ほどの宮廷人ならわかるだろ?」
「買いかぶられますなあ」
ジルフィスの話のあとをゼファードが継いだ。
「お聞きのとおり、幾重にも隠してきたために従姉妹は箱入り娘どころかまったくの世間知らずだ。人に見られることにも慣れていないし、無作法をしでかすこともあるだろう。ほら、もう消え入りそうな顔をしている。貴殿のような百戦錬磨のお方には、あちらに咲いている早熟な花々のほうをながめていただきたい」
「百戦錬磨とは、もったいないお言葉です」
ボーロックはおどけたつもりなのか太い短い首をすくめると、去り際に、アーラに紳士として親愛の礼を尽くしたいと申し出た。指先に口づけるあの礼を、請うているのだ。
アーラを構成する細胞という細胞がそれを拒絶した。けれどもその申し出を跳ね除けることは得策ではないということも、理解していた。いくら水面下でゼファードと末弟派が足を引っ張り合おうとも、表立って拒むことはおそらくルールに反する。宮廷の駆け引きに設けられているはずの、ルールに。
アーラはサテンに包まれた手を差し出して、鉄の微笑みを顔に貼り付け、息を止めて切り抜けた。指の関節から全身に嫌悪の毒がまわるような気がして、気分が悪い。表情は維持できても顔色が生白くなっているのではとアーラは危惧した。
「それでは近々またお会いいたしましょうぞ、うるわしの姫君」
ボーロックが去って、ジルフィスが歯噛みした。
「あの助平、なんて目でアーラを見やがる。ゼファ、ヴァーディス叔父とおまえのことがなけりゃ、俺はあいつを三枚おろしにしてたぞ」
その言葉に返事をする代わりに、ゼファードは至極まじめな顔でアーラに言った。
「部屋に帰ったら、すぐにその手を消毒するといい。強い酒精を用意させよう」
「……紳士と淑女の礼を、改変すべきだわ」
できないことなど百も承知のうえで、アーラは心からそう思った。
「あの人、いったい何しにきたの? 中身のあることをなんにもしゃべらなかった」
「おまえを見に来たんだろう。偵察だな」
「また近々、ですって? ご令嬢というものはああいう申し入れをどれくらいまでなら突っぱねるのを許されるものなの?」
「俺としても奴に懐をさぐられるのは避けたい。できうる限りおまえがやつと顔を合わせなくてもすむように、努力する。……ジル」
「なんだ?」
ゼファードは時計とフロアを見比べて小さく息をつくと、ジルフィスをふり返った。
「俺は一応の務めを果たしてくる。あと何人か、この夜会の名目上踊りの相手をしなければならないご令嬢がいるんだ。……アーラのことを、頼んだ」
「頼まれるまでもないさ」
ジルフィスが請合って、アーラの肩を軽くたたいた。
もしも本当に兄がいたらこんなふうだろうかと、肩にジルフィスの手のひらを感じながらアーラは考えた。実際にはアーラは弟と妹しか持ったことがないので、想像することしかできないけれど。
「アーラ」
ゼファードの姿が人ごみにまぎれて見えなくなると、ジルフィスが彼女の名を呼んだ。
「なに?」
「手、洗いたい?」
サテンの手袋を一瞬見遣り、アーラはすぐにうなずいた。布地にくるまれていたのだから直接触れたわけではないとわかってはいても、感触がまだ残っている。
「おいで。外に、手が洗えるところがあるんだ」
また、ダンスの楽曲が始まった。フロアでは人の流れが乱れ、そしてやがて壁際に引いていく者と中央に残る者とに分かれるのだろう。人々の目は中央に注がれるから、抜け出してもおそらくたいして目立たない。アーラとジルフィスは連れ立って、ひそやかに庭にすべりでた。
「紳士も淑女も噂好きな連中の視線をかいくぐって、夜会の途中に庭へ抜け出すことがままあるんだ」
藍色の夜に沈んだ石畳をたどりながらジルフィスがささやいた。
「そしてほとんどの場合、木陰や丹精された植え込みの裏で、まあ……逢引する。両者焦がれての逢瀬ならくちばしをつっこむ余地はないけど、何も知らない社交界に出たての乙女を言葉巧みに暗がりに引き込もうとする輩もいる。聞いていて気分のいい話じゃないだろうけど、アーラにはちゃんと知っていてほしいから、こうして話すんだ。俺やゼファが一緒にいられなくなった不測の事態に、デリオスのような馬鹿が君に言い寄ってくるかもしれないし、もっと弁の立つ輩が近づいてくるかもしれないだろ?」
「大丈夫、わかってる。だからデリオスのときも誘いを断ったの」
ジルフィスが指さした先に、人工の小さな泉があった。石の獅子の口から水が流れ出している。アーラは早速手袋をぬいで水に肘までぬらしながら、ジルフィスを見上げた。
「相手がジルか殿下かセリスでもなければ、信じたりのこのこついていったりしない。今ここでジルに襲われるようなことがあれば、私はただのまぬけだけれど。……あ、冗談よ?」
月明かりに仄見えたジルフィスは、泣き笑いのようななんともいえぬ面持ちをしていた。
水をきって、夜風に腕を乾かす。この時間になると秋の風は冷たかった。
しばらく黙っていたジルフィスが、ぽつりと言った。
「アーラ。明日は、一つ片付けなきゃいけない仕事があるぞ」
「授業を再開するんじゃないの?」
「宿屋に、いっしょに挨拶に行くんだ。アーラはグラントリーの娘として屋敷で暮らすことになる。だから、アーラの顔を知っている宿屋の夫妻にうまい言い訳をしにいかなくちゃいけないのさ。……わかるだろ?」
アーラは震えた。夜風の冷たさのせいではないと、わかっていた。