30、救出
アーラは反射的に振り向いた。
「ひさしぶりだな、デリオス・ジュビス。あいかわらずそそっかしいところは治っていないらしい。今宵もお連れの女性を間違えているようだが?」
ゼファードが眉間に皺を寄せてデリオスを見下ろしていた。ジルフィスほどではないが、ゼファードも長身なのだ。
アーラの肩に置かれた彼の手に、力がこもる。
「彼女はわが従姉妹のアーラ・グラントリー。紹介が遅れて申し訳ないが、貴殿のお連れということはありえない。妹御をお探しなら、こんな壁際ではなく中央フロアのほうがはかどるだろう」
デリオスは空気や餌を求める金魚のように口をぱくぱくさせ、おまけに目を白黒させている。ゼファードはさらにたたみかけた。
「まず、その手をお放しいただこうか。貴殿の妹御と間違えているならしかたのないことだが、淑女の手首をそんなにも強くにぎるというのは、紳士の振る舞いにそぐわないだろう?」
「お、お、お、お、王子、殿下」
ようやく、デリオスは声が出せたらしい。ゼファードの目がすうと細くなった。
「なんだ?」
「アーラ嬢は、ご気分がすぐれず外の空気を吸いたいと」
「それなら俺が連れて行く。初対面の貴殿が引っぱっていくまでもない」
ゼファードににらまれてようやく、デリオスはアーラの手首と腰から手を放した。手袋の上からにぎられただけだが、アーラはすぐにでも手をきれいな水で洗いたくなった。
紳士であれば、王子殿下のうるわしくないご機嫌を察してこの辺りが潮時と立ち去るべきだろう。しかしデリオスは煮え切らないようすで指を組んだり、体を傾けたり、ベルトについた房飾りをもてあそんだりした挙句、言った。
「今日、妹を連れてきているんです」
「それはそうだろう。貴殿の名と共に招待状のリストに載っていたおぼえがある。だから俺は、アーラを妹御を間違えたのかときいたんだ」
「たった一人の妹は、兄の私が言うのもあれですが、なかなか見られるよい見目をしています。どんな世間知らずでもジュビスの姫と噂を聞けば頬を染め、巷では薄紅のバラのようとたたえられているとか」
どこの巷だ。少なくとも世間知らずのアーラには、そんな話は聞こえてこない。
けれどもゼファードは知っているようだった。
「侯の姫の美しさは俺も聞く。だが、それが何か?」
「はい。殿下のお妃に、ぜひいかがかと思いまして」
アーラはただ出さえ言葉を挟む気はなかったが、デリオスの言いように絶句した。
――まるで押しかけ訪問販売員じゃないの。少なくとももうちょっと婉曲に、それとなく匂わすくらいの芸当ができないの?
妹を売り込むあまりに直截な言葉に、アーラはあきれるを通りこして、正直、「ばっかじゃないの」と思った。もちろん、そう思ったことは口にも顔にも出さなかったが。
ゼファードも、デリオスの幼稚なやり方についての感想を表面には出していなかった。
「兄としての貴殿のお気持ちは承知した。しかし、美しさだけでは妃候補にすらなれないこともご存知のはずだが?」
「はい、はい、もちろんです。ですが妹は気立てもよく、まさに理想の乙女。ぜひ殿下のお目にも留まるかと。よろしければ今すぐにでも妹のところにご案内しましょう。そうしたら私はお若い二人のためにアーラ嬢と一緒に席をはずしますんで」
いったい何がしたいのかまだ自分を外に引っぱっていくのをあきらめていないらしいと知って、アーラは内心げっそりため息をついた。こんな幼稚で洗練のかけらも持ち合わせていない男に同行して夜の庭を散歩するなど、どんな対価を積まれようと願い下げだ。
ありがたいことに、ゼファードもデリオスにそれを許すつもりはないようだった。
「一つ忠告をしておこう、デリオス・ジュビス。今すぐ急用を思い出して俺の前から去るなら追いはしない。だがそうでないのなら、それなりのお覚悟をしていただこう」
「覚悟ですって? またなんで? 私は薄紅のバラと謳われる乙女を殿下にご推薦しただけじゃないですか」
だんだんとゼファードに対する口調が無礼になってきた。デリオスは自身でそのことにすら気がついていないらしい。
「殿下と妹が玉座に並べば美貌の両陛下ということで各国の尊敬を集めますし、さらに私とアーラ嬢が契りの盃をかわしたなら、われわれの絆はいっそう深まるってものです。わがジュビス家は末代まで忠誠を誓いますし、そうなれば輝かしき……」
「忠告はしたぞ、デリオス」
うなじの産毛が逆立つほど冷ややかに、ゼファードが言った。デリオスは言いさしたまま目を見開き硬直している。あまりに馬鹿馬鹿しいデリオスの演説に辟易していたアーラも、凍らされたように動けなかった。
「貴様は嘘をついたな。ジュビスの姫は少なくとも乙女ではない」
ゼファードが言い放ち、アーラはおどろいて息を呑んだ。デリオスは指先まで固まったままなのに目だけきょときょとと動かした。ゼファードは続けた。
「貴様の妹御はこれまでに何度も、謁見の時間に愁訴に来ている。『屋敷の馬丁といい仲になって子までもうけたのに、家族に反対されている。馬丁は屋敷から追放されそうだが、そんなことになっては自分は生きていけない。引き離されるくらいなら死ぬ覚悟だ、だから殿下や陛下から父をなだめて私たちが夫婦になれるように説得してください』……とな。知らなかったのか?」
デリオスの顎ががくんと落ちて、閉じようとしたらしいが閉まらなかった。
「だかそんな訴えは、俺たち王族が介入する問題じゃない。愁訴のたびにそう返事をしているのだが妹御は聞き入れてくれなくてな。貴様らは社交界にこの醜聞が広まらぬよう火消しをして回っているのだろうが、ご令嬢みずから王城に愁訴に来ては元も子もないな。――ともかく、妹御は馬丁と一緒になりたいと言っているんだ。さっさとそうしてやれ。そうでなければ、子までなした姫を乙女と偽り王子に売り込んだとの噂が宮廷に広まっても、いたしかたがないだろうな。何しろそれは根も葉もない〝噂〟ではなく、真実なのだから」
デリオスの額が脂汗でてらてらと光る。
「し、しかし、それが真実だという、証拠は……」
「証拠ならいくらでもある。貴族の醜聞は外つ国に漏れれば国の一大事にもなりかねないからな。もちろん調査させて裏は取ってあるし、嗅ぎつけた者には口をつぐむよう強く言ってある。なにより、妹御が一番の証人だろう。違うか?」
ぎ、ぎ、ぎ、とぎこちなく敬礼したデリオスに、ゼファードはうなずいた。
「そう、去るのが賢明だ。それから貴様には関係のないことだが、一つ誤解のないように言っておく。俺がどの家の令嬢を娶ろうと、その家門をひいきにするつもりも天領を分け与えるつもりも爵位を授与するつもりもさらさらない。それらを期待している者たちには悪いが、家門の子女を俺に差し出しても何の得もない。もしも勘違いしている友人でもいれば教えてやれ」
ようやく、デリオスが去った。