29、試練
喉元まで飛び上がった心臓をおさえながら振り返ると、そこにはセリスティンが立っていた。
夜会のために正装したセリスティン・ヴァレンは、頭からつま先まですべてが完璧だった。一つに束ねた銀髪が濃紺のヴェストコートにかかり、上着に留めた準貴族証とともにきらめいている。研究者らしく衣装の色味は大人しくまとめ、そのかわり靴の留め金に小さな宝石をつけている。アーラは以前彼が商家の生まれで、首席で学院を出たことにより準貴族の身分を賜ったのだと聞いていたが、生まれつきの貴族よりもよほど立派に見えると思った。
声の主が彼だったことに心からほっとする。しかし安堵した直後、彼に少女が寄りそっているのを見とめてアーラは小さく息をのんだ。
「いやあすばらしいよアーラ! 化けるもんだね。いっつも地味な格好してるものだから、見違えたよ。あのへんでたむろってるおばさんたちみたいなけばけばしいなりをしろとはいわないからさ、君も普段もうちょっとかわいい服着たら? 女の子は清く正しく着飾るべきだ。目の保養になる。……ところで殿下やジルはどこ?」
まくし立てられてアーラはたじろいだが、正直に、ゼファードとはぐれてしまったこととジルフィスは筆頭騎士の務めが終わらないのかフロアで見かけていないことを話した。セリスティンは形のよい鼻を荒っぽく鳴らし、つんと顎をあげて憤った。
「まったく、エスコート相手をほっぽっといて殿下はどこをほっつき歩いているんだ! 殿下のくせに紳士の風上にも置けないよ。ジルもジルだ、かわいい妹を一人にしたら飢えた野郎がうぞうぞ寄って来るってことくらいわかってるだろうに」
「ねえセリス。ところで、そちらのおかたは?」
焦れてアーラがたずねると、「ああこれ?」と彼は気軽に傍らの少女を指差した。
「そうか。アーラには紹介したことなかったっけね。えー……では、アーラ嬢、これは付属研究院高等研究員付助手にして僕のフィアンセのコルディア・クレーベ。コルディア、こちらが噂の、ゼファの従姉妹にしてジルの妹、今宵の夜会のひそかなる華、アーラ・グラントリー嬢だよ」
「お会いできまして光栄ですわ、アーラ様」
コルディア・クレーベと紹介された少女は、アーラに臣民の礼をとった。貴族ではないのだ。
――この子が、コルディア。セリスのフィアンセ。
じろじろ見るようではいけない。なめるように見られる不快感は、今夜だけですでに滅入るほど実感している。アーラはおのれを律して、あわてて視線を落とした。それでも少女の美しさと容姿は網膜に焼きついていた。
コルディアは、絶世の美貌のセリスティンと並び立っても霞まぬ美少女だった。大きな瞳はぬばたまの黒で、間違いなく生来のものらしい睫毛は驚くほど長い。ふわふわと波打つ黒い巻き毛はたっぷり垂れ、一部編みこんだところに赤い花が挿してある。身の丈は小柄だがはっきりした顔立ちと目の輝きは、気の強さと聡明さをうかがわせた。
そして何よりアーラにとって印象的だったのは、彼女の肌の色だ。多くのグランヴィールの人々に比べて色が濃い。熟れる前のオリーブのような、濃い蜂蜜のような、美しい黄褐色。浅黒いともいえるが、おそらく日焼けとは違う。深い襟ぐりからのぞく豊かな胸も華奢な肩もすべらかなオリーブ色で、全身が黄金や琥珀でできているかのようだ。
アーラの戸惑いを察したのか、それともこのように見られるのに慣れてしまったのか、コルディアはにこりと笑った。皮肉の笑みだ。
「これでもわたくし、グランヴィールの市民権を持っていましてよ。ちゃんと戸籍もあります。それでも、皆様やはりこの肌に驚かれますわ。レモン水を塗ると白くなれると聞きましたのに、とんと効果が出ませんの」
「つっかかるなよコルディア。アーラは君をさげすんでるわけじゃないんだ。アーラは殿下にとって降ってわいた賜りものであって、腐った卵みたいに香水臭さを撒き散らすご令嬢じゃないんだよ。むしろ君たちは〝同じ〟なんだから、仲良くやれるに決まってる」
――同じ? なにが?
コルディアも意味するところがわからなかったらしく、愛らしく小首を傾げ、セリスティンとアーラを見比べた。アーラはセリスティンが口をすべらしたのか、わざとコルディアにアーラの正体を匂わせたのかはかりかねて、はらはらしていた。
やがてコルディアは一人で納得したようだった。
「もしかして、彼女もユンナの?」
「シッ!」
セリスティンが唇の前に人さし指を立てる。目つきはするどくなり、彼は狼のようにすばやく周囲をうかがった。
「そういうことは、わかってもこういうところで口にしちゃいけない。後日時間をつくって、ちゃんと種明かしをしよう。きっと君たちはいい友達になるよ。アーラも知り合いが野郎ばっかりでつまらなかっただろう?」
アーラはコルディアを見た。コルディアも大きな目でアーラを見ていた。とても美しいのになにやら事情を抱えているらしいこの少女のことを、アーラはもっと知りたいと思った。
けれども、今宵それはかなわなかった。
突然、セリスティンの表情がけわしくなった。眉間に皺が三本も刻まれている。
「どうしたの?」
「厄介なやつが来るよ」
アーラが彼の視線の先をたどると、若い男が一人、こちらへ近づいてくるところだった。コルディアも眉根を寄せてセリスティンの腕をとり、セリスティンはわずかに歯軋りした。アーラには、近づいてきた若者が貴族で、どうやらありがたくない客らしいということくらいしかわからなかった。
「おやおやセリスティン・ヴァレン、王子殿下の従姉妹の姫君の前で鉢合わせるとは奇遇だね」
若い男は癇に障る笑みを浮かべてそう言った。アーラの本能が「こいつはろくでもないやつ」だと告げている。
「姫君へのあいさつは終わったかい? それならお次は僕にゆずっておくれ。僕もこの美しい姫君にお見知りおきいただきたいのでね」
セリスティンは殴りかかりでもしそうなほど険悪な表情で、コルディアを伴ってアーラのそばから去っていった。準貴族のセリスティンは宮廷のルールとして、貴族の紳士が現れたなら快くその場を譲らなければならないのだ。アーラは海に放り出されたのに、救命胴衣をもぎ取られたような心地がした。
男のにやついた顔は、正視にたえなかった。耳の奥で警鐘が鳴る。
「僕はジュビス侯の次男、デリオス。あなたは王子殿下の従姉妹君、アーラ様でいらっしゃいますね? こうしてお会いできまして望外の幸いです」
アーラはこの男に手をとられ、たとえ手袋の上からでも口づけられるのがたまらなく嫌だった。何とかして逃れる方法を探そうと、疲弊した頭に鞭を打った。しかし何も浮かばない。
手にふれられて、思わずアーラは身を引いた。デリオスと名乗った男の顔に翳がよぎる。
「ごめんなさい、立ちくらみをしましたの。夜会などはじめてなものですから」
アーラの言い訳をきいて、男の顔ににやつきが戻った。
「そうでしょう。初めてのときは、そんなものです。よろしければ僕がいろいろとご案内しましょう。気分が悪いなら、夜風に当たるのがいいですよ」
手首をにぎられ、引っぱられた。たたらを踏んだアーラの腰に、デリオスの手がまわる。ぞっとした。そのままこの男が目指す夜の庭に連れ出されたら、助けなど呼べなくなる……。
「申し訳ございません。私、兄と待ち合わせをしているんです」
「筆頭騎士殿には、あとから僕が言っておきますよ。まずは庭に出ましょう」
屈辱と怒りと気色悪さが我慢の限界となり、それが爆発するに任せアーラが満身の力でデリオスを振りほどこうとした、そのとき。
肩が、すっと温かな手のひらで包まれた。