28、お披露目
グランヴィールにおける夜会には、アーラが映画や絵画で見たことのある近世ヨーロッパ社交会ほどのきらびやかさはなかった。ベルサイユ宮殿の鏡の間のようだったら目を回すかもしれないと危ぶんでいた彼女は、ほっとした。
壁は金箔の黄金色ではなく象牙色で、鏡がそこかしこに張られているわけでも、神話の神々が極彩色で描かれているわけでもない。シャンデリアもダイヤモンドが束になっているような代物ではなく、真鍮の台座にキャンドルが並んでいるだけだ。
しつらえははなやかだが、異常なほどの装飾はない。上流階級が搾取し過剰に飾り、平民が飢えていたというアーラの知る世界史とは違い、グランヴィールの王はある程度わきまえているようだった。
一言で言えば趣味がよいのだろう。しかしせっかくの音楽もご馳走も蜂蜜色のシャンパンも、アーラは満足に味わえはしなかった。
――疲れた。不毛だ。めんどくさい。
外見はどうにか繕うことができても、本心は偽れなかった。アーラは心の中で嘆息した。
――目が痛い。足が痛い。人口密度が異様に高い。皆無駄に口が回る。それなのに一つとして臣民のための実のある話はない。……まったくなんて非生産的なの!
次から次へと、客人が津波のようにアーラたちの下へ押し寄せてきた。目の前においしそうに輝いている料理を横目に、アーラは顔の筋肉を酷使して微笑みを浮かべ、サテンの手袋をしているとはいえ手への口付けを初対面の男性にも許さなくてはならなかった。ゼファードが男性客の連れの女性の手をとって口付けたなら、アーラもそれを許さなくては大変な失礼になる。
――はやくお風呂に入って寝たいわ。
客人の襲来をいち早く察知できるようあたりに気を配りつつ、アーラは胸のうちでぼやいた。無論、そんなことができるはずもないとわかりきっているのだが。
この夜会はゼファードのためのものだが、おのずと王子が従姉妹をお披露目する場にもなってしまった。昨日ベッドにはいる前に覚悟は決めたつもりだったのに、アーラは早くも崩れかけそうな自身の限界を叱咤し、保とうとした。
甘いシャンパンをちびりちびりとなめながら、アーラは傍らのゼファードを見た。当然このような夜会に慣れているらしい王子殿下は堂々としていて、余裕すら感じられる。
「疲れたか?」
唐突に訊かれて、アーラは反射的に答えてしまった。
「いいえ、大丈夫」
皮肉の一つでも言えればよかったのだが、ゼファードとは違い、あいにく今のアーラはそのような余裕を持ち合わせていない。虚勢を張り、虚構の笑顔を貼り付けて、虚像の姫君を演じるだけでせいいっぱいだった。
来る人来る人、誰もがアーラに興味津々という思いを懸命に隠そうとして、失敗していた。アーラを不躾にならないよう――しかし充分アーラは値踏みされているのを感じた――観察しながら近づいてきた客人たちは、まずゼファード王子に慇懃に挨拶をした。貴族社会など知る由もないアーラが聞いてもありきたりに聞こえる陳腐なものだ。その後さりげなさを装って(もちろんそのさりげなさがわざとらしかった)、「このお美しく可憐なご令嬢はどなたですか」と問うのだ。
――お美しくて可憐? お世辞にもならなくて虫酸が走るわ。もう少し独創性があってお世辞とわからない褒め言葉を考えてみなさいよ。
月並みな美辞麗句に辟易しながら笑顔を保ち続けるのは、至難の業だった。だがなんとか、アーラはこれまでそれをやり遂げていた。引き受けたこと、自分がやり遂げると決めたことを途中で投げ出すのは性に合わない。胸の内側でどんなに愚痴をこぼそうが、相手を罵倒しようが、表面はそれなりにつくろって自身が及第点を出せるところまでもっていくのが彼女だった。
――でもさすがに、疲れが顔に出始めたかもしれない。
何しろ、今日は朝から夕方まで丸々支度に費やさねばならなかったのだ。
明朝一番にできあがってきたガウンの試着のために叩き起こされ、鯨骨入りコルセットをつけられそうになったところを頑として拒んだ。渋る女官に布製の胴着しかつけないと宣言したものの、それでも胃腸がよじれるかと思うほど締めあげられた。胴着をいつになく強く締められたせいで相対的に胸周りが大きくなり、きつくなってしまったガウンの襟元をなおしてもらわねばならなかった。
試着の後は、語り手として初めて王城に連れてこられた日のように、洗濯物のごとく洗われた。髪をとかされ、全身に花の匂いがするクリームをすりこまれ、爪が磨かれた。アーラは、夜会やパーティのたびにこのような扱いを受けるのだろう世のご令嬢に心から同情した。そしてすぐに自分もそうなる運命だと思い出して、気が遠くなった。
着付けと化粧、髪結いがすみ、出かける前からアーラはすでにげっそりした心持ちだった。それでもゼファードと最後の打ち合わせをし、表情を放棄したい顔の筋肉に鞭打って、なんとか微笑みらしいものを浮かべて入場を果たしたのだ。
国王陛下に拝謁し、遠目ながらこれから戸籍上〝実の親〟となるグラントリー公に目線で会釈をし、十組ほどの客と挨拶を交わした。
――……疲れるはずだわ。
シャンパンの甘さに、思わずほうっと息がもれる。その気配を察して、ゼファードは「疲れたか?」と訊いたのだろう。
アーラは「いいえ」と答えた端から、目を閉じてこめかみをもんだ。読書が趣味のおかげで目が疲れやすく、視力は決していいとはいえないが、裸眼でも生活に支障はない。眼鏡が自分に必要ではないことに、こちらへきてからアーラは何度となく感謝した。グランヴィールにも眼鏡は存在するが、とても高価なのだ。
「目が痛いのか?」
ゼファードの口調が、思いのほか心配そうだった。
「目が疲れただけよ。着飾った人たちが視界でちかちかするの。夜会って、いつもこんなふうなの?」
「こんなふうだな」
アーラはげんなりした。
「気が滅入るわね」
「ふつう、令嬢というものは夜会では気が浮き立つらしいぞ」
「あいにく、私は生粋のご令嬢ではございませんので」
小声で答えると、ゼファードの唇の端がやや持ち上がった。
「皮肉が言えるだけの元気は出てきたか」
アーラが肩をすくめたとき、楽団がこれまでと違った音色を奏でだした。
「ダンスが始まる。練習の成果を見せろよ」
年長の紳士淑女は波のように壁際へと引いてゆき、中央フロアには若者と、年齢不詳の若々しい男女が残された。
緊張に体をこわばらせながら、アーラはゼファードと踊った。想像していたよりもゼファードのダンスが上手いことにアーラは驚いた。
「肩の力をぬくんだ。手首も硬い。男がよほどの下手じゃない限り、素直にリードされて踊ればいい」
そうはいわれても付け焼刃のアーラにとって、ダンスについていくだけで神経も体力も削り取られた。
楽曲の区切りがついたとたん、ゼファードが目でうなずいたかと思うとアーラのとなりにいた女性の手をとった。と同時にアーラの前に新たな男性が現れ、まごつく間もなく手と肩に触れられた。パートナーを次々に変えて踊らなくてはならないのだ。
――ジル、どこ?
練習のとき、一緒に踊り続ければいいといってくれたジルフィスの姿を探したが、見つからない。ゼファードも紳士淑女の中にまぎれてしまった。
ようやく楽曲がダンスの終わりを告げても、アーラはゼファードもジルフィスも見つけることができなかった。さすがに心細くなって、談笑している人々から離れ壁際に寄る。
自分からすすんで二人を見つけにいけるほど、ガウンの裾さばきにも人への応対にも自信がなかった。下手に行動を起こして迷惑をかけぬように、おとなしく待っていたほうがいいだろう。
寂しさと心もとなさが出てしまわぬように、なけなしの気合いをかき集めて表情を引き締め、アーラはたたずんでいた。
――一人のときに、誰からも話しかけられませんように。
祈ったそばから、声をかけられた。
「アーラじゃないか!」