27、夜会
胸をちりちりとかきたてる弦楽の調べ。金管が時に小鳥のように、時に森のため息のように、はなやかに穏やかにいろどりゆたかな音色をふりまく。
白と黒の大理石で抽象的な羅針盤がえがかれたフロアでは、グランヴィール中の紳士淑女が衣装と歓談の花を咲かせていた。
ついに、〝ゼファード王子殿下の妃候補を選ぶための夜会〟が始まったのだ。
ジルフィスは許されるものなら、今すぐ職務を放棄してアーラのところへとすっ飛んでいきたかった。アーラは無事入場を果たし、王子のエスコート相手という大役の第一幕を終えて、今はシャンパングラスを手にほっと一息ついているように見える。
星が輝く宵の空のような藍色のドレスが、色白のアーラの肌に素晴らしく似合っていた。普段ならひとつに束ねるか背に流しているかの黒髪は、心得ある女官の手によって生まれつきの巻き毛のように軽やかに波打っている。それを左耳の上でゆるくまとめ、白と青の生花が飾られていた。
ただでさえ年齢よりも若く見える丸顔の彼女だが、今宵は薄桃色の紅を唇にのせられて、それがまた初々しかった。ふだんアーラが紅をつけているところを見ないジルフィスの目には、なおさらだ。彼女が心配する必要などなく、充分二十歳のデビュタントで通じるだろう。
――似合ってるよって、夜会の前に言いたかったな。
ついもらしそうになるため息を、ひそかに胸のうちで消化する。
筆頭騎士であるジルフィスは、近衛隊長とともに王の左右に控えていなければならなかった。グランヴィール王は雛壇の一番上の座に深く腰かけてくつろぎ、息子と、突如出現した姪の様子をそれとなく眺めている。しばらくすればクオードと交代になるが、それまでに流れる時間が鉛のように重く、遅く感じられた。
――ゼファのやつ、アーラをいやな目にあわせたらしばいてやる。
ジルフィスが雛壇から見ているかぎり、ゼファードはあいさつに訪れる人々に思いのほかきちんとアーラを紹介しているようだった。アーラも生真面目に、昨日習ったとおりの流儀で応じ、切り抜けてきた。彼女が休める時間が、少しでも長いといいのだが――そうジルフィスが考えていたそのとき。向こうのテーブルからゼファードとアーラを目指して、新たな客がやってこようとしているのが見えた。
「ジルフィス、めずらしく落ち着きがないな」
ささやき声にぎくりとした。平静をよそおってうかがうと、グランヴィール王が灰色の瞳をきらめかせてにやりと笑んでいる。
「〝妹〟のことが、心配か?」
「デビュタントの妹を心配しない兄など、いないでしょう」
ジルフィスが答えると、王は愉快そうにのどの奥を鳴らした。
アーラの経緯については、あらかじめ王に報告してある。グランヴィール王は、息子がひそかに手もとに留めたときからその語り手に興味を持っていた。ジルフィスがどんなに彼女が優れているかを何度となく熱く報告したためか、王は降ってわいたような姪の出現を面白がっているようだ。
「ずいぶんと気に入っているんだな。見たところ、おぬしがこれまで咲かせてきた恋の噂の相手にはとうてい及ばぬのではないか? たいした美人でもないようだが」
からかわれているとわかっているものの、ジルフィスは面白くなかった。何もアーラが美人だから気に入ったわけではない。
「かわいいんですよ、アーラは。鼻先より長い付け睫毛をしてきつい香水をぷんぷん匂わせている中身のないご令嬢どもとはわけが違います。彼女はとても頭がよくて、気配りができて、でも心のよりどころがないから……守りたくなるんです」
「ほおう?」
グランヴィール王の片眉が上がる。
「どこの馬の骨とも知れない娘なのにか?」
「彼女はグラントリーの娘ですよ、陛下」
「知っている。だが、私が許したわけではない。ゼファードとサリアンが勝手に決めたことだ。あの娘が何か不都合な始末を犯した場合には、だれがどう責任を取る?」
ジルフィスはわずかに首をすくめた。
「アーラに限って、取り返しのつかない過ちをしでかすことはないでしょう。しかし万が一そんなことがあったなら、俺が喜んで責任をとりますよ。二人仲良く追放でも何でもしてくださって結構です。ただそうなれば、ゼファも陛下も筆頭騎士を失うことになりますよ」
王は可笑しそうに目を細め、息子と共にいる〝急ごしらえの姪〟を見た。
「とんだ〝兄馬鹿〟だな」
「なんとでもおっしゃればいい」
「あの娘に、そんなに価値があるのかな?」
王の目に皮肉めいた色が浮かぶ。
「ヴァーディス側にしてみれば、つつき甲斐のある材料ができたとほくそ笑んでいることだろう」
「彼女は、ヴァーディス殿下に対抗する力にもなり得ます」――そう言い返したい気持ちを、ジルフィスは答えた。アーラがゼファードやセリスティンに異世の文字を教えているという事実は、王にも知らせていない。
グランヴィール王が末弟ヴァーディスではなく、息子のゼファードを跡継ぎにしたいと考えているのは間違いなかった。しかしゼファードを全面的に支援しているかといえば、そうではない。王と末弟の兄弟仲もはたから見て麗しいとは到底いえないが、息子のために弟を廃そうという動きはなかった。ゼファードがおのれの裁量で対抗勢力を抑えられぬのなら、王にふさわしい器ではないと言いたいのかもしれない。
「クオードが来たぞ。ジルフィス、待ちに待った交代の時間だ」
王は笑いを噛み殺しながらジルフィスに告げた。ジルフィスは何も言わなかった。ただ王に臣下の礼をとって頭を下げ、クオードの肩をたたいて雛壇から下りた。
人ごみがうらめしい。顔を知っている令嬢に失礼にならない程度に軽くあいさつし、おのれの魅力を知り尽くしている未亡人の流し目を受け流し、ジルフィスは急いだ。
人々の歓談の輪を抜けると、ようやくアーラの姿が見えた。先ほどの客への紹介はすんだようで、アーラはゼファードと何やら小声で話している。
二人に声をかけようとしたそのとき、突如楽団がはなやかな調べを奏で出した。ダンスのための楽曲だ。
フロアにひしめいていた人々のうち、年長者は左右の壁際へと割れ、若者は中央に残って男女で向かい合った。
ゼファードはごく自然にアーラの手をとった。ジルフィスがどうしようかと考える間もなくダンスは始まり、ペアを組んだつもりもないのに、流行のガウンを隙なく着こなし全身に気合がみなぎっているどこぞの令嬢が彼の手を捕らえていた。
ダンスは一区切りごとにパートナーを変える。ジルフィスは次の区切りでアーラにたどりつけるよう、進行方向の判断に神経を集中した。