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26、あいさつの流儀

 はたから眺めたならおそらく、彼は冗談どころか、流れるような動作で女性の手に口付ける「王子らしい王子」に見えるのだろう。

――相手が貴婦人ではなくて私なのが、滑稽だけど。

 だが、彼は女性の名を呼ぶことすら避けて通るゼファードなのだ。臆面もなく慣れた様子でふるまうこのさまは、冗談でなければ何だろう? 

 アーラはぽかんとあけてしまっていた口をかろうじて閉じて、唇を離したばかりのゼファードを見つめた。

「殿下。ひとつ、うかがいましてもよろしいでしょうか」

 ゼファードは長い睫毛をまばたいて、アーラを見返した。

「なんだ?」

「女性の名を呼ぶのも恥ずかしいとおっしゃる殿下が、手に口付けるのはなんともお思いにならないのですか」

「そうはいっても、これがあいさつの流儀なんだ。ふつう紳士は淑女の手をとって口付け、淑女はあいているほうの手を自分の胸において膝を曲げる。親しくない間柄なら、紳士はこぶしを腹につけて頭を下げ、淑女は両手をおろしたままただ膝を曲げる」

 彼にしてみればアーラが疑問に思うことが疑問らしかった。

「それから、その持ってまわるような堅苦しい言葉遣いはやめたほうがいいな。ジルの妹なら、幼い頃から俺と面識があってもいいはずだ。兄に倣ってもっとくだけた話し方をしろ。ジルはくだけすぎているきらいがあるが」

「ご命令ですか?」

 アーラが思わず顔をしかめて訊くと、ゼファードはそうされたことが意外だったようできょとんとしている。

「おまえはもうずいぶん前から、ジルやセリスとは親しいふうにしゃべっているじゃないか。どうしてそれが俺にはだめなんだ?」

「殿下はジルやセリスとは違って第一位の継承権をお持ちの王子でいらっしゃいます。けじめというものがありますでしょう?」

「だがその王子の従姉妹になるんだぞ、おまえは」

 それはたしかにそうなのだ。アーラはため息をついて、こめかみをもんだ。

「ご身分のある女性は、たとえ血縁であろうとくだけた話し方などなさらないのではないですか?」

「血縁の女性がいないからわからないな、俺には」

 ゼファードの答えを聞いて、アーラは気まずくなった。そういえば母君である王妃はずいぶん前に亡くなっている。傷つけるようなことを言ってしまったのだろうか。

 助けを求めるような気持ちで隣のジルフィスを見上げると、優しく肩をたたかれた。

「ゼファ、おまえはもっとアーラの気持ちを汲むべきだ。突然おまえの従姉妹にされてただでさえ混乱してるってのに、アーラは引き受けたからにはちゃんとやろうって、努力してるんだぞ。ダンスの練習もしたし、勝手に捏造された過去も覚えた。それなのにゼファがああしろこうしろって次から次へと言うんじゃ、いくら人間がよくできてるアーラだってたまらないに決まってるだろ」

 ジルフィスに指摘され、ゼファードは大いに困惑したらしかった。

「俺は、ただ……」

 群青の瞳は勢いを失って、気まずそうにアーラを見ている。

 言葉も手のひらもあたたかいジルフィスとは異なり、王子の態度にも口調にも思いやりは感じられないが、彼にはまったく悪気がないということはアーラにもわかっていた。

――不器用で損な性格なんだ、このゼファード殿下は。

 政務には至極真面目で平民出身の官吏たちからの信望も厚いようだが、ジルフィスとクオード、それにセリスティンのほかに〝友人〟の姿を見たことがない。一段上のところから指示をし、王族にふさわしい情けをかけ、鶴の一声を発すれば事足りたゼファードは、きっと人づきあいが下手なのだ。

 ゼファードはゼファードなりに必死に言うべき言葉を選んでいるようで、アーラは辛抱強く待った。

 ようやく、彼は口を開いた。

「……俺はただ、おまえともっと打ち解けて話がしたいだけだ。おまえが俺をうらみに思っているなら、いくらでも詫びよう。それに、俺も……おまえのことを名前で呼べるように、努力する」

「へえ?」

 ジルフィスが挑発的な声を上げた。

「だからアーラにも『くだけて話すよう努力しろ』って、命令するのか?」

「ちがう。そうじゃない」

 ゼファードはジルフィスをにらんでから、アーラに目を向けて、言った。

「本当の従姉妹のように、親しく俺と話してくれるか? アーラには、殿下ではなくて、ゼファと呼んでほしいんだ」

 勇気を振り絞りでもしたかのように語尾が震えたのが可笑しかったが、アーラは笑わない努力をした。それでも最後にはやはり、少し笑ってしまった。

「わかったわ」

 ゼファードは明らかにほっとしたようで、表情がゆるんだ。ジルフィスは面白くなさそうに腕組みをする。今日のジルフィスは、従弟を見る目がどことなく冷たい。

――この二人、知らないあいだに喧嘩でもしたのかもしれない。

 今度はジルフィスもまじえて、さまざまな場面におけるあいさつのやりかたを教わった。国王陛下への礼、式典で頭を下げる角度、女性同士でかわす礼、年長者に対するお辞儀の深さ、などなど。

 それが終わるとアーラとジルフィスはゼファードのもとから退室し、アーラは明日に備えて早々に眠ることにした。先ほど練習したダンスからグラントリー公の娘としての過去、そして今習ったあいさつの仕方が頭の中でぐるぐる渦を巻いている。目が冴えてしまわないといいのだが。

「ねえ、ジル」

 あてがわれた客室の前で、アーラはジルフィスにたずねた。

「ジルと殿下って、喧嘩でもしたの?」

「どうして?」

「なんだか、様子がおかしかったから」

 ジルフィスは苦笑いをしただけで何も教えてはくれなかった。そのままアーラの手をとり、中指と薬指の関節にゆっくりと口づけた。

「おやすみ、アーラ。明日の心配はしなくていいよ。俺がついてる」

「うん……ありがとう。おやすみなさい、ジル」

 アーラも胸に手を当てて膝を曲げて応じた。淑女の礼だ。

 ジルフィスは微笑んで、今度は関節ではなくアーラの指先にそっと唇で触れた。そのまま振り返らずに彼が帰ってしまったので、指先に口付けるのはどんなあいさつの意味なのか、アーラはこの日わからずじまいだった。

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