24、ダンスの時間
ジルフィスがつれてきてくれた舞踏室は、想像していたよりもせまく、シンプルだった。
それでも壁の一面は総鏡張りで、照明が反射して明るく、奥行きがあるように錯覚させる。
部屋の隅にクモの巣が張っているのに気がついて、アーラは思わず眉をしかめた。
「ここは誰も使わないから、ドアを開けておいても見つかる心配はないよ」
クモの巣が張っているくらいだから、本当に使われていないのだろう。
ジルフィスはドアの下に燭台をもたせかけて、勝手に閉まらないようにしていた。女性慣れしているようで軽薄そうに見えるのに、実は律儀で気配りのできる人だということを、アーラは知っている。
二人きりのとき密室にならないようドアを開け放しておくというやり方を、アーラは大学時代にゼミの先生から教わった。アーラ自身は、論文の添削をしてもらうときに先生と二人だけになってもまったく気にしなかった。けれど「気にする子がいるし、こういうのは誠意だからね」と言われて、なるほどと大いに納得したものだ。ドアを開けておいたなら叫べば声が外に聞こえるし、万が一のときに逃げられるという安心感が湧く。
セリスティンはジルフィスの花街での武勇伝を面白おかしく聞かせてくれるが、優しく、さりげない気配りができるジルフィスなら、女性の人気を得るのは当然だろう。
突っ立ったまま舞踏室とジルフィスとを観察していたアーラに、彼はにっこり笑いかけた。
「音楽がないのが残念だけどね。リズムの取り方と一通りのステップを覚えれば、まあ、あとは何とかなるだろ」
「私の運動神経には期待しないでね。でも、この役を引き受けたからには、ジルや殿下に恥をかかせないように努力するから」
「アーラなら大丈夫だって」
あざやかな藍色のドレスは明日の朝一番に仕上がってくるとのことで、アーラはすでに地味なワンピースに着替えていた。足もとも今は鹿革の短靴だが、本番では刺繍がびっしりとほどこされた、かかとの高い舞踏靴を履かなければいけないと思うと気が重い。
手招きされて、アーラはジルフィスに言われるがまま鏡の前に立った。
姿勢の注意を受け、構え方を教わる。長身のジルフィスと並ぶと、頭ひとつ近く違う自分の身長が恨めしい。
――あと五センチ、あったらな。
一時間ほど練習をして、普段使わない筋肉が悲鳴をあげ始めた頃。ジルフィスは休憩を入れてくれた。鏡にもたれて座り、アーラは膝をかかえた。
「夜会で一曲だけ踊ったら、おとなしく紳士淑女を見学することにするわ」
足を踏まないよう気をつけるだけでせいいっぱいになりそうだ。やるからにはそれなりの形にしてのけたいのに、あまりにも練習時間が足りない。
「そんなのもったいない。俺がリードするから、一緒に踊り続けていればいいさ。……兄妹がペアを組むのは、ぜんぜん不自然じゃないんだから」
すぐとなりで片膝を立て座っているジルフィスを、アーラはまじまじと見た。
狐色の髪に金褐色の瞳。凛々しくも、どこか甘やかな面立ちと、筆頭騎士の名にふさわしくしなやかに引き締まった長身は、貴婦人たちの注目の的だろう。いくら妹を名乗るとはいえ、そんな人を自分が独占していてよいはずがない。
「ねえ、ジル」
「ん?」
「本当にごめんなさい」
「何が?」
「急にこんな世間知らずの妹ができて、迷惑でしょう。いくら殿下がそうするように望まれたとはいえ、私はどうにか理由をつけてお断りすべきだったのかもしれない。……こんなにお荷物で、ごめんなさい」
アーラが頭を下げると、ジルフィスの手のひらがそっとアーラの髪をなでた。
「それはアーラがあやまることじゃないよ。あいつらが勝手に決めて、アーラに押し付けたんだから。むしろ、ゼファとクオードがアーラにあやまるべきだ」
アーラが顔を上げると、こちらを見ているジルフィスは本気でゼファードたちのことを怒っているようだった。
「あいつらが考えた君の過去だって、むちゃくちゃなんだ。聞いたかい?」
「ううん、まだ。殿下があとで教えてくださるらしいけど」
ジルフィスは怒りを鎮めようとするように大きく息をついて、アーラに向きなおった。
「今回つくられる戸籍では、アーラの年齢は二十歳だ」
「は、はたち?」
思わず耳を疑った。成人式など、遠い思い出になりつつあるというのに。
「どうして? たしかにそれは無理があるわ。六歳も年齢詐称だなんて!」
「いや、アーラなら充分二十歳でいける。十八といっても不自然じゃないさ」
たしかにグランヴィールの人々の感覚では、幾分彫りの浅い顔立ちのアーラは幼く見える、らしい。
「戸籍、二十六歳じゃ駄目なの?」
「親父は愛妻家なんだ。貴族の常識では愛妾愛人が何人いてもおかしくないが、親父はおふくろ以外に見向きもしない。でも、親父の金髪とおふくろのブルネットではアーラのような黒髪は生まれない。つまり、正妻のおふくろ以外の女に生ませた子どもが君だという設定になる」
「でも……そういうことがありえないくらいの、愛妻家でいらっしゃるんでしょう?」
「ああ。だから、親父の精神状態が普通じゃなかったときに……まあ、そういうことがあったことにするわけだ」
ジルフィスの視線がわずかにさまよったのを見てとって、アーラは首をかしげた。
「誠実で実直を人型にしたようだといわれるグラントリー公でも、そのようなお心持ちになられたことがあるの?」
「あるんだ。二十年前、俺が七つになったばかりのころ。俺が人攫いにあったとき、親父もおふくろも半狂乱だったらしい。ゼファいわく、そのときにご主人様をおなぐさめしようとした女中とのあいだにできた子が、アーラなんだってさ」
アーラは自分が騙るべき荒唐無稽な過去よりも、「人攫いにあった」というジルフィスの事実のほうが衝撃だった。
「ジルはそのとき攫われて、大丈夫だったの?」
「大丈夫だったから、ここにこうしているんじゃないか」
彼の手がアーラの髪をくしゃくしゃにした。その手のひらは頭から頬に下りて、ジルフィスは優しいまなざしでこちらを見つめていた。
「さて、と。練習を再開するか」
「……うん」
つとめて軽い口調で話し、安心させようとしてくれている彼のおかげで、アーラはあたたかい気持ちになった。
「お兄さんがジルで本当によかった。……クオードとかじゃなくて」
そう告げるとジルフィスはうれしそうに、それでいてどこか気まずそうに微笑んだ。