23、物思い
執務室に取り残されて、ゼファードは呆然としていた。彼が生まれるよりも前からこの部屋にあった書斎机に手をつき、何とか椅子に戻る。
息をつくと、耳の奥で脈打つ音とともに従兄の声がきこえた。
「グラントリーの家にアーラを入れるなら、貴族系統簿に戸籍を新しく作るより、ほかの方法もあるって知ってたか?」
はっと気がついて時計を見ると、ずいぶんのあいだぼんやりしていたようだった。ゼファードは額に手をあてて唇を噛んだ。
ジルフィスの台詞が耳から離れない。
「俺は、アーラを奥方に迎えてもいいと思ってたんだ」
普段なら陽気で、わざと軽薄さまでまとっている従兄が本気で怒ったのだ。しかもジルフィスの言葉はどれもまっとうで、間違っていなかった。
――そうだ。責められるべきは俺だ。
物見部屋に閉じ込めたときも後悔したのに、なぜ同じようなことを繰り返してしまうのだろう?
クオードのことがちらと脳裏をかすめたが、ゼファードはその影を振り払った。人のせいにするのはよくない。言い出したのはゼファード自身で、真実彼女が従姉妹の役を努めてくれれば都合がいいと望んだのだから。
末弟派を欺くために戸籍をととのえ、グラントリー公の娘としての過去を作り上げれば、彼女がこれから一生そのとおりに生きなければならないことはわかっていた。それでも、期限なく彼女の物語りや話を聞けるようになればゼファードもうれしいし、大きな屋敷に住み、誠実で公明正大な傍系王族夫妻を両親とし、一流の料理人の腕による料理と一級の仕立て屋の手による衣装に囲まれるのは、あまねく一般平民のあこがれだろう……そう考えてしまったのだ。
――あいつは、一般平民などではなかったのに。
今でも信じがたいことだが、異世から転がり込んだ娘なのだ。押収した帳面を調べた時点でセリスティンがそう結論し、何度も授業を受けるうちに彼女の話は真実だと断定されたのだ。
ゼファードはこれまで、さすらい人の語り手や吟遊詩人を呼んでその業を披露させたことはあった。なかなか興味深いものもあったし、執務の苦労を紛らわせることができたのも事実だ。彼らは褒美をもらって一様によろこび、もしくは更に吊り上げようとして頼みもしないのに追加のバラッドを歌った。そして金貨を放れば、後腐れなく去っていった。
けれどもアーラはそうではなかった。宿屋の手伝い娘だと聞いていたのに、喜んで金貨を受け取るどころか金と業の価値について述べ、自分が披露した物語りへの代価が「多すぎる」と口答えをしたのだ。
彼女の物語りは面白く、おだやかな語りも冒険の場面での生き生きとした目の輝きも、耳に心地よい声もゼファードは気に入っていた。彼女と打ち解けてしゃべりいろいろな話で笑い合えるセリスティンやジルフィスを、うらやましいとも思った。けれども彼女はいつでも自身をわきまえていて、ゼファードには丁寧な口調を崩さないのだ。
そこまで思い返したとき、ゼファードは不意に気がついた。アーラがジルフィスの妹になれば、ジルフィスのように自分と打ち解けて話すのも当然といえる。王子の従姉妹であれば、王子に軽口をたたいてもだれも不敬だとは思わない……。
――それに。
父王の言葉が脳裏に響く。
「グラントリーの家に娘でもおれば、一も二もなくおまえと娶せたのだがな」
グラントリー叔父に娘がいれば――ジルフィスに姉妹がいれば。王族間の婚姻なら、派閥びいきの貴族たちは表立って非難することはできない。
――あいつが、妃候補に?
なりうると気がついて、混乱した。
ジルフィスは、アーラを奥方に迎えたかったのだと言った。「アーラを利用するでも恩に報いるでもなくて、そばにいて、アーラのためにできることがしたかった」と。
――ジルフィスは、アーラを好いている。
懇意にしている花街の娘とは別の意味で。だからこそ、ゼファードとクオードが彼女をジルフィスの妹にする手続きを進めてしまったとき、あんなにも怒ったのだ。
――自分はどうだろう?
ほかにだれも聞く者はない。自分ひとりきりの執務室で、そっとつぶやいてみる。
「アーラ」
はじめて彼女の名を呼んだときの満足そうな、可笑しそうな微笑、故郷の文字を教えるときの懐かしそうなまなざし、慇懃な皮肉。思い返せばどれもゼファードの内側でざわざわとさざ波を起こす。だがそれが何なのかがわからない。ただ、幼い頃あこがれていた小間使いを慕う気持ちとはどこか違っているような。
だが先ほどのジルフィスの厳しい叱責が浮かび、ゼファードの物思いを打ち消した。
「できる限りのことをするって言ったって、役目を終えたあとの彼女を幸せにできるか? 王家とのつながりや地位を求めて砂糖にたかる蟻みたいに〝王子の従姉妹〟に下衆がたかっても、守れるのか聞きたいね」
――俺が妃に選べば、アーラを守れるだろうか。
しかしそんなことをジルフィスに言えば、それはアーラのためを思ってではなく責任を果たした気になりたいだけの自分勝手さだと責められるだろう。
たとえ、責任を果たしたいからだけではなかったとしても。