幕間
目の前には、この一年で書き溜めた物語の帳面が詰まれている。
高価そうな万年筆と飾り石がはめ込まれたインク瓶もあるが、アーラはまだそれらを使ったことがない。布を巻いた木炭で鉛筆のように書くほうが、ずっと気楽だからだ。
アーラはあてがわれている部屋の書き物机に頬杖をつき、思いきり大げさなため息をついた。そうすれば、少しは気分が落ち着くかと思って。
「傍系王族のご令嬢、ねえ……」
声に出してつぶやいてみたが、実感がわかない。
突然消えた娘を心配しているに違いない、実の両親の顔を思い浮かべる。平均よりは少々裕福かもしれないがそれでも一般的な家庭に生まれ育ったアーラにとって、市会議員でさえ別次元の存在のような気がしたものだ。
それなのに、自分は突然王弟閣下のご令嬢になるらしい。文字通り別次元のグランヴィールに転げ落ちてきたとはいえ、まさか自分がそのような上流階級に組み込まれることになるとは思いもしなかった。
だが、だからといって自分が悲嘆にくれているわけでもないことを、アーラは冷静に認識していた。
面倒で厄介なことに巻き込まれたには違いないが、〝こちら〟の世界――グランヴィールは所詮、アーラの世界ではないのだ。真実とは異なる戸籍かつくられようが、国王陛下の弟君の娘になろうが、〝あちら〟の両親や弟妹、友人たちの知るところではないし、〝あちら〟の戸籍が抹消されるわけでもない。しばらく行方不明になっていて捜索願くらい出されているかもしれないがけれども、それだけだ。しかもそれはアーラが〝こちら〟で宿屋の手伝いをしていようと令嬢にされようと、いっさいの関係がないはずだった。
引き受けたことがらさえ真面目にこなしておいたなら、いつか〝あちら〟へ帰るすべが見つかったときに、押し付けられたものを後腐れなく脱ぎ捨てていけるだろう。
もちろん、なぜ自分の身にこんな大きな面倒ごとが降りかかってきたのかは未だ納得できない。いと高きところにおわす方々の世間に入ろうものならおそろしく厄介で息も気も詰まるというのも、想像に難くない。だが、だからといって、嫌だ嫌だとわめいてどうにかなるものでもあるまい。
大切なのは恩人に――春の芽吹き亭のご主人夫妻に、迷惑がかからないようにすることだ。アーラは〝あちら〟に帰れたなら、クオードの爬虫類じみた冷たいまなざしで睨まれることなど二度とないが、グランヴィールに根を下ろして生きている人々は、そうは行かないのだから。
――本当に、クオードって嫌なやつ。
くすんだ髪と煙色の目を思い出すだけで、腹の底がむかむかとしてくる。
――「これは依頼でも提案でもない。命令です」? あんたに何の権限があって私に命令ができるというの。あんなの、王子殿下の権威をかさに着てるだけじゃないの。
ジルフィスは出会ったばかりの時から親切にしてくれたし、ゼファード王子は間諜の疑いをもって監禁したことを不器用ながら詫びた。しかしクオードは一貫してアーラに冷たかった。優しくされる期待などしていないが、どことなく敵意さえ感じることがある。
――私のことが気に食わないなら、お城からさっさと追い出してくれればいいのに。
そう思うのにクオードは、ゼファード王子の言葉より先回りするかたちで、グラントリー公の娘になることをアーラに承知させたのだ。少なくとも王子自身はまだ、「戸籍をつくらないか」と誘い、そうしてほしいそぶりを見せただけで、アーラに「命令」はしていなかったのに。
――王子様の希望だったら、クオードは何が何でもかなえるというの? そんなの、いつかどこがで無理がたたるわ。……まあ、〝あちら〟に帰ってしまえば、私には関係ないけれど。
帰る方法が存在しない、という場合は考えていなかった。
学生の頃までアーラは、まず最悪の事態を想定して、その対処法を複数用意しておかなければ安心して物事を始められない性質だった。しかしそのやりかたは、数年前にすでに放棄していた。
どんなに周到に準備をしても、なるようにしかならない。社会に出てから、そう学んだ。最悪の事態におびえて防御をめぐらすことばかり考えるよりも、なるようにしかならない範囲の中で、おのれの力で泳いでいけるかが問題なのだ。
だからアーラは、グランヴィールという見知らなかった世界でそれなりに泳いできた。一年たっても、帰る方法の手がかりの「て」の字すら見つからないが、悩んで立ち止まっていてもどうにもならない。泳ぎながらそのときさしかかった景色に目をこらして、見つけたいと望んでいるものを見つけるしかないのだ。
そんな考えを脳裏で展開しているとき、ふと自嘲する。「年食ったなあ」、と。
頬杖をといて立ち上がる。セリスティンから返してもらってからというもの、ずっと詰まれたままだったの帳面を引き出しにしまう。窓際に干しておいた枕をベッドにもどし、カーテンを閉めた。
――なるようにしかならない。できることしかできない。だから、目の前のできることからできるかぎりやって行こう。




