20、名を騙りて
ドアの向こうから声がかかる。
「殿下、お茶をお持ちいたしました」
アーラだ。
いつもならばゼファード付きの女官たちは、王子やその友人である騎士たちにお茶や菓子を運ぶ役を取り合って大さわぎするのだと聞いている。しかし今日ばかりはこの張り詰めてぎすぎすした空気を敏感に嗅ぎ取って、その空気の中に踏み込まぬほうが賢明と考えたものらしい。
とはいっても誰かがやらねばならぬことだ。彼女らは自分たちに火の粉が降りかかるのを恐れ、最近王子がどこからか拾ってきて緘口令を敷きひそかに住まわせている謎の娘――アーラにその役を押し付けたようだった。
「ああ、入れ」
ゼファードが応じると、アーラが焼き菓子とポットをのせたトレイを手に入ってきた。
くるぶしまである濃褐色のワンピースに鹿革の短靴。つややかな黒髪を背に流し、横髪は顔にかからぬように掬って留めている。いくら隠れ暮らしているとはいえ、寡婦や年増女官ではないのだから、もう少し華やかななりをすればいいと思うのだが。ゼファードが部屋のクローゼットの服を着てもかまわないのだと説明しても、彼女は受け取らなかった。王子専属の教師の給金がいったいどれほどの額か知っているか、ドレスやガウンの一枚二枚何でもないぞと彼が言うと、「私は雇われた教師ではございませんので」と皮肉を返されただけだ。
――やっぱり、俺を恨んでいるのだろうか。
それはそうだろう。いまさら悔やんでも詮無いことだが。
アーラはトレイ手近なテーブルに置き、ゼファードとクオードを見て「ああ」とうなずいた。彼女も、なぜ女官たちからこの役を任されたかを納得したらしかった。
「甘いものを召し上がれば疲れがとれます。少しお休みになってはいかがですか? 何のお話か存じませんが、しばらくすれば名案が浮かぶかもしれません」
優雅ではないが、慣れた実際的な手つきで焼き菓子をとりわけ、お茶を注ぐ。無駄に凝らないアーラのしぐさが、ゼファードは気に入っていた。
アーラが淹れたクラモン茶を飲み、粉砂糖がたっぷりまぶされた焼き菓子をかじりつつぼんやり彼女の横顔をながめていたゼファードは、突然ひらめいた。
「おまえ、戸籍がないといっていたな」
びくりと、アーラの肩が揺れた。だがゼファードはそのことで彼女を責めるつもりはない。
「心配するな。おまえがおびえるようなことじゃない。俺はおまえに、戸籍をつくらないかといいたいだけだ」
「戸籍を、つくる?」
いまさら? そう彼女の瞳が問うている。ゼファードはうなずいた。
「そうだ。ジルフィスの妹ととしての、おまえの戸籍をつくるんだ。アーラ・グラントリー……悪くないだろう?」
「つまり、殿下の従姉妹になれとおっしゃるのですか?」
飲みこみが早い。やはり下町の宿屋手伝いとして埋もれさせるのはもったいないと、改めてゼファードは思った。
「傍系王族だ。グラントリー叔父は信頼できるお方だし、奥方もすばらしい女性だ。おまえも身の振り方に悩まなくてすむ。一生食うにはこまらずに過ごせるぞ」
「春の芽吹き亭でだって、一度も食うにこまったことはありません」
アーラのまなざしがするどくなる。こちらが宿屋を侮辱したと思っているらしい。そんなつもりはなかったのだが。
「私はいまのままでも十二分に心苦しいんです。王城にこうしているだけで場違いで、税金で着るものや食べ物を用意してもらっていると思うとたまらなくて。それなのにさらに王族だなんて肩書きがついては、窒息してしまいます」
「大げさに考えなくていい。俺の伴侶が決まるまで、おまえが俺の血縁だとわかる名前で、夜会のときのエスコート相手を務めてくれさえすればいいんだ」
「畏れながらおことわりいたします。私に王族のご令嬢だなんて役が、務まるはずが」
「アーラ殿、これは依頼でも提案でもない。命令です」
突如響いた冷ややかなクオードの声に、アーラの体がこわばった。
――おびえさせるつもりはないというのに!
ゼファードはクオードに文句を言ってやりたかったが、先にクオードに、何も言うなとばかりに視線で釘を刺されてしまった。
クオードは、すべてを了解しているのだ。ゼファードがどんな思いつきから、アーラに戸籍の話を持ち出したかを。
「アーラ殿。あなたには明日の夜会に、王子のエスコートのお相手をしていただく」
「けれど私にジルフィスの妹役なんて無理に決まっています。私はジルみたいに整った顔ではないし、第一、髪の色も目の色もまったく違うのですから」
「髪や目の色がちがうのはいくらでも言い訳がききます。顔立ちも問題ではない。似ていない兄妹など掃いて捨てるほどいます。それから、否という応えは考えないでいただきたい。あなたがたのためにならないでしょうから」
あなたがた、というところを強調している。ゼファードは唇を噛んだ。名案だと自分で思ったのはたしかだが、これはただの思いつきで、彼女を傷つけたくはなかったのだ。
クオードの言葉に、アーラも唇を噛んでいる。彼女は宮廷の女性たちの多くとは異なり、脂のにおいがする紅を唇にのせていない。だから余計に幼く見える。不思議に思ってきいたとき、もともと血色がいいのだから蜂蜜をなめるだけで充分だと言っていたのを思い出した。その唇は蜂蜜で甘いのか、噛み傷で血の味がするのか、どちらだろう?
アーラが顔をあげた。そのときにはもう、唇を噛んではいなかった。
「私には、選択肢はないのですね」
「物分りがよいとたすかります」
つんと顎を上げるという、淑女にあるまじき作法でアーラはクオードを睨め上げた。
「少なくとも、納得してはいません。ただ、春の芽吹き亭のご主人やおかみさんに迷惑がかけることだけは許せないんです。ですからグラントリー公家の名を騙れとおっしゃるなら、そういたしましょうというだけです」
「名を騙るわけではありません。実際、そのものになるのですから」
クオードは薄い唇に勝利の笑みを浮かべて、ゼファードに向きなおった。
「尚書官にすみやかに、ごくひそかに書類をつくらせましょう。ジルフィスには後で伝えておきます」
「ああ」
「グラントリー公邸に早馬を走らせますか」
「いや……俺が行こう。俺が出向いてグラントリー叔父に許可を得るのが礼儀だろうから」
ゼファードが答えると、クオードは水を得た魚のようにすばやく部屋を出て行った。きっと夜会が始まるまでには、りっぱな戸籍が出来上がっていることだろう。
アーラ・グラントリーの。