17、お茶の時間
北部特産のクラモン茶に口をつけながら、ジルフィスはアーラを観察した。
今日も装飾の少ない濃色のワンピースを着ている。
王城にふさわしいドレスが何着も客室のクローゼットに準備されているのだが、アーラはそれらを頑として拒否した。彼女は女官たちに洗濯物のように洗われて、人形のように着せ替えられた紫のドレス以来、宮廷服に袖を通していない。
「私は隠されているはずなのに、そんな派手なかっこうができるわけないでしょう?」
貴婦人たちに人気のあるデザインのドレスをあれこれすすめるジルフィスに、アーラはそう言ったのだが、それだけが着ない理由ではないと彼は踏んでいた。
――〝ここ〟に属するものに、なりたくないんだろうな。
宿屋に……いや、転がり落ちてくる前のもといた故郷とのつながりを絶たないために、彼女はみずから線を引いて〝こちら側〟と自分とを隔てているのだろう。
もう一口、クラモン茶を味わう。
「おかわりはどう?」
アーラがポットを持ち上げて、ジルフィスに問うた。
アーラの授業が始まって、一週間がたった。
彼女は、身を隠しながらの王城暮らしもいくらか要領を得たようで、ジルフィスと話すときの表情もほがらかになった。
宿屋の主人夫妻のことを心配し、一度帰りたいと言ったときには「それはできない」とゼファードに断られ落ち込んでいたが、再度使者を出すことが約束されると、ほっとした笑顔を見せた。
当初かたくなだったゼファードも、セリスティンが、
「この言語の文字の成り立ち、文法の説明には一貫して筋がとおっている。歴史的背景も興味深い。ここまで齟齬がなければ実在の文字だということは明白で、彼女が嘘をついているなんてことはありえないよ。アーラは本当に異世から転がり落ちたんだ」
そう結論したことによって、距離を測りつつも、彼女に幾分やわらいだ態度を見せている。
日々筆頭騎士としての務めがあるジルフィスは日がな一日中アーラのそばについているわけにもいかなかったが、授業の時間だけは近衛の任務をクオードに押しつけて、ゼファードの執務室にいられるようにした。
ジルフィスは授業そのものよりも、授業の後のお茶の時間が好きだった。短い時間だが、アーラととりとめもないおしゃべりができる。お茶を飲みながらゼファードがアーラに物語りをさせたときは、ジルフィスも子どものころに還ったような気持ちになってその冒険譚を楽しんだ。
「アーラは冒険物語が好きなんだね」
セリスティンも彼女の物語に満足したようすだった。彼も、アーラの授業を一度たりとも欠かしたことがない。
「髪の毛が一本一本ぜんぶヘビだなんて、こわいっていうか、重そうだよね。そのヘビ女は首や肩がこらないのかな」
セリスティンがもっともな疑問を口にした。アーラはふきだして、
「ヘビ女じゃなくて、メドゥーサ。髪はヘビだけど体は人間の女性なんだから。ヘビの体を持つ女の魔物は別にいて、ラミアっていうの」
「そのメドゥーサを見ると、恐ろしさのあまり見た人が石になるんだろ? なのに、どうして鏡に映ったものなら平気なんだ? 鏡なんだから見えるものはいっしょだろうに」
「鏡は、私の故郷の世界では神秘的な力を持つとされているの。退魔や浄化のシンボルだったり、信仰の対象になったりね。だから〝鏡に映ったもの〟は邪悪な力が浄化されていて、石化にも遭わないのだと思う。反対に魔鏡といって、邪悪な力を宿した鏡もあるけれど」
ジルフィスの目には、セリスティンと伝説や言い伝えの話をしているときのアーラが、一番楽しそうに見えた。幼かった頃はジルフィスも昔話や英雄譚を乳母にねだったものだが、剣技に夢中になってからというもの、そういったものには大いにご無沙汰している。ジルフィスは伝承や物語にうとい自分を悔やんだ。
アーラにお茶のおかわりを注いでもらい、焼菓子を一つつまむ。アーラは差し出されたゼファードのカップにもクラモン茶を足した。
「そういえば、おまえはどうして宮廷服を着ないんだ? 王子の専属教師ともなれば、それなりのいでたちをするものだぞ?」
おもむろにたずねたゼファードに、アーラはやれやれと肩をすくめた。
「おまえではなく、アーラとお呼びくださいとお願い申し上げたはずです」
「そう呼べと命令するのか?」
「そんな恐れ多いことを申しているわけではございません」
「アーラ、殿下は照れてるんだよ」
セリスティンがずばりと指摘した。ゼファードの頬にかっと血がのぼる。
「殿下は女の子と仲良く遊んだりしないから、女の子の名前を呼び慣れていないんだ。花街にだって一回か二回行っただけだろう? 衛生係だってそれきりの付き合いだったっていうし、使用人は、まったくそういう対象じゃないみたいだからね」
「セリス!」
ゼファードがうめいたがセリスティンはひらひらと手をふって、
「貴族の年ごろのご令嬢とは、もっと距離を置いているしね。万が一誰かと親しいなんて噂が立ったら、ほれご婚約だご婚礼だ、正妃が駄目なら第二妃にうちの娘をとか、大混乱になっちゃうから。だから殿下は女性のことは堅苦しく家名で呼んだことしかないんだ。アーラって呼ぶのがはずかしいんだよ」
「呼ぶのに照れていらっしゃるんだなとは、私も感じておりました」
アーラが至極まじめな顔でゼファードにうなずいた。ゼファードはたじろいだようだった。
「けれど、私のアーラという名だって本当の名前ではございません。もとは友人がつけてくれた通称なのです。ですから女性の名を呼ぶことに抵抗を感じていらっしゃるなら、私の場合は本当の名ではありませんから、気にしていただくほどのことはないと思います」
アーラの告白に、ジルフィスは心底驚いた。それはゼファードもセリスティンも同じらしかった。
「本当の名では、ない?」
「間諜の疑いが晴れたというのに、俺たちをたばかっていたというのか?」
「たばかるだなんて」
アーラは懐かしむような目でふと遠くを見た。
「そんなことはいたしません。アーラと名乗っているのは、私の本当の名はグランヴィールでは浮いてしまうからです。私の故郷の歴史に登場する、古の皇子と同じ名なのですから」
ひゅうと、ゼファードが息を吸い込む音がする。
「皇子の、名? 男名なのか」
「はい。誠実で心優しく人望厚く、将来を望まれながら、陰謀によって命を落としたという悲劇の皇子の名前です。両親が、その皇子のように誠実で心優しく人望を集める子になれという思いを託してつけてくれたようです。けれど男名ですし、どうしても皇子の悲劇が頭をよぎってしまって。気にする私のために、友人がその本名をもじって、つけてくれたのがアーラという名でした」
言いながら、アーラは寂しげに笑った。
「ですからアーラという呼び名は私にとって、故郷と友人と思い出のよすがなのです」
「その皇子の物語りを聞かせてほしいな」
セリスティンに、アーラはゆっくりかぶりをふった。
「いつかの機会に」
そしてゼファードに向きなおり、問うた。
「それとも、実の男名のほうが呼びやすいでしょうか? アーラよりも」
「いや……いい」
まじめに問われたゼファードは首を横に振った。
ジルフィスは従弟を見やりつつ、アーラの実の名を訊いてくれればよかったのにと、腹の内で責めた。
男名女名どちらが呼びやすいという問題ではないのだと、それはジルフィスにもわかっていた。呼びかける相手が女性であることが、ゼファードにとって苦手要因なのだから。
――もうじきグランヴィール中のご令嬢を招いてのお妃候補選定の夜会があるのに、大丈夫か?
もちろん、大丈夫ではないだろう。
二十七にして身を固めていない自分がとやかくは言えないかも知れないが、何しろ従弟は王子なのだ。執務を問題なくこなすことも大切だが、夜会も如才なく過ごしてほしいものだとジルフィスは思った。




