16、授業
ゼファード王子が昼食からもどってくると、ジルフィスとセリスティンの手によって執務室はにわかに教室へと変貌した。脚に果物や花の彫刻がほどこされた高価そうな丸テーブルが机代わりに据えられ、そのまわりに三脚の椅子が配される。
第一回目の授業が始まるのだ。
――まるでアーサー王と円卓の騎士ね。
ゼファード王子とアーラ、そしてセリスティンがそれぞれの椅子に腰を下ろした。ジルフィスは万が一のときにすばやく動けるようにとの名目で、近衛騎士らしく立ったまま王子のそばに控えている。もっとも、ジルフィスはセリスティンとは異なり、難解な異世の言葉を学ぶことではなくこの場にいること自体を楽しみにしているらしかった。
アーラは昨晩のうちに簡単な教材をつくっておいた。ひらがなとカタカナの五十音表だ。現時点ではまだ、どのような流れで授業が進むのか見当がつかない。カリキュラムの組みようがないのでそれ以上の教材は無理だったが、大学生のころに家庭教師のアルバイトをしていたのが思い出されて、とても懐かしかった。
宿屋近くの市場では決して手に入らなかったクリーム色のなめらかな紙とペンが配られる。その紙の手触りにアーラがうっとりしていると、王子がペンの端でテーブルを打った。
「では、始めてくれ」
顔を上げると、深海色の瞳と目が合った。冷たい色あいはなく、今はありありと好奇心が浮かんでいる。
「はい」
アーラはうなずくと、昨日つくったばかりの五十音表を王子とセリスティンに渡した。ゼファード王子は珍妙なものを見るような目でそれを眺め、セリスティンはまるで犬が骨を投げてもらったかのように夢中だった。
「殿下がどのような形式で文字を習得されるのをご希望なのか存じませんので、もっとも基本となる五十音の文字から始めようと思います」
「五十音? 二枚あるから百音ではないのか?」
アーラは答えた。
「どちらも同じ音を表す文字ですが、役割が異なるのです」
「役割?」
セリスティンは早速ペン先をインクに浸し、アーラの言葉を書き留めていた。
セリスティンの手もとが流麗な線の連続をえがきだしてゆくのをちらと見て、アーラは続けた。
「私の故郷では、大きく分けて三種類の文字を使います。それらはひらがな、カタカナ、そして漢字と呼ばれています」
アーラはひらがなとカタカナの表を示したが、セリスティンは納得していないらしかった。
「僕が君の帳面を調べたとき、使われていた文字の形は大別して四種類だったぞ。君が言う三種類じゃ、一つ足りない」
「私が申し上げた三種類に記号を含めると、四種類になるでしょう。鉤括弧やエクスクラメーションマークなどが記号です」
「え、えくす……?」
「エクスクラメーションマーク。俗にびっくりマークとも呼ばれます。記号は、文中の会話や感情などを表現するものです。付随的なものですので、なくても最低限の意味は伝わります。一方で、ひらがなとカタカナは表音文字です。口にする音を表しています。曲線を多くふくむひらがなは私の故郷でもっとも基本となる文字です。直線の多い簡潔な文字であるカタカナは、強調したい語や外来語を表すときに使用します。表す音はひらがなのときと変わりません。表の位置で対応させてみてください」
セリスティンはとても熱心な生徒だった。少しでも疑問が生じればアーラに質問を浴びせ、王子そっちのけで、授業を自分のものにしていた。アーラがカタカナでセリスティンの名を書いてみせると、小さな子どもがプレゼントをもらったときのように喜んだ。
ゼファード王子はセリスティンほど目立った興味は示さなかったものの、生真面目にノートをとっていた。一国の王子がひらがなとカタカナを真剣に学ぼうとしている姿は微笑みを誘うものだったが、もちろんアーラは笑うのをこらえた。
第一回の授業はひらがなとカタカナの説明と練習だけで終わってしまった。本当に家庭教師をしていた頃に戻ったようで、既視感に襲われる。けれども目に映るのは散らかった子ども部屋ではなく、王子殿下の執務室なのだった。
「アーラ、おつかれさま。本物の宮廷教師みたいだったよ」
ジルフィスが笑顔でねぎらってくれた。アーラも微笑みを返した。ジルフィスの笑顔は人を安心させる力があると、アーラは思った。
「最初はとても緊張したのだけど、途中から慣れたみたい」
「たくさんしゃべってのどが渇いただろう? 飲み物と茶菓子の用意をさせるよ」
「ありがとう、ジル」
ジルフィスが女官にお茶の用意を言いつけに出て行くと、セリスティンが機嫌よく薄青の目をしばたいてアーラを見た。
「アーラは教えるのが上手だね。故郷では人に何か教えてたの?」
「近所の子どもの家庭教師をしていた時期があります」
「ふうん、道理で。ねえ殿下、教え方がなかなか堂に入ってたよね? 退屈な教授連中の講義よりも、ずっと上手いと思うよ」
「もったいないお言葉です。いたらないことばかりで悔やまれるのですが、セリスティンさんにそのようにおっしゃっていただけると、ほっといたします」
アーラが礼をすると、セリスティンがはなやかな笑い声を立てた。
「〝セリスティンさん〟は舌噛みそうだから、セリスでいいって。ジルフィスをジルって呼ぶくせにさ、僕のことはなんで〝セリスティンさん〟なの? 僕は殿下みたいにたいそうなご身分じゃないんだから、もっとくだけてくれてかまわないんだよ。そんなふうにかしこまられると、見てるこっちの肩がこるよ」
「では……セリス?」
アーラがおずおず口にすると、セリスティンの笑みはいっそう深くなった。揺れる銀髪よりも銀色の睫毛よりも、その屈託のない表情はさらに輝いて、アーラの耳たぶを熱くさせた。
「そうそう! やっぱり、女の子に親しげに呼んでもらえるのはいいね」
そのとき、ジルフィスが両手に盆をささげ持ってもどってきた。肘で開けた扉を足で後ろ向きに閉めるという横着をやらかしながら、彼はセリスティンを呼ばわった。
「セリス、おまえの小さな助手が来ているらしいぞ。研究院にいないから探し回ったって。西の城門前で待ってるってさ」
「コルディアが来てるのか!」
セリスティンの笑顔はよりいっそう輝きを増して、彼は紙とペンをひったくるようにして小脇にかかげると短い挨拶だけを残し、執務室を飛び出していった。
アーラはジルフィスからポットとカップを受け取りながらたずねた。
「小さな助手って?」
「セリスの研究助手だ」
ジルフィスではなく王子が答えた。
「人形みたいに小さくて華奢で研究院にはまったく不似合いだがな。というか、婚約者といったほうがいいか」
「婚約者? どなたのです?」
「セリスのに決まっているだろう」
焼菓子用の小皿をテーブルに並べるふりをして、アーラは顔を上げなかった。胸の奥がつきりと痛んで、ひどく寂しさを感じている自分に気がついたのだ。