15、ジルフィス
「どうして俺が知らないあいだにこんなことになっているんだ?」
ジルフィスは従弟に詰め寄った。
アーラが故郷の文字を、ゼファードとセリスティンに教えることになったという。その上、自分がアーラを迎えに行くと約束したのに、昨日あれほど渋っていたはずの王子が御みずから出かけて行って物見部屋から連れ出したとあっては、ジルフィスは非常におもしろくなかった。
それなのに、ゼファードは肩をすくめただけで、平然とのたまった。
「しかたがないだろう。ジルは父上についていて、ここにはいなかったんだから」
筆頭騎士の地位なんぞ今すぐ誰にでもくれてやる! 腹の底で毒づきながら、ジルフィスはゼファードの襟元をつかんだ。
「セリスの暴走を誰も止めなかったのか?」
――俺がいたら止めたのに。
ジルフィスは、自分がいない時間を狙ってゼファードがことを進めたにちがいないと踏んでいた。昨日ゼファードは、アーラを間諜と疑ったことを責めたジルフィスに、王族を守る近衛騎士のくせに危機感が足りないとさんざん剣突食らわせたのだ。その挙句、今日になってセリスティンの進言を真に受け彼女の授業を受けることに決めたのだから、顔を合わせるのはばつが悪かったにちがいない。
「あいつの暴走だって、たまには役に立つだろう? 少なくとも、今回の進言はもっともだった。アーラが間諜でないのなら、そしてセリスティンにさえ難解だと言わしめる言語を操れるのなら、それを利用しないのはもったいないとな」
「進言? 聞いてあきれるよ。セリスはただ新しいおもちゃみたいに、アーラの文字で遊びたいだけなんだろう?」
「たぶんな」
ゼファードは否定しなかった。
セリスティンが新しい研究対象を見つけたとき歯止めが利かなくなるのは、ジルフィスもゼファードもよくよく承知している。セリスティン・ヴァレンという男は、その容貌から性格から物事の優先順位にいたるまで、とにかく非常識なのだ。
「百歩ゆずって、アーラに文字を教えさせるのはいいとしよう。だが、どうして宿屋に帰してやらない? 通いだっていいだろうに、かわいそうじゃないか」
「それでも結局、彼女は謹んでお受けしますと言ったんだ。今日から客室に滞在してもらうことになっている」
――謹んでお受けしますだと? 本心からじゃないに決まってる。何を失う心配もせずに王子に楯突ける人間が、どれほどいると思ってるんだ。
気に入らない。ジルフィスは鼻を鳴らし、手荒く従弟を突き放した。めずらしいことにゼファードは文句を言うでもなく、乱れた襟元を直している。
「文字の授業だがな、最初は明日の午後だ」
「俺も出席するぞ」
すかさずジルフィスは宣言した。ゼファードの目がすうと細められる。
「父上のほうはどうするんだ?」
「クオードに押しつける。別にかまわないだろう? 陛下が何かおっしゃるようなら、おまえが適当に説明してさしあげてくれ」
やっぱりなとつぶやいた従弟の横顔が憎らしかった。
「で、アーラが滞在する部屋というのはどこなんだ?」
「そこの廊下をはさんで扉三つ右の部屋」
「おまえの私室の、斜向かいじゃないか」
――相手は女の子だぞ!
王子の寝台がある部屋のごく近くに、親族でもない娘を住まわせるとは! ゼファードの無神経さにジルフィスは憤然としたが、当人はきょとんとして、
「ほかの階や棟だと人の目にふれやすいだろう? 末弟派に勘付かれるかもしれない。できるかぎり彼女の存在は伏せておくつもりだから、俺の縄張り内にある客室がいい。となると、伯母上が昔使われていたあの部屋がうってつけじゃないか」
従弟の答えに、ジルフィスはうめいた。そういえば生真面目で堅物で自分の将来よりも末弟派の謀略を心配するこの従弟は、令嬢どころか女官の一人さえ口説いたことがないのだった。
――こいつのことだから、本当に効率と合理性を考えただけで、あとは何とも思っていないのかもしれない。
だが、アーラは不安を抱えていることだろう。自分をひどい目に合わせた張本人である王子の斜向かいに寝起きするなど、考えたくもないのではないか。
――やっぱり俺が、屋敷に引き取ろうか。
執務室を出ようとしたジルフィスの背中にゼファードの声がぶつかった。
「どこへ行くんだ?」
「アーラと話してくる」
ゼファードはまだ何か言いたげな様子だったが、ジルフィスは無視を決め込んだ。
そのまま退室し、向かい側の扉三つ隔てた部屋のノッカーを打ち鳴らす。「どちら様です?」と問われて答えると、やがて細く扉が開いた。
アーラはおそるおそると言ったぐあいにこちらをのぞいていたが、上げた視線がジルフィスの目と合うとにっこりした。
「来てくれてありがとう。私からお礼を言いに行かなくちゃって思ってたのに」
乾ききっていない髪を頭の高い位置で一つに束ね、頬は明るさをとりもどしている。昨夜は物見部屋に閉じ込められていたので、早速湯浴みをしたのだろう。髪を洗った際の香油のものなのか、花の香りがかすかにただよっていた。
「何のおもてなしもできないけれど、それでよかったら入って」
どうやら打ちのめされてはいないようだ。彼女は物語りを披露するために着せられた紫のドレスではなく、濃紺の木綿のワンピースに着替えていた。
「お茶でも淹れられるとよかったのだけど」
言いながらアーラはそばにあった鉄製の置物を扉にそえて、勝手に閉まらないようにした。女性が身内ではない男性を部屋に入れるときにはそうすべきだと、一般的には言われている。しかし、ジルフィスはきちんとそれを実行する女性を目の当たりにしたことがなかったので、大いに感心した。
――言い寄ってほしくないご令嬢に限って、密室で二人きりになりたがるものだよな。
アーラはジルフィスに一人がけのソファをすすめ、彼女自身は布張りのスツールに腰かけた。
この部屋のもとの主――ゼファードの伯母とはつまり、ジルフィスにとっても伯母に当たる。もちろん他国に嫁いだ伯母に頻繁に会うことはないが、乗馬好きで実際的な女性という印象が強い。そのためか壁紙もカーテンも華美ではないこの部屋が、アーラにしっくりなじんで見えた。
「おかげさまで無事、物見部屋から出られたわ。ジルが王子殿下に言ってくださったんですってね。本当にありがとう」
頭を下げるアーラをおしとどめて、ジルフィスはいちばんたずねたかったことをきいてみた。
「ゼファから聞いたよ。無理難題を引き受けたって。でも、本当にいいのかい? こんなゼファの目と鼻の先だなんて、虫唾が走らないか?」
アーラは笑ってかぶりをふった。
「ううん、もう大丈夫。殿下が詫びてくださったから。私は執念深いから全部水に流すってわけには行かないけど、目をつぶって殿下に協力してあげることにしたのよ」
そしてアーラは楽しげに、とんでもないことを口にした。
「殿下って、実は意外とかわいいのね」
どこが? なにが?
――ゼファのやつ、いつの間に仲良くなっているんだ?
見えるわけもないのに、ジルフィスは振り向いて壁の向こうをにらまずにはいられなかった。