14、呼び名
ゼファードの私室は、執務室から一間へだてたところにある。
その斜向かいのこぢんまりした部屋は、もともと父王の姉――つまりゼファードの伯母が幼少時代を過ごした場所らしいが、三十年ほど前に他国に嫁いでからというものずっと空き部屋になっている。
もともとが女性のための部屋なので、客室に改装されてからも、ゼファードはジルフィスやセリスティンに使わせたことがなかった。
だが今回、語り手の娘を周囲の目から隠して住まわせるにはうってつけだ。
二十年以上ゼファードの衣服から寝具までを切り盛りをしてくれている気心の知れた女官に客室の用意をまかせ、緘口令を敷いた。使用人たちはよく心得たもので、主の命令に疑問をさしはさむ者はひとりとしていなかった。
準備を万端に整えたところで、クオードを伴いセリスティンと共に南塔へ行った。
物見部屋から連れ出した語り手はとても疲れた様子で、後ろめたさがちくちくと胸の内を刺した。冷静に考えてみれば、特別美しいわけでも鍛えられた物腰をしているわけでもない、物語りがうまいだけの宿屋手伝いの娘が、間諜などであるはずがないのだ。家名を名乗れなかったからといって、ここまで手ひどい扱いをすることもなかったのだ。
――こんな鈍った判断力では、末弟派に足元を掬われるな。
娘はずっと黙りこくっている。昨日見た折には形よくまとめられていた黒髪が、今はほどかれて背に流してあった。目の下には灰色の隈がうっすら浮き、唇は乾いて荒れていた。ドレスの袖も裾もくたびれている。
無実ながらとじこめられたことを責めてくれたほうが気が楽なのにと、ゼファードは無責任なことを考えた。王城でひどい目にあったからといって王子を責めるような猛者がそうそういないことくらい、わかっているのだが。
「何か言ったらどうだ?」
沈黙にたえかねて声をかけると、娘の目にわずかに灯りがともった。
「間諜の嫌疑は晴れた。身の証のないおまえだが、害なす存在ではないと一応認められたんだ。素直に喜んではどうだ?」
「自分に罪がないことは、自身が一番よく存じております」
ようやく聞けた彼女の声はひかえめな口調だったが、大いに皮肉がこめられていた。
「私はただ、殿下に少しでも楽しんでいただければと思いつたないながら物語りをしたのです。それなのにクラーレン金貨を受け取れぬ、家名は告げられぬと申し上げた途端、身に覚えのない疑いをかけられました。実の市民ではない者がそれを秘して王城に上がりましたのを責められるのでしたら、甘んじて受けます。ですが初めから殿下を害そうなどと恐れ多いことなど思ってもみなかったのに狭い部屋に閉じ込められ、そこから出られたから喜べとおっしゃられても私にはできかねます」
「しゃべれるじゃないか。しかも一息でそんなに長々と」
なんだか可笑しかった。笑ってしまわぬように、努めて頬の筋肉を引き締める。
「何も言わぬから、饒舌なはずの語り手が語れなくなってしまったかと思ったぞ。閉じ込めたばっかりに」
娘はすっと目を伏せて、低く言った。
「すぎたことを申しました」
「違う、俺は責めているんじゃない。怒りたいのはおまえのほうだろう。……悪かったと思っているんだ、これでも」
どう切り出すべきか迷っていた謝罪をやっとのことで口にすると、娘が急に立ち止まった。振り返ってみると、褐色の瞳を瞬いて呆然としている。
――謝られるとは、思っていなかったのか?
王族も馬鹿にされたものだ。おのれの過ちを認められなくては、どうしてまつりごとなどができる? 過ちをそうと認めぬ、生来の身分と無駄な権威だけの輩など、ただの屑だ。ゼファードは立ちすくんだままの彼女の腕を強く引いた。
「おまえを物見部屋に押し込んだあと、ジルが……ジルフィスがやってきて、猛然と抗議したんだ。それから俺とジルでほとんど喧嘩みたいになって。そのまま昨日は別れたんだが、セリスの結論を聞いて冷静になってみると、せっかく物語りをしてくれたおまえにずいぶん手ひどいことをしてしまったのだと気がついた」
ふっと、彼女の表情がゆるんだ。
――ジルか。
ジルフィスは語り手の娘のことをとても気にしていた。ゼファードの知らないうちに二人きりで話すことがあったのかもしれない。
「おまえが望むように宿屋に帰してやるのが筋なのだろう。だが、セリスティンの進言はもっともだった。おまえの故郷の言葉を教えてほしい。それはきっと俺たちの力になるだろうから」
しばらくの後、娘はまっすぐにゼファードを見上げて素朴な臣民の礼をした。
「わかりました。謹んでお受けいたします」
ゼファードは自分で思っていた以上に、ほっとした。ここで嫌だといわれたら、どうしてよいかわからなかった。また閉じ込めるわけには行くまいし、彼女が心にかけている宿屋を持ち出して脅すようなことだけはしたくない。
「ただ、一つお願いがございます」
「なんだ?」
必要なものがあるなら何でも取り揃えてやるつもりで聞き返すと、彼女は苦笑していた。
「恐れながら、私のことはアーラとお呼びいただけますでしょうか。私の名は、〝おまえ〟ではございませんので」
思わず、赤面した。
頬に血がのぼったとわかって、ゼファードはすぐに顔をそらした。
――女の名を呼ぶのが不慣れで恥ずかしいだなんて、言えるか!
姉妹も従姉妹もいない上、派閥争いを激化させるのを懸念して年ごろの令嬢たちとも一定の距離を保ってきたゼファードにとって、それは問題だった。
貴族の令嬢や夫人の名は家名で呼べば事足りた。リヒャンテのご令嬢、グラントリー夫人、マルカス夫人というように。
だが家名も肩書きもないこの娘は、「おまえ」でなければほかに呼びようがない。
いつまでも後ろを向いているわけにも行くまい。頬までのぼった血が冷めて下りていったことを願いつつ、ゼファードは向きなおった。
「……アーラ」
ようやく覚悟をこめて口にすると、語り手の娘はにっこり微笑んで応えた。
「はい」