12、王子殿下の語り手
アーラは窓の外をぼんやり眺めていた。皮肉なことに、物見部屋なだけあって眺めだけは最高だった。
衝立のかげに手洗いがあるのみで、ベッドすらないせまい部屋だ。ここに押し込められてもうすぐ丸一日がたとうとしている。夜になるとさすがに毛布とパンがもらえたが、気をまぎらわせるものはなく、何もすることがない。
あちらにいたころは、暇な時間ができれば喜んで本をむさぼり読んだものだった。
だがこちらではそれができない。アーラはグランヴィールの文字がろくに読めなかった。意識しなくとも話せるのだから字も読めるのではという淡い期待は一年前にすでにもろく崩れ去った。やっと数字と人名と簡単な単語がわかるようになっただけで、こちらの書物は一冊でさえ読めていない。
本が恋しかった。漢字が、ひらがなが、カタカナが恋しかった。そして、日本の文字を忘れるのが怖かった。だからアーラは、これまで読んできた物語を思い出したはしから書きとめることにしたのだ。
春の芽吹き亭のご主人から給金をもらった日には、かならず帳面を買いに行った。漂白されていない薄い黄色の束を紐で綴じただけのそれはアーラにとって「ノート」ではなく、やはり「帳面」だった。
その帳面にグリム童話、アンデルセン、イソップ、日本昔話、北欧神話から古事記、市立図書館で借りたベストセラーの単行本にいたるまで、思いついた順に書きとめた。書き続けていれば、いくらなんでも文字を忘れることはないだろうと己をなぐさめながら。
時には自分が書いたものを読み、あちらの世界に思いを馳せた。
そんな帳面が、もう十冊以上できていた。ゼファード王子はその帳面を調べさせると言っていた。アーラは間諜ではなく嘘もついていないという証明に、書きためた帳面の文字たちは役立ってくれただろうか。
突然部屋の外が騒がしくなり、かんぬきが動く音がした。アーラは丸めた毛布を抱きしめて、首を伸ばした。
――ジル?
ジルフィスは王子やクオードのようにアーラを疑いの目では見ることはせず、親しげに話しかけてくれた。それに、アーラがここから出られるよう努力して迎えに来ると言ってくれたのだ。
だが、扉を開けて入ってきたのはジルフィスではなかった。ゼファード王子だった。
「喜べ、おまえの嫌疑は晴れた。外へ出てかまわない」
王子が言った。言われなくともさっさと出て行くつもりだったが、王子に続いて姿を現した人物に息を飲み、アーラは動けなかった。
こんなにもきれいな異性を、アーラは初めて見た。銀の髪や薄青の瞳はまるで氷の祝福を受けたかのようだ。計算されつくしたとしか思えないほどの美貌なのに、新しいおもちゃを見つけた子どものように表情は生き生きと輝いている。
「殿下、この子が例の文字を書いた子かい?」
「そうだ」
その美しい人はためらいなく床に膝をつき、嬉々としてアーラと視線を合わせた。アーラは氷色の双眸に自分の姿が映っているという事実が、信じられなかった。
「この子の頭の中に、あの空恐ろしいほど難解で無駄に繊細な言語がつまっているんだよ! ああ今すぐにでもそれを僕に分けてほしいね。君、名前は? 僕はセリスティン。セリスティン・ヴァレン。セリスって呼んでくれてかまわないよ」
「アーラです、セリスティンさん。春の芽吹き亭の」
セリスティンは美貌を惜しげもなくまぶしく輝かせて、アーラに微笑みかけた。
「セリスでいいって言ってるのに、律儀なんだなあ。セリスティンさんなんて呼びにくいだろう? これから毎日顔を合わせることになるのに、そのたびにそんなふうに呼んでいたら舌噛むよ」
「セリス!」
咎めるように王子が彼の名を呼び、にらみつけた。アーラには、「毎日顔を合わせることになるのに」と言われた意味がわかりかねた。
「俺が順を追って話そうとしているのに、先走るな」
「殿下が順を追って一から十まで話すとなると、いつ終わるかわからないじゃないか。簡潔に頼むよ。僕は早く始めたいんだ」
横で聞いているだけのアーラには、ますますわけがわからない。
ゼファード王子は嘆息して、混乱するばかりのアーラを見下ろした。
「間諜かも知れぬと疑い、ひどいあつかいをしたことを先に詫びよう」
身分と権威ある人物が多くそうであるようにとても詫びている態度には見えなかったが、そこを蒸し返すと先に進まないのはわかっていたので、アーラはおとなしく聞いていた。
「おまえが間諜でも、こちらを害する意思を持った何者でもないということは、このセリスティンが証拠品の帳面を調査したことで結論された。帳面に記されていたのは間諜が用いる通信用の暗号ではなく、おまえが言ったとおり故郷とやらの文字なのだろうという見解だ。そこで、だ」
王子がその先を続けるよりも前に、セリスティンがまくしたてた。
「王子殿下は現国王陛下の一粒種でいらっしゃるから第一王位継承権を持っているには違いないんだけど、そのことを快く思わない輩というのも存在している。だから殿下はぼろを出さないように、書類や書簡の扱いには細心の注意を払わなくてはいけない。だが、君が僕らにこの複雑怪奇で難解極まりない言語を伝授してくれたなら、万が一敵の手に一等重要な書簡が渡ってしまっても、君の国の文字で書かれているかぎり解読不可能だとは思わないかい? 素晴らしい思いつきだろう!」
「つまり、だ」
咳払いをしてこちらを見たゼファード王子と、アーラの目が合った。
「おまえは表向き、俺の気に入りの語り手という名目で城に滞在するんだ。もちろん、こちらも相応の扱いをしよう。おまえのために客人用の部屋を調えるし、必要なものがあれば揃えさせる。そして俺に呼ばれたなら、物語りをすると周囲には思わせておきつつ、その実おまえは帳面を埋めている文字の繰り方を教えるというわけだ」
「僕にもね」
セリスティンがにっこりする。立ち上がれということなのか、王子の手が差し伸べられた。
「おまえはグランヴィールの臣民として、王子の利になる知識を伝授する役を負うわけだ」