9、囚われの身
「……で、アーラ嬢の嫌疑は晴れたわけ?」
ジルフィスは頬杖をついて、従弟を見上げた。その従弟は眉間にくっきり皺を刻みながら、
「今、宿屋で押収した帳面をクオードに調べさせている。何しろはじめて見る文字の羅列なんだ。諸国の軍事暗号なのか、本当にあいつの故郷の文字なのか、簡単に判別できるわけがないだろう」
従弟の目は苛々と群青色に燃えていた。
ジルフィスは、文字通りまったく自分と毛色がちがう従弟がここまで感情を表に出すのはどれだけぶりだろうと考えた。王子であるゼファードはジルフィスより四つも年下でありながら、普段は沈着冷静そのもので、大いに怒ることもなければ笑い声を立てることもない。そばにいるこちらがつまらなくてあくびが出るほどなのだ。
それなのに、下町からつれてきたたった一人の娘のためにこうも苛々としているのだから可笑しい。これまで四角四面にそつなく何ごとも処理してきたゼファードにとって、異世などという常識はずれの案件は手に余るのだろう。
「めんどうなら全部俺に預けてもらってもいいよ? あの子をうちの屋敷に閉じ込めていっさい外に出られないようにすれば、なんにも問題ないだろ。万が一間諜だったとしても外部と連絡が取れないし、俺はあの子の物語りが聞けてうれしいし」
「担当はクオードだ。ジルじゃない」
「だからクオードから俺に移せば? クオードみたいなやつに任せると、白でも黒って言いかねないぞあいつなら」
「クオードは白を黒とは言わない。……灰色を黒とは言うだろうが」
ジルフィスの金褐色の瞳をゼファードの群青の目がのぞきこんだ。
「そんなに、あの語り手の娘が気になるか?」
「気になるね。いい目といい声をしている。肌が白くてやわらかそうなのもいい。今どこにいるんだ?」
ゼファードはあきれたように深々とため息をついて、視線をはずした。
「南塔の物見部屋に。……知ってどうするつもりだ?」
「会いに行こうと思ってね。クオードが絞首台送りの書類にサインをする前に、俺があの子を引きとるよ」
「たとえ担当がクオードでも、証拠もさだかでないのに絞首台送りはできないだろう。しかし、ジルはなぜそこまでかまおうとする?」
ジルフィスは肩をすくめた。自分でも答えがわからなかったからだ。
だがジルフィスは、彼女が外つ国の間諜ではないと、ほとんど頭から信じていた。初めて春の芽吹き亭で会ったときの素直な反応、なぜ女官たちに洗われると教えてくれなかったのかとすねたときの口調、手のひらから伝わったまろやかな肩の温み、ジルフィスの舌打ちを聞いて丸くなった目。
――あれはただの女の子だ。
――ちゃんとした親にきちんとしつけられた、ふつうの女の子だ。
だから助けたいのだろうか?
それとも、春の芽吹き亭の客たちに評判の、彼女の物語りに未練があるのだろうか?
――わからないからこそ、かまいたいのかもしれない。
「彼女は悪い子じゃないよ。春の芽吹き亭に会いに行ったときも、ここへつれてくるまでのあいだにも、怪しいそぶりは一度もなかった。物見部屋みたいなせまいところに閉じ込めるはやめてあげたら?」
「俺だって心が痛まない訳じゃない。だがまだ間諜ではないとは言い切れないだろう。それに、物見部屋を選んだのは俺じゃなくてクオードだ」
「人のせいにするなよ、ゼファ」
「事実を述べたまでだ」
「どうだか」
何か言い返したそうなゼファードを後に残して、ジルフィスは南塔に向かった。
螺旋階段をのぼり、物見部屋の前で踏ん張っているクオードの部下の番兵をどやしつけて、しばしはずさせる。番兵はきっとクオードに言いつけるだろうが、かまうものか。
かんぬきをはずして中に入ると、アーラは部屋の隅で膝を抱えていた。目を閉じて、うとうとしている。いろいろなことがありすぎて疲れたのだろう。
「アーラ嬢」
声をかけると、彼女はびくりとして顔を上げた。
「ジルフィス、さん?」
「ジルでいいよ。みんなそう呼ぶから」
やはり疲れた顔をしている。痛々しい。
ジルフィスが観察しているあいだに、アーラはすわりなおしてドレスの裾を整えた。
「……殿下には、納得していただけたのでしょうか」
「調査結果はまだだよ。クオードはやることが細かいんだ。おなかすいてない?」
アーラはかぶりをふった。それがとても幼げに見えて、ジルフィスはいたたまれない気持ちになった。いたたまれないなどと、そんな殊勝な感情が自分の中にあったとは驚きだ。
「ご主人とおかみさんは? ちゃんと、伝言はつたえていただけましたよね?」
「大丈夫。王子が君の物語りを気に入ったから、ちょっと長く引き止めていると説明されているはずだ。……しかしアーラ嬢はえらいな。ふつうなら自分の心配で手一杯で、人のことなんか考えられないはずなのに」
ジルフィスが思わず頭をなでると、アーラは弱々しく微笑んだ。
「えらいだなんて。もう子どもではありませんから」
「そりゃそうかもしれないけど。まだ十代だろう?」
十代なら、二十七の自分からみれば子どもも同然だ。けれどもアーラは目に苦い色を浮かべてこう答えたのだ。
「ご冗談を。私はもう二十六歳です。グランヴィールの方々に比べて顔の凹凸が乏しいので、うれしいことによく若く見られますが」
皮肉なのか自嘲なのか、彼女は力ない笑い声を立てた。
――ゼファードよりも年上? 俺と一つ違い?
もちろん、ジルフィスは自分の耳が信じられなかった。