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1、アーラ

 心配そうな面持ちのおかみさんを見て、アーラは、何かが終わりを告げる音を聞いた気がした。

「アーラ……あなたに、お客さんが来ているのよ」

 ただのお客さんであるはずがなかった。

 宿屋にとって、お客は神様だ。おかみさんが、こんな顔をする必要などない。

「どんなお客さんですか?」

 石鹸だらけの手をすすぎ、布巾でぬぐいながらたずねると、おかみさんはちらちら振り返りながら答えた。

「それがね。お城の兵隊さんみたいなのよ」

 アーラは善良な一市民だ。法を破ったこともなければ、因縁をつけられるほどの滅多な芸当ができるわけでもない。それなのに――都の内とはいえ、街はずれにある小さな宿屋に、どうして王城の兵士が来るのだろう? 

「私、なんにも悪いことなんかしていませんから大丈夫ですよ。ちょっと、話を聞いてきます」

 アーラはおかみさんを安心させるために微笑んで、厨房を出た。

 アーラは美人でもなければ、富も地位もない、どうということもない一市民だが――正確を期するならば、いわゆる「市民」ではない。何しろ、戸籍がないのだから。

 約一年前。アーラは街道脇の繁みに転げ落ちた。まさに「転げ落ちた」と表現するよりしかたがない。

 アーラは王都市街の市民どころか、この国の民でもなく、「この世界」の生まれですらなかった。

 歴史上「日出づるところ」と称して顰蹙ひんしゅくをかった国の、昔も今も蟻のようによく働くと評される民――つまり、日本人だ。

 日本の平凡だがそこそこ幸せな家庭で生い立ち、弟と妹の世話を焼き、人並みに友人を持った一般人だったはずだ。

 ……それなのに。

 がむしゃらに勉強して進学校で過ごし、まじめに勉強して優秀な成績で大学を卒業し、黙々と不平をもらさず働いてきた二十五歳の、ある日。

 有給休暇をとり、ひさしぶりの気ままな一人旅と洒落込むはずだった。

 ホテルと食事を豪勢にしたために、往復の手段は新幹線ではなくバスを選んだ。

車窓の外を流れゆく山の景色をぼんやり眺めていたおり、バスが普通ではない揺れかたをしたと感じた直後、突如見慣れた世界は彼女の足もとでぱったり途切れ、あちこちぶつけながら転げ出た先が、「この世界」だったのだ。

 繁みから這い出して街道を歩き、運よくすぐ近くに街が――王都があり、すきっ腹に耐えかねて「皿洗いでも掃除でも何でもしますからご飯を食べさせてください」と頭を下げたのが、この宿屋だった。

 そしてまた運のよいことに、宿屋の主人夫妻は気さくでほがらかな人たちだった。まじめでよく気のつく彼女を気に入り、そのまま宿屋に住まわせてくれ、給金まで出してくれることになったのだ。

 以来、ここで食器洗いや食事の下ごしらえ、部屋の掃除などをこなしてすごしている。帰る方法はもちろん探しているが、今のところ見つかってはいない。

 日本にいたころの名前――本名は、誰にも告げていない。

 それはこの世界、この国にしっくりなじまないような気がしたからで、中高生のときに友人が呼んでくれたあだ名「アーラ」でこちらでは通している。

 ――この一年間、何ごともなく過ごしてきたのに……いまさら戸籍がないってことで罰金を取り立てに来たとか、つかまえに来るとか、ありえないでしょう?  

 とにかく、兵士から用向きを聞かないことには始まらない。

 アーラはくだんの客人が待つ部屋の扉をノックした。



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