第九章 静かな人間
田所探偵事務所。
資料の山の中で、田所は一枚の調書を指で弾いた。
「……ここまで来て、 一番“何もしてない”のは誰だと思う?」
夏野は少し考えてから答えた。
「システム管理の……甲斐さん?」
田所は頷きも否定もしなかった。
「甲斐はな、この事件で一番“目立たない位置”にいる」
山岸が言う。
「防犯カメラの件以外、ほとんど名前が出てこないな」
「そう。副社長は口論し、経理部長は通過し、神崎は走り回り、早乙女はゴミを捨て、秘書はデータを消した」
「甲斐だけ、“何もしていない”」
夏野が首を傾げる。
「でも、それって単に関与していないだけでは?」
「普通はそう考える。だが、この事件は“全員が何かしている”のが特徴だ」
田所は甲斐の調書を読み上げる。
「事件当日、十九時前後は自席で作業。誰とも話していない。会議室にも近づいていない」
山岸が言った。
「完璧すぎるアリバイだな」
「完璧すぎる、ってのが問題だ」
夏野が聞く。
「どういう意味です?」
「この会社、事件当日の十九時台は“全員が動いている”。なのに甲斐だけ“完全に静止している”」
「それって……」
「“何もしてない人間”は、たいてい“何かを隠す必要がない人間”だ」
「だがこの事件では、全員が何かを隠している」
山岸が腕を組む。
「つまり、甲斐も何か隠してる?」
「隠してるか、もしくは“隠すのが上手すぎる”」
田所は机の上に並んだ資料を指差した。
「防犯カメラの操作ログ。ユーザー不明。消された形跡がある」
「これは?」
「“痕跡を消した痕跡”だ。何もしない人間の仕事じゃない」
夏野が言った。
「でも、それだけでは……」
「だから決め手は別だ」
田所は、清掃員の証言記録を取り出した。
「清掃員は二回、会議室前を通っている」
「最初は十九時十五分。その時、机は元の位置」
「次は十九時三十五分。その時、机はズレていた」
山岸が言う。
「その間に誰かが入った」
「そう。だがその時間帯、副社長と経理部長は口論中。神崎は社内を走り回っている。早乙女は喫煙所。秘書はデスクで作業」
夏野が目を見開く。
「……全員、それぞれ“別の場所”にいる」
「唯一、“動きが記録されていない人物”がいる」
山岸が静かに言った。
「甲斐か」
田所は小さく息を吐いた。
「この事件、“動いた人間”はみんな記録に残ってる。だが“動いていない人間”だけ、記録がない」
「それって……」
「動いてないんじゃない。“動いたことが記録されていない”」
夏野が言った。
「システム管理なら、ログを消せる……」
「消せるし、“最初から残さないこともできる”」
山岸が言う。
「でも、動機は?」
「甲斐の動機は、まだ一番薄い」
田所は甲斐の人事資料を見つめる。
「社内評価は平均。昇進の見込みなし。リストラ対象でもない。社長との直接的トラブルもない」
「だからこそ、“動機が見えない”」
夏野が言った。
「動機がない人が、一番危ない?」
「動機がないんじゃない。“見えていないだけ”だ」
田所は静かに続けた。
「この事件、全員が“自分のため”に動いた。だが甲斐だけ、“誰のために動いたのか”が見えない」
山岸が言った。
「会社のため?」
「違う。会社のために人は殺さない」
「じゃあ……」
田所は少し黙ってから言う。
「甲斐は、“誰かのため”じゃなく、“何かを終わらせるため”に動いた可能性がある」
夏野が眉をひそめる。
「何かを……終わらせる?」
「この会社そのものだ」
山岸が目を細める。
「どういう意味だ?」
「システム管理はな、会社の裏側を全部知っている。誰が何を隠しているか、誰がどんな不正をしているか」
「それを全部見た人間が、最後に思うことは一つだ」
「――“全部、壊してしまいたい”」
部屋に、短い沈黙が落ちた。
夏野が小さく言う。
「……甲斐さん、ずっと一人でしたね」
「そう。この事件で一番、孤立しているのは甲斐だ」
山岸が言った。
「だが、証拠はまだ薄い」
田所は頷いた。
「今のところはな。だが“存在感が薄い”のは、もう偶然じゃない」
田所は最後に、甲斐の調書の一行を指差した。
「“事件当日、特に変わったことは何もありませんでした”」
「この一文、この事件で一番嘘くさい」
夏野が言った。
「何もなかった人間ほど、実は一番、何かをしている……」
田所は静かに答えた。
「この事件、真犯人は今も、“何もしていない顔”をしている」




