第五章 煙草と辞表
翌日、田所探偵事務所。
田所はいつものように椅子に深く座り、机の上に資料を並べていた。
夏野はコーヒーを置きながら言う。
「営業部長・早乙女さんの件、本気で疑ってるんですか?」
「疑ってる、というより――“泳がせる”」
「喫煙所に行っただけですよ?」
「人はな、“何もしてない時間”を一番嘘で固める」
田所は早乙女の調書を指で叩く。
「十九時十分から二十分、喫煙所。証人なし。カメラなし。一番“何でもできる時間帯”だ」
そこへ、山岸が入ってきた。
「お前の言う通り調べたぞ。
早乙女、妙な行動してた」
「ほらな」
「喫煙所の灰皿、事件翌日に“中身が全部捨てられてた”」
夏野が眉をひそめる。
「普通、清掃員が定期的に捨てるんじゃないですか?」
「いや、早乙女本人が処分してる。自分でゴミ袋に入れて」
田所はゆっくり頷く。
「……捨てたのは煙草だけじゃないな」
「灰皿の中、通常より吸い殻が少なかった」
「つまり?」
「喫煙所にいた時間、実際には短かった可能性が高い」
夏野が言った。
「アリバイを作るために、“いただけ”の可能性」
「そう。喫煙所は“空白時間を作る場所”として優秀すぎる」
山岸は腕を組む。
「動機もある。早乙女は社長にリストラ対象にされていた」
「それ、初耳だな」
「人事資料に残ってた。来月、営業部の縮小予定」
田所は小さく笑った。
「首切り宣告された男は、大抵“衝動的”になる」
次に、神崎の件。
山岸が別の資料を出す。
「人事責任者・神崎。事件当日、確かに辞表を書いてた」
「場所は?」
「自席のデスク。だが、その辞表、ゴミ箱から回収された」
夏野が言う。
「捨てた……?」
「しかも破り捨てた形跡あり。かなり感情的だ」
田所は考え込む。
「……辞表を書いて、破って、それから社長が死んだ」
「動機としては十分だな」
「だが、逆に“行動の痕跡が多すぎる”」
「多すぎる?」
「犯人はな、普通“証拠を消す”。神崎は“証拠を残しすぎてる”」
夏野が言う。
「感情的な人ほど、隠すのが下手です」
「下手すぎると、逆に怪しくなる」
次に、秘書・小宮山。
山岸が言う。
「社長のスマホから削除されたメッセージ、復元できた」
「内容は?」
「“もう終わりにしよう。君には退職金を出す”」
夏野が小さく息を呑む。
「……完全に捨てられてますね」
「小宮山は事件後、社長のデスクを勝手に整理していた」
「何を?」
「USBメモリと、手帳の一部ページ」
田所は眉をひそめる。
「証拠隠滅だな」
「だが本人は、“私物を片付けただけ”と言ってる」
田所は腕を組む。
「ここまで来ると、全員が“怪しすぎる”」
夏野が言う。
「誰が犯人でも成立しそうです」
「だからこそ、この事件は“一人の犯行”じゃない」
山岸が言った。
「共犯?」
「いや、“便乗”だ」
「便乗?」
田所は静かに言う。
「誰かが最初に殺した。その後、別の誰かが証拠を動かし、さらに別の誰かが私物を消した」
「全員、自分の都合で」
夏野が言った。
「つまり――“真犯人の痕跡が、他人の行動に埋もれている”」
「そう。この事件の一番のトリックはな、“人間の自己保身”だ」
山岸は深く息を吐いた。
「じゃあ、誰を次に追う?」
田所は少し考え、言った。
「神崎と早乙女。“感情で動いた二人”だ」
「甲斐は?」
「今はいい。甲斐は“動きが少なすぎる”。何もしない奴ほど、後で効いてくる」
夏野が言う。
「……嵐の前の静けさですね」
田所は窓の外を見る。
「嵐はもう始まってる。ただ、誰も自分が濡れてることに気づいてないだけだ」
新宿の街は今日も騒がしい。
だが事件は、ますます深い迷路へと入り込んでいった。




