第十二章 動かない探偵
新宿三丁目。
夜の雑踏は相変わらず騒がしかったが、田所探偵事務所の中は、時間が止まったように静かだった。
田所雄三は、椅子から一歩も動かず、机の上に広げた資料を見つめていた。
ここ数時間、立ち上がった形跡すらない。
「……結局、全部ここにあるんだよな」
夏野が顔を上げる。
「ここ、というのは?」
「この机の上だ。現場じゃなくてな」
山岸は電話越しに苦笑した。
「相変わらずだな。俺たちはビル中走り回ってるのに、お前は椅子から動かない」
「だから見える」
田所は淡々と言った。
「現場に行くと、人は“作られた景色”を見る。だが資料には、“壊れた景色”しか残らない」
田所は清掃員の動線図を指でなぞる。
十九時十五分。
異常なし。
十九時三十五分。
机がズレている。
「この二十分間、社長は倒れ、誰かが机を動かし、さらに別の誰かが触っている」
夏野が言う。
「三人関与説ですね」
「そう。これはもう動かない」
田所はホワイトボードに三つの丸を書いた。
① 最初に社長と接触した人物
②机を動かした人物
③ 現場を確認した人物
「この三つ、全員違う」
山岸が言った。
「副社長は②だな」
「経理部長も②か③」
「神崎と早乙女は③寄り」
田所は頷いた。
「だが①だけが、今までずっと空白だ」
夏野が静かに言う。
「……記録に残らない人」
「そう。記録に残らない、動いた痕跡だけが消えている人」
田所は入退館ログの一覧を指差す。
「副社長はログにいる。経理部長もいる。神崎は歩数で動きが出る。早乙女は喫煙所のゴミが出る。秘書はデータ削除が出る」
「甲斐だけ、“何も出ない”」
山岸が言った。
「何も出ないってのは、潔白って意味じゃないのか?」
田所は首を振った。
「この事件では違う。全員が何かを隠している事件で、一人だけ“痕跡ゼロ”は不自然すぎる」
「普通の人間はな、何もしなくても“生活の痕跡”が残る」
「何も残らないのは、“消している人間”だけだ」
夏野が言う。
「ログを消せるのは……」
「システム管理だけ」
田所は淡々と続ける。
「甲斐は、防犯カメラも、入退室ログも、サーバーアクセスも、全部“触れる立場”にいる」
「そして、この事件で唯一、“触った痕跡が一切残っていない”」
山岸が言った。
「……つまり、触ったからこそ消せた?」
「そう。動かなかったんじゃない。“動いた証拠を消した”」
田所は机の写真を取り出す。
「机の擦過痕は二方向。つまり、一人が動かし、別の誰かが戻そうとした」
「戻そうとした人間は、“そこに何が起きたかを知っている人間”だ」
夏野が言った。
「つまり、①の人物を知っている……」
「そう。
③の人物は②を知らなくてもいいが、
①を知らないと戻す理由がない」
「だから①と③は、直接つながっている」
山岸が息を呑む。
「……じゃあ、③は誰だ?」
「副社長と経理部長だ。二人とも社長の異変を見ている」
「だが①だけは、誰も証言していない」
田所は、甲斐の調書の一文を指差した。
『事件当日、特に変わったことはありませんでした』
「この一文、この事件で一番異常だ」
夏野が言う。
「全員が何かしているのに、一人だけ“何もない”」
「そう。この事件で唯一、“事件から切り離されている人間”」
「それが、実は一番深く関わっている」
田所は椅子に深くもたれたまま言った。
「この事件、俺は一歩も外に出ていない」
「だが、誰がどこで何をしたか、全部ここに書いてある」
山岸が苦笑する。
「……探偵ってのは、歩かない方が優秀なのか?」
田所は小さく笑った。
「人間はな、動くと“自分の目”で見る。だが座っていると、“他人の嘘”だけが見える」
夏野が言った。
「先生、もう答えは出てますよね」
「ほぼな」
田所は静かに言った。
「この事件の①、最初に社長と接触した人物は――」
少しだけ間を置いて。
「唯一、“何もしていない人間”だ」
窓の外では、新宿のネオンが瞬いていた。
田所はその光を一度も見ず、
ただ机の上の紙だけを見つめていた。
彼は今日も、現場に行かず、ただ椅子に座ったまま、事件の核心にたどり着いていた。




