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第十一章 傘の記憶

雨はもう止んでいたが、新宿の歩道にはまだ水たまりが残っていた。

田所は、事務所の窓からぼんやりと外を眺めていた。

ネオンが濡れた路面に歪んで映り、まるで街そのものが、何かを誤魔化しているように見える。

「……最初から、そこにあったんだよな」

ぽつりと呟く。

夏野が振り向いた。

「何がですか?」

「一番最初に見た写真。会議室の入口にあった“傘立て”」

山岸が言う。

「また傘か。そんなもん、事件と関係あるのか?」

「関係しかない」

田所は、例の写真を机に広げた。

会議室のドア横。

金属製の傘立てに、五本の傘。

そのうち四本は、濡れている。

一本だけ、青い長傘が――乾いていた。

「事件当日は雨だった。十九時台に外出した人間の傘は、必ず濡れる」

「……つまり」

夏野が小さく言う。

「その青い傘の持ち主は、“外に出ていない”」

「だが、その人物は“外に出た”と証言している」

山岸が眉をひそめる。

「誰だ?」

田所は資料をめくる。

「甲斐恒一。事件当日、『十九時ごろ、サーバールームの点検で一度外に出た』と証言している」

「サーバールームはビル内だろ?」

「そう。だが甲斐は、“外気に当たって頭を冷やした”とも言ってる」

夏野が言う。

「……でも、傘は乾いている」

「つまり、外に出たという証言が嘘」

山岸が電話越しに唸る。

「それだけで、殺人の証拠になるか?」

「ならない。だが“時間の証拠”にはなる」

田所は続ける。

「甲斐は“外に出た時間”を作ることで、“その時間、会議室にいなかった”というアリバイを作っている」

「でも実際には、外に出ていない。つまり――」

夏野が言葉を継ぐ。

「その時間、“どこにいたのか分からない”」

「そう。“傘の乾き”は、甲斐のアリバイを消す唯一の物証だ」

山岸が言った。

「だが、傘が乾いていた理由なんて、いくらでも言い訳できるだろ」

「できない。なぜなら、この傘――」

田所は別の写真を出す。傘の柄の部分のアップ。

「新品だ。持ち手に、ほとんど摩耗がない」

夏野が目を見開く。

「……つまり、普段使っていない傘?」

「そう。

“外出用の傘”じゃない。“室内に置きっぱなしの傘”だ」

山岸が静かに言う。

「甲斐は、外に出たふりをして、実際には出ていない」

「そしてその時間、“誰にも記録されずに動けた”」

田所は、ホワイトボードに大きく書いた。

傘 = 偽アリバイの物証

「この事件、ログは全部消せる。映像も消せる。だが“物の状態”は消せない」

夏野が言った。

「……人は嘘をつけても、物は嘘をつかない」

「そう。この傘だけは、事件の最初から、ずっと真実を言っていた」

山岸はしばらく黙ってから言った。

「……他にも、似たような“物の証拠”があるか?」

田所は頷いた。

「紙コップの位置。机の傷。非常階段の靴跡。全部、“人の記憶”じゃなく、“物の状態”だけを追えば、同じ人物に収束する」

「甲斐か」

「ほぼ、間違いない」

夏野が静かに言った。

「じゃあ、次は――」

「甲斐に、“この傘の話”をする」

山岸が低く笑った。

「……ついにだな」

田所は窓の外を見た。雨はもう降っていない。

だが事件の中では、まだ一人だけ、傘を差したまま立っている人間がいる。

「人は、自分がついた嘘を忘れる」

田所は言った。

「だが、自分が使わなかった傘のことは、絶対に忘れる」

それはもう、言い逃れのできない種類の証拠だった。

真実は、青い長傘の先端から、静かに滴り落ち始めていた。

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