第十章 動かない証拠
深夜の田所探偵事務所。
新宿の街はまだ騒がしいが、この部屋だけは、時間が止まったように静かだった。
田所は机に広げた資料を、何度目か分からないくらい見返していた。
夏野はソファに腰掛け、黙ってそれを見守っている。
「……何か、引っかかってるんですよね」
夏野が静かに言った。
「副社長説が崩れて、甲斐さんが浮かび上がった。でも、まだ“決定打”がない」
「そう。今あるのは全部“状況証拠”だ」
田所は清掃員の動線図を指差す。
「十九時十五分。机は元の位置。十九時三十五分。机はズレている」
「この二十分間に、社長は倒れ、誰かが机を動かし、さらに別の誰かが戻そうとしている」
夏野が言う。
「三人が関与している構図は、ほぼ確定ですね」
「問題は、“最初に社長が倒れた瞬間”に誰がいたかだ」
山岸から電話が入った。
「田所、会議室の入退室ログ、もう一度洗い直した」
「何か出たか?」
「不思議なことに、“誰も入っていない”ことになってる」
「……またか」
田所は苦笑した。
「つまり、記録に残らない入り方をした人間がいる」
「物理的には、非常階段から入るしかない」
「非常階段のカメラは?」
「古くて、そもそも設置されていない」
夏野が言う。
「非常階段を使える人って、限られてますよね」
「そう。社員でも、日常的に使うのは一部だけだ」
田所は言った。
「サーバールームの管理者は、停電時に非常階段を使う訓練をしている」
「……甲斐さん」
「そう。非常階段を“自然に使える人間”だ」
山岸が言った。
「だが、非常階段を使った証拠はない」
「証拠がないこと自体が、この事件の特徴だ」
田所はホワイトボードに、時系列を書き始めた。
19:10
副社長と経理部長が口論。
19:15
清掃員、会議室前を通過。異常なし。
19:20〜19:30
神崎が社内を走り回る。
早乙女は喫煙所。
秘書はデスク。
19:35
清掃員、再通過。机がズレている。
「この間、誰が“完全に空白”だ?」
夏野が即答する。
「甲斐さんです」
「そう。“何も記録されていない人間”は、“どこにでも行ける”」
山岸が言う。
「だが、動機が弱い」
田所は甲斐の人事評価表を見つめる。
「評価は平凡。昇進もない。リストラ対象でもない。表向きは、社長とトラブルもない」
「……殺す理由がない」
「いや、“理由が見えない”だけだ」
田所は別の資料を取り出す。
社内システムのログ一覧。
「甲斐はな、全社員のアクセス履歴を見られる立場だ」
「つまり、誰がどんな不正をしているか、全部知っている」
夏野が言う。
「副社長の横領、経理部長の粉飾、秘書の不倫、人事の精神状態……」
「そう。この事件で出てきた“黒い情報”、全部、最初に把握していたのは甲斐だ」
山岸が言った。
「……じゃあ、社長も何か知ってた?」
「知ってた。そして、それを“利用していた”可能性が高い」
田所は静かに言う。
「社長は、全員の弱みを握って、会社をコントロールしていた」
「その情報源が、システム管理だった」
夏野が息を呑む。
「……甲斐さん、社長の“道具”だった?」
「そうだ。だが、一番“全部を知っている”人間は、いずれ耐えきれなくなる」
山岸が低く言う。
「それが動機……?」
「まだ“仮説”だ。だが、この事件の一番の特徴は――」
田所はホワイトボードを指差す。
「社長の死で、全員の不正が“結果的に消えている”」
「副社長の横領、経理の粉飾、秘書の不倫、人事の問題……全部、社長の死と同時に表沙汰にならなくなった」
夏野が言う。
「……まるで、“全員を救った”みたい」
「そう。社長の死は、結果的に“全員の罪をリセットした”」
山岸が目を細める。
「そんな都合のいい殺人、あるか?」
「ある。“全員の地獄を見続けてきた人間”ならな」
部屋の空気が、
少しだけ重くなった。
夏野が小さく言う。
「甲斐さん、誰のためでもなく、“全部を終わらせた”……?」
田所は答えなかった。
だがその沈黙は、もう“疑い”ではなく、ほとんど“確信”に近いものだった。
「残っているのは、たった一つだ」
田所は言った。
「“甲斐が、その時間に、確実にそこにいた”という、動かない証拠」
「それさえ見つかれば、この事件は終わる」
窓の外、新宿のネオンが、静かに瞬いていた。
真実はもう、すぐそこまで来ていた。




