第3話:疑惑の黒い霧
王立第3騎士団、団長執務室。
そこは、王城の中で最も警備が厳重で、選ばれた騎士しか立ち入れない聖域である。
ガチャリ。
重厚な扉がロックされる音が響いた。
「貧血気味の英雄」を演じ、ココに支えられながら入室したレオンハルトは、部屋の中に入り、鍵をかけた瞬間――。
「……あー、だるい。顔の筋肉が引きつりそうだ」
ドサッ。
彼はココの肩から腕を離すと、とんでもなく気だるげな声を出す。
先ほどまでの「慈愛に満ちた騎士団長」のオーラは霧散。
執務机には向かわず、そのまま部屋の中央にあるソファへ優雅に、しかし脱力しきった様子でゴロンと寝転がったのである。
「……あの、レオンハルト様? お仕事は?」
ココが尋ねると、彼はクッションを抱きしめながら、面倒くさそうに手を振った。
「あんなの部下に任せておけばいいんだよ。僕は『象徴』としてニコニコしていれば、それで国は回るんだから。……あー、肩が凝った」
「…………」
ココの「死んだ魚の目」が、さらに冷ややかな温度を帯びる。
どうやらこの雇い主は、想像以上の「給料泥棒」らしい。
(ま、給料さえ払ってくれれば、上司がサボり魔だろうが関係ないけど。むしろ仕事が減ってラッキーだわ)
ココは気持ちを切り替え、プロのメイドとして一礼した。
「では、私は早速お掃除に取り掛かります。部屋の隅に埃が溜まっておりますので」
ココが棚の上のモップを手に取ろうとした、その時だ。
「え、掃除? そんなの後でいいよ」
グイッ!
「わっ!?」
レオンハルトの手が伸び、ココの手首を掴んだ。
そのまま強引に引き寄せられ、ココはソファの上に転がされる。
ふかふかのクッションに沈んだココの上に、黄金の髪をした美青年が覆いかぶさった。
「ちょ、何するんですか! セクハラは別料金だって言いましたよね!?」
「違うよ。……『充電』」
レオンハルトはココの抗議を無視し、彼女の首筋に顔を埋めた。
彼の身体は、相変わらず高熱を出した病人のように熱い。
だが、ココと密着した部分から、その不快な熱と魔力の奔流が急速に引いていくのが分かる。
「……ふぅ。……やっぱり、君は最高だね」
彼はうっとりと目を細め、ココの腰に腕を回して逃げられないようにロックした。
重い。物理的にも、感情的にも重い。
国一番の英雄が、まるで甘えん坊の大型犬のようにココにしがみついている。
「あの……レオンハルト様。これじゃ仕事になりません」
「これが君の仕事だよ。……言っただろ? 僕が『辛い』ときは触らせてって」
「それは聞きましたけど、ずっとですか? 勤務時間中ずっと、この体勢でいろと?」
「うん。だって離れると、また頭がガンガンするし」
彼は当然のように頷き、さらに強く抱きついてきた。
上目遣いでココを見つめるその瞳は、計算され尽くした「あざとさ」を孕んでいる。
(……この人、私のこと『人間』じゃなくて『高性能冷却パック』か何かだと思ってるわね)
ココはため息をついた。
だが、彼女の脳内そろばんは、この状況を「超黒字」と判定していた。
ただ寝転がって、イケメンの抱き枕になっているだけで金貨10枚。
冷静に考えれば、これほど割のいい仕事はない。
(顔だけは国宝級ね。この顔を拝める拝観料だと思えば、重さも我慢できる……かも?)
ココがそんなことを考えていた、その時。
コンコン。
扉がノックされた。
「レオン、第1騎士団のギルバートだ。至急の決裁案件がある。入るぞ」
低く、厳格そうな声。
ココは血の気が引いた。親衛騎士団長ギルバート。堅物で有名なお方だ。
こんな「メイドを抱き枕にしてサボっている」姿を見られたら、今度こそ社会的に死ぬ。
「レ、レオンハルト様! 起きてください! ギルバート様です!」
ココは慌てて彼の肩を揺さぶった。
すると、レオンハルトは「ちっ」と小さく、しかし優雅に舌打ちをした。
そして――。
バッ。
彼は瞬時に起き上がると、乱れた襟元を一瞬で直し、髪を手櫛で整えた。
その動作は神速。
ココが瞬きする間に、彼は執務机の前に座り、羽ペンを手に取っていた。
「……入りたまえ」
響いた声は、先ほどの甘ったれた声とは別人のような、凛とした威厳のある声だった。
ガチャリ。
扉が開き、眼鏡をかけた神経質そうな騎士――ギルバートが入ってくる。
彼は入室するなり、机に向かうレオンハルトを見て、口を開いた。
「……執務中だったか」
「やあ、ギル。気にするな」
レオンハルトが顔を上げる。
そこにあったのは、完璧な「救国の英雄」の微笑みだった。
爽やかで、誠実で、後光が差すような眩しさ。
さっきまで「だるい」と言って寝転がっていた男と同一人物とはとても思えない。
(す、すごい……! 何この切り替え! 役者!? 詐欺師!?)
ココが部屋の隅で戦慄していると、ギルバートの鋭い視線が彼女に向いた。
「……レオン。その女性は?」
ココは背筋を伸ばし、最敬礼した。
ここでボロを出せば、私の高給生活が終わる。
「は、初めまして! 本日よりレオンハルト様の専属メイドとして採用されました、ココ・メルディアと申します!」
「専属メイド? ……ふむ。レオンが人を雇うとは」
ギルバートは疑わしげな目を向けたが、レオンハルトは困ったように眉を下げてみせた。
「ああ。実は最近、少し貧血気味でね……。医者から『常に誰かの介助が必要だ』と言われてしまったんだ。彼女は優秀だよ、私の体調管理を任せている」
嘘だ。全部嘘だ。
だが、その声色があまりにも儚げで美しいため、ギルバートの毒気が抜かれていく。
「……そうか。貴様は一人で背負い込みすぎる癖があるからな。無理はするなよ」
「ありがとう、友よ。君の気遣いが嬉しいよ」
レオンハルトは聖人のような笑顔で礼を言った。
ギルバートは頬を少し赤らめ(英雄のキラキラオーラに当てられたのだ)、「書類は置いておくぞ」と言い残して退室していった。
ガチャリ。
扉が閉まり、足音が遠ざかる。
その瞬間。
「……はぁ、本当に面倒くさい」
ドサァッ!!
レオンハルトは羽ペンを放り投げ、再びソファにダイブした。
完璧だった仮面が剥がれ落ち、ただの「顔が良いだけのダメ人間」に戻る。
「ココ~、充電」
「……貴方、本当にいい性格してますね」
ココは呆れ果てながらも、彼に捕まって再び抱き枕ポジションに戻された。
外面は完璧な騎士団長。中身はサボり魔の甘えん坊。
この二面性を使い分けて、彼は今までうまく立ち回ってきたのだろう。
「ふあ……ギルの相手をしたら眠気が覚めちゃったな」
レオンハルトはココの膝の上に頭を乗せ(膝枕だ)、虚空を見つめた。
「あ、そうだ。定時連絡しなきゃいけないんだった。……また『本社』の上がうるさいんだよなぁ」
「本社? 騎士団の本部のことですか?」
「んー、まあ、そんなところ」
彼は仰向けのまま、虚空に向かってパチンと指を鳴らした。
ブォン……。
一瞬、部屋の空気が凍りついた。
レオンハルトの指先から、ドス黒い紫色の霧が噴き出したのだ。
それは明らかに、「聖騎士」が使う神聖魔法の色ではない。
もっと禍々しく、深淵を覗き込むような、生理的な恐怖を煽る色。
(……え? 何今の。……魔法?)
ココがビクリと身を竦ませると、レオンハルトは「おっと」と言って霧を霧散させた。
「……いけない。ココの前で仕事の話は無粋だね」
「あの、レオンハルト様? 今の色は……」
「ん? ああ、ただの通信魔法だよ。……少し『回線』が混線してるみたいだね」
彼はニコリと笑って誤魔化したが、その瞳の奥が一瞬だけ、爬虫類のように細まったのをココは見逃さなかった。
(……通信魔法って、あんな呪いみたいな色してたっけ?)
ココの背筋に、冷たいものが走る。
金払いはいい。顔もいい。
けれど、この男には決定的に「何か」がおかしい部分がある。
「……ま、今日はもう報告なんてサボって寝ちゃおうかな」
レオンハルトはココの腰に顔をすり寄せ、猫のように丸まった。
「おやすみ、僕の可愛い安定剤さん。……良い夢を」
すぐに寝息を立て始める英雄。
しかしココは、先ほど見た「黒い霧」の残像が目に焼き付いて、しばらく動くことができなかった。
この時のココはまだ知らない。
自分が足を突っ込んだのが、ただの「ブラックな職場」ではなく、人類の敵対勢力のど真ん中であるということを。
次回、第4話『深夜の密会、映し出された巨影』。
守銭奴メイド、ついに見てはいけないものを見てしまう!?




