第2話:王城封鎖と借金まみれの逃亡者
王城の裏庭にある、リネン室の片隅。
積み上げられた汚れ物の山の中で、ココは息を潜めていた。
彼女の目立たないアッシュグレーの髪は、薄汚れたシーツの色と同化し、絶好の保護色となっている。
(どうして……どうしてこうなったの……!)
ココは頭を抱えた。
あの「事故」から一時間。王城内は、蜂の巣をつついたような大騒ぎになっていた。
「おい、西門は封鎖したか!?」
「第3騎士団総動員だ! 団長からの厳命だぞ、『アッシュグレーの髪をした小柄なメイド』を何がなんでも見つけ出せと!」
「特徴は『死んだ魚のような目をした女』だそうだ! 似たような目のやつは片っ端から連行しろ!」
廊下を走り回る騎士たちの怒号が、壁一枚隔てた向こう側から聞こえてくる。
ココは布の隙間から、さらに死んだ魚のような目を濁らせて遠い空を見つめた。
(特徴が具体的すぎる……! 完全に私だ!)
噂は尾ひれがついて広まっていた。
ある者は「団長の財布を盗んだスリだ」と言い、ある者は「団長に呪いをかけた暗殺者だ」と騒いでいる。
どちらにせよ、捕まればタダでは済まない。
地下牢行きか、あるいは莫大な賠償金を請求されて、実家ごと消し炭にされるか。
(逃げなきゃ。ほとぼりが冷めるまで、王都の外へ……)
ココは意を決した。
幸い、ここはリネン室。汚れ物を城外へ運び出す「回収馬車」がじきに来るはずだ。
それに紛れ込めば、脱出できるかもしれない。
ガチャリ。
ドアが開く音がした。
ココは息を止めて、布の山の中に深く潜り込む。
入ってきたのは、回収業者のオジサン……ではなかった。
カツ、カツ、カツ……。
優雅で、リズムの良い、しかしどこか底冷えするような足音。
その足音は、迷うことなくココが隠れているリネンの山へと近づいてくる。
(嘘でしょ……? なんでバレてるの? 私、気配を消すこと(モブスキル)には自信があるのに!)
心臓が早鐘を打つ。
足音が、ココの目の前でピタリと止まった。
「……ここかな?」
頭上から降ってきたのは、背筋が凍るほど甘い声。
次の瞬間。
バサァッ!!
ココを隠していたシーツが、魔法のような手際で捲り上げられた。
そこに立っていたのは――
「みーつけた」
黄金の髪をなびかせ、極上の笑みを浮かべた「捕食者」レオンハルトだった。
その美しい顔は笑っているのに、碧眼の奥は全く笑っていない。
逃げ回るネズミを追い詰めた猫のように、愉悦と執着に満ちている。
「ひっ、で、出たぁぁぁ!?」
ココは悲鳴を上げて飛び退こうとしたが、遅かった。
レオンハルトの長い腕が伸び、ココの腰をガシッと捕らえる。
そのまま軽々と持ち上げられ、リネンの山の上に押し倒された。いわゆる「床ドン」ならぬ「布ドン」である。
「捕まえたよ、ココ。……ずいぶんと探させてくれたね?」
「も、申し訳ありませんんん!! 私、金目のものは何も持ってません! 臓器も売れるほど丈夫じゃありません!!」
ココは半泣きで叫んだ。
至近距離にあるレオンハルトの顔が、美しすぎて逆に怖い。
彼は逃れようと暴れるココを押さえ込みながら、フゥーッと熱い吐息を漏らした。
「……あぁ、やっぱりだ。君に触れると、楽になる」
「は、はい?」
「さっき君に逃げられてから、地獄だったんだよ。頭が割れそうで、吐き気がして……城の人間を全員消してしまおうかと本気で思った」
彼はココの首筋に顔を埋め、深く呼吸をする。
まるで酸素を求めるように、ココの存在そのものを吸い込んでいるようだ。
(……この人、本当に何なの? 私の安物の石鹸の匂いなんて嗅いで、何が楽しいわけ?)
ココが困惑と警戒で固まっていると、レオンハルトは顔を上げ、懐から一枚の羊皮紙を取り出した。
「さて、ココ。……逃げ回る君に、プレゼントがあるんだ」
「プ、プレゼント……? 手錠ですか? それとも解雇通知?」
「これだよ」
彼が広げて見せたのは、見覚えのある紋章が押された書類だった。
それは、ココの実家が借金をしている闇ギルド『黒蛇』の借用書。
しかも、そこには赤いインクで大きく『債権譲渡済』の印が押されている。
「え……?」
ココの思考が停止した。
レオンハルトは、小悪魔のように目を細めて囁く。
「君の借金、僕が全部買い取った。元金、利子、遅延損害金も含めてね」
「……は?」
ココはあまりの事態に、恐怖よりも先に疑念が湧き上がった。
彼女は目を細め、書類をジロジロと睨みつける。
「……あの、失礼ですが。これ、本物ですか?」
「うん?」
「騎士団長ともあろうお方が、闇ギルドと繋がりがあるなんておかしいです。まさか、偽造書類で私を騙して、どこかの国へ売り飛ばす気じゃ……?」
「はは、君は警戒心が強いね。……ほら、ここを見てごらん」
彼が指差したのは、書類の端にある魔法印。
それは間違いなく、王国の公証役場を通した正式な譲渡印だった。偽造不可能な魔力が込められている。
「ほ、本物……!? じゃあ、本当に貴方が私の借金を?」
「そう。つまり今、君の『所有者』は、あの怖い闇金業者じゃなくて……この僕ってことだ」
彼はニッコリと笑い、借用書をココの目の前でヒラヒラと振ってみせた。
「君の実家の領地、屋敷、そして君自身の身柄。……僕の一存で、今すぐにでも競売にかけられるけど?」
ココは喉を鳴らした。
借金の相手が「怖いヤクザ」から「権力を持ったサイコパス(騎士団長)」に変わっただけだ。状況は改善するどころか、より逃げ場がなくなっている。
「……何のつもりですか。私のような貧乏貴族の娘を買って、何の得があるんですか」
ココは睨みつけた。
タダより高いものはない。こんな美味しい話(借金肩代わり)には、絶対に裏があるはずだ。
「ふふ、いい目だね。……じゃあ、取引といこうか」
レオンハルトはもう一枚、別の羊皮紙を取り出した。
そこには『専属雇用契約書』と書かれている。
「僕の下で働いてほしい。表向きの肩書は『騎士団長付き専属メイド』だ。部屋の掃除、食事の用意、着替えの手伝い……僕の身の回りの世話を全てしてもらう」
「……専属メイド、ですか。それなら分かりますが」
ココは少しだけ警戒を解いた。メイド業務ならお手の物だ。
だが、レオンハルトは妖艶に微笑み、言葉を続ける。
「ただし、それは表向きの話。……本当の業務は、僕が『辛い』とき、こうして触らせてくれることだ」
「……はい? 意味が分かりません」
ココの「死んだ魚の目」がさらに細められた。
完全に不審者を見る目である。
すると、レオンハルトは真面目な顔になり、ココの手首を軽く握った。
「君、自分の体質に気づいてないの?」
「体質、ですか?」
「そう。『魔力吸収体質』。触れた相手の過剰な魔力を、無自覚に吸い取って無害化する……この世界でも極めて稀な特異体質だ」
「マナ……ドレイン……?」
聞き覚えのない単語に、ココは首を傾げた。
レオンハルトは苦しげに眉を寄せる。
「僕みたいに魔力が強すぎる人間は、時々、体内の魔力が暴走して激しい頭痛や不快感に襲われるんだ。……でも、君に触れていると、その『毒』を君が吸い出して浄化してくれる」
彼はココの手を自分の頬に当てさせ、うっとりと目を閉じた。
「君は僕にとって、唯一無二の『安定剤』なんだよ。……だから、君じゃなきゃダメなんだ」
「…………」
ココは呆気にとられた。
つまり、私は「人間空気清浄機」みたいなものだと言いたいのだろうか。
胡散臭い話だが、実際に彼がこれほど執着してくる理由としては筋が通る。
「……なるほど。私がその能力使用すればいいわけですね?」
「そう。……嫌かな? 嫌なら、この金貨は没収して、借用書に基づいて実家を取り立てるけど」
彼はジャラリと音を立てて、革袋をココの膝の上に落とした。
袋の口が緩み、中から溢れ出したのは――眩いばかりの、黄金の輝き。
「月給は金貨10枚。ボーナスは年4回。……どうかな?」
その瞬間。
ココの瞳から「濁り」が消えた。
カッ!! と見開かれたその瞳は、最高級のサファイアよりもギラギラと輝いていた。
(き、きんか……! これ、メッキじゃないわよね!?)
ココは震える手で金貨を一枚掴むと、あろうことかレオンハルトの目の前で「ガリッ」と歯を立てた。
「……っ!?」
レオンハルトが驚いて目を丸くする。
ココは金貨を確認し、真顔で頷いた。
「……本物の純金です。混ぜ物なしの、王国鋳造貨幣ですね」
「き、君……いま僕の目の前で……」
「信用取引の基本ですから。……しかし、話が美味すぎます。月給金貨10枚? そんな高給、裏稼業か違法薬物の実験台くらいしかあり得ません」
ココは金貨を握りしめながらも、まだ疑いの眼差しを向ける。
守銭奴だからこそ、金の怖さを知っているのだ。
「レオンハルト様。正直に言ってください。……私、あと何ヶ月生きられますか? 実は呪い移しの儀式とか、生贄の代わりとか、そういう案件ですよね?」
「……ぶっ」
あまりの猜疑心の強さに、レオンハルトが吹き出した。
「ふふ、あはは! 君、本当に最高だね! ……安心して、命は取らないよ。言っただろう、僕はただ、君にそばにいてほしいだけだって」
ココは天秤にかけた。
片方には、実家の破滅と路頭に迷う未来。
もう片方には、怪しいイケメン騎士団長による過重労働&拘束生活(ただし超高給)。
(……リスクはある。でも、現金の輝きは本物よ。これだけの資金があれば、万が一彼が変態でも、高飛びの準備ができる!)
「……分かりました。その条件、飲みましょう」
「交渉成立だね」
ココは迷わず契約書を奪い取り、サインをした。
これは服従ではない。
この「金払いの良いサイコパス」から、毟れるだけ毟り取ってやるという、ココの宣戦布告だ。
「よし、契約完了だね」
サインを確認するなり、レオンハルトはパッと「完璧な騎士団長の顔」に戻った。
優雅に立ち上がり、紳士的に右手を差し出す。
「じゃあ早速、業務開始だ。……執務室へ戻ろうか」
「は、はい。……あの、歩けますけど?」
ココが立ち上がろうとすると、レオンハルトはふらりとよろめく演技をした。
そして、ココの肩にどさりと体重を預ける。
「……あぁ、いけない。少し貧血気味だ。ここ数日、激務続きだったからね」
「えっ、大丈夫ですか? 誰か呼びましょうか?」
「いや、大事にしたくない。……君が肩を貸してくれれば歩けそうだよ」
彼はココの耳元で、甘く囁いた。
「(……ほら、支えて。離れるとまた頭痛がするから、密着してて)」
「(……っ、この役者!)」
ココは抗議しようとしたが、彼にガッチリと腰を抱き寄せられ、逃げ場がない。
二人はそのまま、寄り添うようにしてリネン室を出た。
廊下には、血眼になってココを探していた騎士たちが溢れていた。
「あ、団長! お怪我はありませんか!?」
「そいつが例の不審者ですか!? 今すぐ捕縛を!」
殺気立つ部下たちに対し、レオンハルトはココに体重を預けたまま、虚弱そうに、しかし慈愛に満ちた微笑みを向けた。
「皆、騒がせてすまない。……彼女は不審者じゃないよ。今日から私の専属として雇った新しいメイドだ」
「えっ? 専属……ですか?」
「ああ。私が少し目眩を起こしてね……彼女に介抱してもらっていたんだ。……ふぅ、やはり徹夜続きは堪えるな」
その言葉に、騎士たちは一斉に感動の涙を流した。
「団長……! またご無理をなさって!」
「国の平和のためにそこまで……!」
「おい、早く団長とメイド殿のために道を開けろ!」
モーゼの海割りのように道が開く。
レオンハルトは「働きすぎの可哀想な英雄」として、ココに支えられながら堂々と廊下を進んでいく。
周囲からは同情と尊敬の眼差し。
しかし、密着しているココだけには分かっていた。
(……貧血? 嘘おっしゃい! この腕、ものすごい力で私の腰を掴んでるじゃない!)
彼は誰も見ていない角度で、ココの首筋を指先でなぞり、楽しげに口角を吊り上げている。
ココは悟った。
借金地獄からは抜け出せたかもしれない。
だがその代わりに、もっと逃げ場のない「英雄様の重すぎる愛(依存)」という名の牢獄に、自ら飛び込んでしまったのだと。
(……ま、金貨10枚もらえるなら、介護でもなんでも付き合ってやるわよ! 元を取るまでは死んでも離れてやるもんですか!)
ココは革袋を抱きしめ、開き直った顔でレオンハルトを支え直した。
こうして、最強の騎士団長と、疑り深い守銭奴メイドの、奇妙な共犯生活が幕を開けたのである。




