第1話:事故物件(騎士団長)との遭遇
王城の西棟、裏廊下。
そこを、リネン類を抱えた一人のメイドが早足で歩いていた。
ココ・メルディア、18歳。
彼女の瞳は、まるで深海魚のように濁りきっていた。いわゆる「死んだ魚のような目」である。
(今月の返済まで、あと金貨3枚……。詰んだ。完全に詰んだわ)
彼女の脳内は、色気もへったくれもない金勘定で埋め尽くされている。
実家の貧乏男爵家が抱える借金を返すために出稼ぎに来ているが、膨らむ利子に給料が追いつかない。
このままでは実家の屋根どころか、柱まで持っていかれて更地になるのがオチだ。
(あーあ。どこかの富豪が道端に落ちていて、『私を拾ってくれたお礼に遺産を譲ろう』とか言い出さないかしら)
そんな都合の良い妄想(現実逃避)をしながら、ココは角を曲がろうとした。
前方不注意。それが、ココの運命を狂わせる引き金だった。
ドンッ!!
「……あぶなっ!?」
曲がり角から現れた誰かと、正面衝突した。
相手はびくともしなかったが、華奢なココは物理法則に従って弾き飛ばされる。
抱えていた洗濯物がバサバサと宙を舞い、ココは無様に尻餅をついた。
「いったぁ……!」
尾てい骨に走る衝撃。しかし、ココの脳裏をよぎったのは痛みの心配ではない。
(シーツが床に! クリーニング代!? 減給!? まさかの解雇!?)
尻の痛みより先に「損害賠償額」を計算するあたり、彼女の守銭奴精神は筋金入りだ。
ココは血の気が引いた顔で、慌てて顔を上げる。
文句の一つも言いたかったが、相手の顔を見た瞬間、その言葉は喉の奥で氷結した。
そこに立っていたのは、この世のものとは思えない美貌の持ち主。
黄金の髪に、宝石のような碧眼。
王立第3騎士団長、レオンハルト・フォン・アレンシア。
国民的英雄であり、ココのような下級メイドにとっては雲の上の存在だ。
(げっ……。よりによって一番高いツボ(英雄様)にタックルかましちゃった!?)
ココは瞬時に「土下座モード」へ移行しようとした。
プライド? そんなもので腹は膨れない。今は解雇回避が最優先だ。
しかし、彼女が額を床に擦り付けようとするより早く、頭上から声が降ってきた。
「……おや。大丈夫かな?」
それは、とろけるように甘く、洗練されたバリトンボイス。
ココがおそるおそる顔を上げると、レオンハルトが優雅に腰をかがめ、ココに向けてスッと右手を差し出していた。
「私こそ、考え事をしていてね。……立てるかい? お嬢さん」
完璧な微笑み。背景に薔薇が見えるような王子様ムーブだ。
ココは内心で(あ、これ制服汚したら追加請求くるやつだ)と警戒しつつも、断るわけにもいかず、震える手を伸ばした。
「も、申し訳ありません騎士団長様! 汚れた手で恐縮です……!」
そして。
ココの小さく温かい手が、レオンハルトの白い指先に触れた、その瞬間。
ピタリ。
二人の動きが止まった。
(……ん?)
ココは違和感を覚えた。
彼の手が、微かに震えた気がしたのだ。
いや、それだけではない。
握られた手から、まるで嵐のような荒々しい魔力の奔流を感じた――かと思うと、それがココの掌を通じて、スゥッと吸い込まれるように消えていったのだ。
「……騎士様?」
ココが不思議に思って顔を上げると――レオンハルトの表情が一変していた。
先ほどまでの「完璧な営業スマイル」が剥がれ落ち、代わりに呆然とした、あるいは夢を見ているような、虚ろな表情でココを見つめていたのだ。
「……消えた」
彼がポツリと呟く。
「……頭を割るような痛みが、ない。……不快感が、嘘みたいに」
「は、はい?」
「君に触れていると……あんなに酷かった苦しみが、全て消えていく」
彼はそう呟くと、あろうことかココを引き起こすどころか、繋いだ手をさらに強く握り締め、すがるように自身の体重を預けてきたではないか。
至近距離に迫る美貌。
吐息がかかるほどの距離で、彼の瞳が揺らぐ。
その瞳は、怒りでも軽蔑でもなく……もっとドロドロとした、飢えた獣のような光を帯び始めていた。
(……え、何この目。怖い)
ココの背筋に、本能的な悪寒が走る。
それは「ときめき」ではない。「生存本能」からの警報だ。
この男は今、私を人間として見ていない。
砂漠を何日も彷徨った旅人が、ようやく見つけた聖なる泉を見るような、あるいは飢えた魔獣が極上の獲物を見つけたような、危険な執着の眼差しだ。
「……離したくない」
レオンハルトが、うわ言のように漏らす。
握る力が強くなる。痛いほどだ。
(ヤバい。これ、絶対に関わっちゃいけないやつだ)
ココの脳内そろばんが弾き出した答えは『逃走』の一択。
このまま捕まれば、どんな理不尽な要求(高額な壺を買わされる等)をされるか分からない。
それに、こんな所を誰かに見られたら、「英雄様を誘惑した」と噂されてクビになるのは確実だ。
クビ=借金返済不能=実家崩壊。
それだけは避けねばならない。
「あ、あの! 申し訳ありません!!」
ココは火事場の馬鹿力を発揮した。
「私、急用を思い出しました! シーツのクリーニング代は給料から天引きしておいてくださいぃぃッ!!」
「えっ、あっ、ちょっ……!?」
ココは渾身の力で彼の手を振りほどくと、散らばった洗濯物をひったくり、脱兎のごとく駆け出した。
「待っ――!」
背後で彼が何か叫んだ気がしたが、ココは振り返らなかった。
いや、振り返れなかった。
振り返れば二度と逃げられない気がして、心臓が破裂しそうなほど脈打ちながら、迷路のような回廊を全力疾走した。
(逃げろ逃げろ逃げろ! 関わったら破産する!!)
彼女は知らなかった。
その背中に、獲物を逃した捕食者の、粘りつくような視線が突き刺さっていたことを。
***
取り残された裏廊下。
レオンハルトは、空を掴んだままの自分の右手を、呆然と見つめていた。
「……あぁ。戻ってきてしまった」
ココの手が離れた瞬間。
堰を切ったように、またあの「激痛」が戻ってきたのだ。
脳髄を直接掴まれるような頭痛。
身体の内側を無理やりこじ開けられるような、魔力暴走特有の吐き気と不快感。
先ほどまでの一瞬の「平穏」が嘘だったかのように、世界は再び苦痛に満ちていた。
「……はは。嘘だろう?」
レオンハルトは額に手を当て、乾いた笑いを漏らす。
もう、耐えられない。
あの一瞬の天国(救済)を知ってしまった今、この地獄には一秒だって耐えられない。
彼の瞳から、理性の光が消え失せる。
代わりに宿ったのは、昏く、重く、底知れない欲望。
「……逃がすものか」
彼は足元に落ちていた、彼女が落としていったハンカチを拾い上げた。
安物の布切れだが、そこには彼女の匂いが微かに残っている。
彼はそれを鼻先に当てて深く吸い込み、獰猛に口角を吊り上げた。
第3騎士団長としての権力。
有り余る財力。
使えるものは全て使ってやる。
「地の果てまで追いかけて、僕のそばから離れられないようにしてあげるよ」
薄暗い廊下で、美しい英雄は、悪魔の顔で笑っていた。
こうして、ココの意思とは無関係に、国を巻き込んだ「壮大な鬼ごっこ(マンハント)」の幕が上がったのである。




