最上極(1)
「60代男性の平均的な聴力レベルだとお考え下さい」
日本人研究員が聴力のグラフを示して説明をした。
「ありがとうございます。なんと御礼を言ったらいいか。本当に夢のようで……」
言葉に詰まったキーボーが頭を下げると、最上は手を立てて横に振った。
「お礼を言うのはこちらの方です。木暮戸さんのご協力に心から感謝しています」
2年に渡るNMEの第一相臨床試験が終わり、キーボーの有毛細胞に再生毛が確認された。
聴力が回復したのだ。
最上にとってこんなに嬉しいことはなかった。
ニタス博士の顔にも喜びが溢れていた。
しばらく歓談したあと、ニタスが一枚の紙をテーブルに置いた。すると、にこやかに浮かべていた笑みは消え、課題解決を追求する研究者の顔になった。
「ご存知かもしれませんが、聴覚障害で苦しむ患者さんはとても多いのです。WHOでは、2050年の世界の聴覚障害者数が4億7,000万人から9億人に達する可能性があると推計しています。そして、治療コストを含めた経済的な損失は年間80兆円に達するとの試算も発表しています」
木暮戸が信じられないというような表情になったのを見て、最上が言葉を継いだ。
「ですので、わたしたちの挑戦は正にこれからなのです。先進国だけでなく、十分な治療を受けられない貧しい国々の患者さんをどうやって救うか、わたしたちは知恵を絞らなければなりません」
ニタスが大きく頷いて、話を引き取った。
「ただでさえ仕事が少ない貧しい国で、聴覚障害というハンディキャップを負った人が仕事を得るチャンスはほとんどないでしょう。その状態をなんとかしたいのです。この薬で得た利益の一部を貧しい国の患者さんに役立てるための仕組みを作り上げたいのです」
するとすぐさま木暮戸は真顔に戻り、揺るぎない声を発した。
「音楽を通じた活動でお役に立てるかもしれません。是非、わたしも参加させて下さい」
*
最上には世界の聴覚障害患者を救うためにしなければならない課題が残されていた。臨床現場で有毛細胞の毛の再生を確認するための卓上型小型診断機器の開発だった。大きな病院ではなく、かかりつけの耳鼻科医がいる診療所などで使用できる診断機器がないとNMEの普及が望めないからだ。
加えて、貧しい国の難民キャンプなどを巡回しながら診察する医師が持ち運べる更に小型の診断機器も必要だった。
その開発を音野と冶金に依頼した。世界初となる診断機器の開発に二の足を踏むのではなかと危惧したが、2人は既にその研究開発に着手していると言って最上を驚かせた。彼らが秘かに研究していた技術開発が最終段階にあると言うのだ。それは、内耳の蝸牛の状態を調べることができる特殊な超音波診断機器の開発だった。
「有毛細胞の毛の再生薬を普及させるためには、それを確認するための安価で小型の診断機器が必要であると思っていました。骨伝導補聴器の開発が成功したあと、わたしたちはすぐに診断機器の開発を始めたのです」
予想外の成りゆきに飛び上がらんばかりになったが、音野の声は冷静だった。
「喜ぶのはまだ早すぎます。卓上型小型診断機器の開発の目処はほぼついていますが、持ち運べるようにするためには、更に大幅なサイズダウンが必要になります。しかも、乱暴に扱っても壊れない堅牢さも求められるのです」
ハードルはかなり高そうだった。
「ですので、超小型にするためには、その最先端の技術を持った企業との共同研究が必要になります」
今その企業を探しているという。
現状を正確に理解した最上は、落ち着きを取り戻して2人に礼を述べた。
「卓上型の目処がついているだけでも朗報です。大学病院、基幹病院だけでなく診療所で使えることができるようになれば、より多くの患者さんにNMEを届けることができます。それはとても意味のあることだと思います」
そして、可能な限りどんなことでも協力すると伝えた。
「ありがとうございます。そう言っていただけると心強いです。必ず完成させてみせますので、もうしばらく時間をください」
音野の言葉に冶金が頷いた。
それはとても力強い頷きだった。




