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最上極(1)

 

「エミ」

「スナッチ」


 いつものように高用量を投与中のマウスとラットに声をかけた。マウスには「エミ」、ラットには「スナッチ」と名づけて、毎日名前を呼びかけるのがアメリカに居る時の日課になっていた。


 あとから合成した3つの誘導体による試験はすべて失敗に終わったが、最初の誘導体を投与する試験は続いていた。しかし、2年以上経つのになんの変化も起らなかった。それは残念なことだったが、このマウスとラットには家族同様の親近感を抱いていた。自分が仮説を立てた誘導体の試験に参加してくれている同志だからだ。


「あと1年、長くても2年ですね」


 何気なく言ったであろう日本人研究員の言葉に胸が締め付けられるようになった。マウスやラットの寿命は長寿のものでも3年ほどと言われているので、別れの時が刻々と迫っているのだ。覚悟はしているが、その時が来たら耐えられるかどうか自信がなかった。


        *


 5月5日の夕方、合弁研究所の仲間が誕生日を祝ってくれた。

 大きなバースデーケーキに『55』とクリームで描かれていた。

 ケーキに立てられたロウソクが5本だったので一気に吹き消すことができたが、動物実験の火も消えてしまうのではないかという思いが過って、嬉しさも半分ほどになってしまった。


 それが尾を引いたのか、家に帰る気が起きず、仲間と別れたあと、研究所の動物実験室に立ち寄った。


 入室前に手指消毒をし、

 ディスポの滅菌ガウンに着替え、

 マスクとキャップを着けた。

 入室専用の靴にはシューカバーをつけ、

 最後にディスポの手袋をはめた。

 そして、実験室に入った。


 エミは眠っているようだったが、気配を感じたのか、ゆっくりと動き出した。


「エミ、55歳になったよ」


 つぶらな瞳を見つめながら声をかけると、動きを止めて、こちらの方に顔を向けた。

 それを見て嬉しくなった。


「エミも喜んでくれるの、俺の誕生日を」


 すると、また動きを止めて、こちらへ近づいてきた。


「エミちゃん」


 最上も檻に近づいた。

 見つめていると、口づけがしたくなった。

 もちろんしなかったが、その代わりにつぶらな瞳をじっと見つめた。


「エミちゃん」


 声をかけると、目が合った。こちらをじっと見つめる目は、何かを訴えているようだった。


 もしかして……、


 突然、心拍数が上がって、感情が高ぶった。

 血圧が異常レベルにまで上がっているのではないかと思えた。

 大きく唾を飲み込んで、エミを凝視した。

 エミもこちらをじっと見ていた。

 突然、大きな声で彼女に呼び掛けたい衝動にかられた。

 しかし、冷静になれという心の声が聞こえたような気がした。

 それに従って、檻から離れた。


 しばらくすると、心拍数が落ち着いてきた。

 もう一度檻に近づくと、エミは動き回りながら、床に鼻を近づけて、無心に匂いを嗅いでいた。

 それをじっと観察して、エミが背中を向けるのを待った。


 向きが変わった。

 顔が見えなくなった。


 今だ! 


 もう一度声をかけた。


「エミちゃん」


 すると、エミは動きを止め、耳をぴんと立てて、声がした方に顔を向けた。

 そして、こちらに近づいてきた。


 反応している……、


 間違いなくエミが反応していた。

 自分の声に反応していた。


 もしかして、


 慌てて実験室を飛び出し、私服に着替えて、スマホを手にした。


 連絡しなければ。


 しかし、手が震えてスマホをうまく扱えなかった。


 落ち着け。落ち着くんだ!


 震える手を叱りつけて、なんとか目当てのアイコンをクリックした。


 8回の呼び出し音のあと声が聞こえたので、震える手を押さえて声を絞り出した。


「すぐ来てください」


 そう言った瞬間、スマホを落としてしまった。


「もしもし……」


 床に落ちたスマホから聞こえるニタス博士の声に反応ができず、ぶるぶると震え続けた。



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