(4)ゼミ入室
心配は杞憂に終わった。分裂することもなく、なんとか大学祭を乗り切ったのだ。バラード中心なので盛り上がりはいまいちだったが、それでも初めてのステージを経験できたことは大きな収穫だった。人前で演奏するスリルを味わえたし、大きな拍手をもらえたことに感激した。来年はもっと頑張ろう、そんな気持ちになったせいか、今まで以上に練習に力が入るようになった。
そんな中で迎えた大学3年の春、幸運にも第一志望の『澤ノ上ゼミ』に入室することができた。日本のマーケティング界で第一人者と言われている澤ノ上教授のゼミであり、あの憧れのプロデューサーが所属したゼミだった。
ゼミの初日、最先端のマーケティング研究から生み出された成果を学べることにワクワクしながら誰も座らない最前列の席で待ち構えていると、ドアが開き、教授が入ってきた。
その瞬間、背筋がピンと伸びた。教授は中央の教壇に資料を置き、ゆっくりと室内を見回した。そして短い挨拶のあと、背広の上着を脱ぎ、ネクタイを緩めて、咳払いを一つした。
さあ、いよいよ始まる。
固唾を飲んで教授の第一声を待った。アメリカの超一流の学者と共同研究している彼の口から最先端のマーケティング用語が飛び出すものと思ってワクワクしながら待った。しかし、耳に届いたのは予想外の言葉だった。
「三方よし!」
近江商人の経営哲学だという。三方とは、『売り手』と『買い手』と『世間』のことだった。
「売り手と買い手が互いに利益を取るのは当たり前。しかし、それだけでは真っ当な商売とは言えない。そのことが世間、つまり社会に貢献してこそ真の商売である」
教授は違法な事例をいくつか挙げた。
「売り手と買い手だけを利するものは単なる取引である。商売ではない。そのことを頭に叩き込みなさい」
なるほど、社会に貢献し評価されてこそ真の商売か、
この言葉をしっかりと受け止めるためにノートに書き写し、三方よし、と心の中で呟いた。
*
その夜、居酒屋の2階を借り切ってゼミの歓迎会が行われた。教授はテレビ出演のため不在だったが、先輩の4年生が全員でもてなしてくれた。彼らは口々に「おめでとう」と笑みを浮かべて、次々にビールを注いでくれた。
それが嬉しかった。注がれるたびにグラスを空けた。憧れのゼミに入れた喜びだけでも舞い上がりそうになっている上に、先輩がもてなしてくれるのだ、これ以上幸せなことはなかった。
宴が進み、かなり酔った同期生が話しかけてきた。
「教授は三方よしと言ってたけど、あれって三方一両得の間違いじゃないのか」
確かに、三方一両得という言葉に聞き覚えがあった。でも、教授が間違えるはずはない。日本を代表する学者なのだ。とはいっても、木から落ちる猿もいる、う~ん、と心の中で唸っていると、彼は一段と大きな声を出した。
「日本の第一人者なんて言われているけど、教授もたいしたことないよな。大丈夫か、あの人」
すると、近くにいた先輩が怒ったような顔をして同期生の目の前に座った。
「君! 澤ノ上教授に対して失礼なことを言うんじゃない」
同期生は一瞬怯んだようだったが、「たいしたことないんだから、たいしたことないって言ったんですよ。どこがおかしいんですか」と口の端に泡を溜めて食ってかかった。
「君ね」
先輩の目が座っていた。
「三方一両損という言葉はあるけど、三方一両得なんていう言葉はないんだよ。大岡裁きのことをきちんと理解してから発言しなさい。教授のことをバカにしたら私が許さん!」
余りの剣幕に同期生は青ざめたようになったが、しどろもどろになりながらも言い訳を始めた。自分が間違っていたことを認めようとせず、なんとかこの場を逃れようとしていた。しかし、先輩はそんな態度を許さなかった。
「明日からゼミに来なくていい」
冷たく突き刺すような声に場が凍った。
彼はゼミ長だった。教授から最も信頼を得ているゼミ長の命令は教授の命令と同じだった。
ヤバイと思って同期生を見た。謝ってこの場を収めるものとばかり思っていたが、彼の目には反省の色が見えなかった。無礼を謝るような雰囲気は微塵もなかった。
「こっちがお断りだよ」
ゼミ長に対して悪態をつき、ふらつく足でその場を去っていった。