(7)セーフ
翌日の夕方、大学から帰宅して食事を済ませたあと、風呂に入って髪を洗っている時だった。
「電話よ」
すりガラス越しに母親の大きな声が聞こえた。
すぐさまシャワーを止めた。
「誰?」
「木暮戸さん」
「キーボー? あっ、え~っと、あとでかけ直すって言っておいて」
急いで風呂から出て髪を乾かし、服を着て、電話が置いてある玄関に急いだ。
受話器に手を置いた。しかし、それを持ち上げることができなかった。電話が繋がった時に何を言ったらいいのか思い浮かばなかったからだ。
「どうも」
「電話を貰ったそうで」
「風呂に入っていたので遅くなりました」
「お変わりありませんか?」
「どんな御用でしょうか」
「スナッチです」
「須尚です」……、
頭に浮かんだセリフはどれも陳腐で使えるフレーズではなかった。
困った。もっと気の利いた言葉はないかと探したが、やっぱり何も思い浮かばなかった。
ぐずぐずしていると、リビングから母親が出てきて、トイレに入ろうとした。しかし、ドアを開けたまま立ち止まって、怪訝そうな表情でこっちを見た。そして、「何してるの? そんなところで長居してたら湯冷めするわよ」と言ってから、ドアをバタンと閉めてトイレに入った。
トイレから出た母親がもう一度訝しげな目でこっちを見てリビングに戻ると、いきなりクシャミが出た。それに押されたわけではないが、左手で受話器を持ち上げた。右手でダイヤルを回すと、すぐに電話が繋がって、お母さんが出た。キーボーがいる地下の部屋に電話を回してくれた。
彼の声が聞こえると、何故か懐かしく感じた。「どうも……」と言ったあと続かなかったが、彼はすぐに本題に入った。
部室に置いてあったカセットテープを聴いたこと、とても良かったこと、それはタッキーやベスも同じだということを伝えてくれた。
「ありがとう」と言われた時は、ちょっとジーンとした。でも、また「どうも」としか言えなかった。すると、「明日の午後は空いているか」と訊かれた。「大丈夫です」と答えると、「ギターを持って部室に来て欲しい」と頼まれた。「わかりました」と言って電話を切ろうとしたが、思いとどまった。
自分が先に切るわけにはいかない。キーボーが電話を切るのを待った。
電話が切れた。
プープーという音が聞こえてきた。
しかし、受話器を戻すことはできなかった。
手に持ったまま、プープーという音を聞き続けた。
その音は「セーフ、セーフ」と言っているように聞こえたからだ。
だから、しばらくそのままでいた。
すると、またクシャミが出て、大きな「ハックション」が玄関に鳴り響いた。
鼻をすすると、3人の顔が次々に浮かんできた。
でも、その顔は別れた時の険しい顔ではなかった。
ほっとして受話器を戻した。