追放された第三王女は、暗殺者と偽装結婚します
あの日「辺境伯家に嫁ぎなさい」という追放宣告を受けてからひと月。王宮の一角にある居室で過ごす最後の夜に、私は人生で初めて心から笑った。
雨音が窓を打ちつける。王宮の東塔、第三王女のための小さな居室。明日の朝には王都を発ち、二度と戻れない旅に出る。そんな夜に届いた密かな報せは、あまりにも皮肉な知らせだった。
婚約者が暗殺されかけたという。
一度も会ったことのない相手。辺境伯家の跡取り息子ジョゼフ・ルートヴェルトが、何者かに襲われたが一命を取り留めたとのこと。しかし父王の密偵から、彼は実際には死亡したという別の情報も届いていた。
結婚式の前日であることもまた運命の悪戯。
窓辺に立ち、闇に浮かぶ自分の姿を眺める。第三王女、レティシア・エル・ソルディアス。「魔力を持たない無能」と継母――王妃に公言され、私は政略結婚の駒として扱われた。その結婚相手の真の状態すら、私には分からない。密偵の情報が正しければ、婚約者は既に冷たい遺体となっているはず。これは救いなのか。
雨が強くなり、窓を激しく叩く。不思議なことに、雨の音が私の動揺に合わせるように激しくなったり静かになったりする。幼い頃から時々あることだ――感情が高ぶると、周囲で説明のつかない現象が起きる。風が急に吹いたり、光が揺らいだり。もちろん「魔力なき王女」である私には関係のない現象だった。
背後で小さな物音がした。
振り返る。影が天井から降り立った。薄暗い寝室のランプの光に浮かび上がる黒装束の人影。手には短剣。背の高さと肩幅から男性とわかる。
暗殺者。
部屋の温度が急に下がったような気がする。凍りついた喉から、かすれた声が漏れた。
「継母はようやく私を消す気になったのね。父王の密偵が真実を伝えているなら、婚約者はもう死んでいるわ」
影が首を横に振る。
「殺しに来たのではない。それと、貴女の情報は正しい。ルートヴェルト家の息子は死んでいます」
低く落ち着いた声音。彼の声には王宮の教養ある貴族にも似た抑揚があるように感じた。
「では何をしに来たの? 盗み? 残念ながら第三王女の部屋に価値あるものなどない。せいぜい明日着る婚礼衣装くらいかしら。もっとも、死んだ婚約者のためのものだけど」
意外にも落ち着いている自分に驚いた。恐怖よりも諦めが勝っているのかもしれない。死ぬことへの恐れより、これ以上生き続ける疲労感のほうが強かった。
男は進み出て、顔を覆っていた黒い布を取り去った。ランプの灯りと窓から差し込む月光に照らされた顔が現れる。思いのほか若い。二十代半ばといったところか。整った顔立ち、鋭い灰色の瞳。手入れの行き届いた黒髪は、暗殺者というよりも貴族のようだ。
「私はノア。王国の執行者です」
執行者――秘密裏に王に仕える暗殺集団の一員だと聞いている。裏社会で恐れられる存在だ。
「貴女の婚約者、ジョゼフ・ルートヴェルトは私が殺しました」
驚きで言葉が詰まる。彼は落ち着いた声で続けた。
「提案があります。私と結婚しませんか? もちろん偽装です」
月光に照らされた彼の表情は真剣そのもの。戸惑う私に、彼は説明を始めた。
「ジョゼフは国家転覆を企てていました。彼の暗殺は国王直々の命令です」
父王の命令? そんな情報、一切聞いていない。
「暗殺は秘密裏に行いました。情報は我々執行者によって操作され『暗殺未遂だが一命を取り留めた』という風になっています。辺境伯家にもその連絡が入っているはずです」
頭の中で情報を整理する。つまり、ルートヴェルト家の子息、私の婚約者ジョゼフは生きていることになっている。
「しかし、辺境伯家との政略結婚は必要。そこで私がジョゼフ・ルートヴェルトになりすまし、貴女と結婚する。貴女の立場も守られ、私は潜伏任務を続けられる」
目つきがきつくなっているのを感じながら尋ねた。
「どうやってなりすますの? 彼の顔を知る人は多いはず」
ノアが右手をかざした。掌から淡い光が溢れ、その光が彼の顔を包み込んだ。数秒後、目の前に立っていたのは全く別人。茶色の髪に青い瞳、鼻筋の通った典型的な貴族の顔立ち。
「変容の魔法です。暗殺者の基本スキル。血縁者以外を欺ける程度の術ですが」
光が再び彼を包み、元の姿に戻る。短い時間だが、表情に疲労の色が浮かんだように見えた。
「その魔法、維持するのは大変なのでしょう?」
「三日ほど続けると疲労が蓄積します。貴女の前でだけ、本来の姿に戻るようにします」
彼は微かな苦笑を浮かべた。
「幸い、ジョゼフ・ルートヴェルトは辺境伯の養子で、幼少期から王都から遠く離れた地で育てられました。王都の親戚とも疎遠で、数年前に辺境伯家に正式に迎えられたばかり。彼を本当に知る人間は少ない。変容の魔法と王国から提供された情報で十分対応できます」
彼は床に膝をつき、私を見上げた。
「レティシア殿下。私と結婚していただけませんか?」
月明かりの中、見知らぬ暗殺者からの突然のプロポーズ。しかも偽装結婚。あまりに突飛な提案に、声を失った。この男を信じるべきか否か。
しかし、選択肢はあるだろうか? 婚約者が死んだ今、私を待つのは王宮での幽閉生活の継続。旅立ちの計画は白紙に戻り、継母の支配下に置かれ、新たな策略に巻き込まれる。
死ぬ未来しか待っていない。
もはや何も失うものはない。
「お受けします」
男の瞳が僅かに見開かれた。
「本当に? もう少し考える時間が必要かと」
「考えるだけ無駄よ。婚約者が死に、私には行き場がない。あなたの話が真実なら、これは父上の意向。偽りなら――」
肩をすくめて微笑む。
「殺されるだけでしょう。すでに覚悟はできています」
ノアは立ち上がり、私をじっと見つめた。
「レティシア殿下。真実をお伝えします。私が追っているのは単なる転覆計画ではなく、王宮内の大きな権力争いの一端です。ルートヴェルト家は単なる駒でしょう。そして――」
ノアは一瞬言葉を切り、私の表情を見つめた。
「王妃。つまり貴女の継母がこの陰謀に関わっている可能性が高い。彼女は黒魔術を操る。何が起きるのか分りません。私たちの偽装結婚には危険が伴うでしょう」
継母――あの女を思い浮かべるだけで、体が緊張する。幼い頃から私に向けられた冷たい視線。十二歳、母が亡くなった後からは、公然と「魔力なき王女」と蔑んできた。夜中に彼女の部屋から聞こえる奇妙な呪文の響き。かつて一度だけ、好奇心から覗いた儀式の部屋で見た、赤黒い光と白骨の魔法陣。恐ろしすぎる光景だった。
「それでも引き受けるわ」
初めて彼の表情に微かな笑みが浮かんだ。
「では契約を交わしましょう」
彼が右手を差し出す。私もそれに応えて手を伸ばした。握手を交わした瞬間、彼の掌から魔力の光が溢れた。その光は金色――王族の魔力の色だ。母の魔力も同じ色だった。彼は本当に王家に仕える者なのか。
「魔力の契約……?」
驚いて見つめると、彼は小さく頷いた。
「偽装であれ、結婚は結婚。私は貴女に誓いを立てます」
魔力の光が消えた後も、彼の手の温もりが残り、私の中で何かが揺れ動いた。
いまのは何だったのだろう、と考えていると、彼は手を離して窓辺に向かった。
「ところで、あなたの母上は強い魔力を持っていましたね」
唐突な母の話題。胸が締め付けられる。
「ええ、王国一の魔法使いと言われていたわ。でも、なぜ?」
「好奇心です。彼女の魔法指南書を拝読したことがあります」
ノアの視線が一瞬だけ遠くを見る。彼は母を知っているのだろうか? 母が亡くなったのは十年前。
「彼女は優しい方でした」
母を知っている? 確かに母は優しかった。父王の最愛の妃であり、王宮中から慕われていた。そしてある日突然、病に倒れた。遺体には奇妙な痕跡があった。あの謎は未だに解明されていない。
「そうね……でも十年前に亡くなったわ」
ノアは黙って頷く。
「では明日、結婚式でお会いしましょう。未来の辺境伯夫人。楽しみにしております」
ノアは来た時と同じように、軽やかに跳躍して天井の影へと音もなく消えていった。
雨音だけが残された部屋に響く。
明日から始まる偽りの人生。生まれて初めて、私は未来に小さな期待を抱いた。死んだはずの婚約者になりすます暗殺者と、魔力なき王女の奇妙な同盟。
この茨の道の先に、何が待っているのだろう。
*
婚礼の翌日、私たちは辺境伯領への旅路についた。
結婚式は昨日、王宮の小さな礼拝堂で執り行われた。最小限の列席者だけ。簡素な儀式。継母は「無能な娘」を手放せて満足そうな笑みを浮かべ、父王は儀式の間ずっと厳しい表情を崩さなかった。
儀式の途中、父の目が一瞬ノアと交差し、微かな安堵の色が浮かんだように見えた。
私は本物の、嫌々結婚させられる王女そのものを完璧に演じていた。
馬車は舗装された王都の道から荒れた田舎道へと移っていく。窓の外の景色は徐々に変わり、豪奢な邸宅や商店が立ち並ぶ通りから、郊外の風景へ変わっていった。王都の生活はこれで終わり。もう戻ることはない。
「揺れが激しいですね。大丈夫ですか?」
向かいの席に座るノア。もはや彼は暗殺者の装いではなく、端正な顔立ちの若き伯爵家の跡取り息子を完璧に演じている。そう、魔法で演じているのだ。目の奥に、疲労の色が見える。変容の魔法を長時間維持することの負担だろう。
「平気よ。それより上手く演じられた? 父上も継母も何も気づかなかったみたいだけど」
「完璧でした。殿下は天性の役者かもしれませんね」
薄く笑みを浮かべたノアの表情に、思わず目を奪われた。
「今後のことですが、伯爵領に着いてからは完全に夫婦として振る舞う必要があります。公の場ではジョゼフとレティシアとして」
「もちろんよ。契約は理解しているわ」
窓の外に目をやる。王都の最後の姿が徐々に遠ざかっていく。
「ただ」
ノアの声に振り返ると、真剣な表情で私を見つめていた。
「夜の義務は免除します」
理解するのに少し時間がかかった。頬が熱くなる。
「と……当然でしょ! 偽装なんだから。そんなこと言われなくても」
慌てて窓の外に視線を戻す。彼の視線が背中に突き刺さる気がした。その時、窓ガラスに細かいひび割れが走った。馬車の揺れのせいだろう。
「ただ、就寝時の行き来は見られる可能性が高い。噂を避けるため、同じ寝室で過ごすことになりますが」
「わかってるわ。心配しないで」
振り返らない。赤くなった顔を見られたくなかった。王族として政略結婚は当然のこと。偽装とはいえ、ノアと寝室を共にする。また顔が熱くなる。
馬車は進み続ける。二人の間に沈黙が漂った。やがてノアが口を開いた。
「少し休みますか? 三日ほどの道のりです。辺境伯領は王都から相当離れていますので」
「ええ」
そう答えながらも、簡単に眠れるとは思えなかった。目を閉じると、昨晩からの出来事が走馬灯のように蘇る。
暗殺者との契約。偽りの結婚。これから始まる二重生活。
馬車がひどく揺れ、思わずノアの方へ傾いた。彼の手がさっと伸び、私の肩を支える。
「大丈夫ですか?」
近すぎる距離に、思わず身を引いた。
「ありがとう。大丈夫よ」
彼の瞳が、私を射抜く。そして小さく頷いた。
「少し馬車酔いしているようですね。こちらを飲みませんか?」
彼が小さな水筒を差し出した。
「何かしら?」
「ハーブティーです。旅の疲れを和らげる効果があります」
躊躇いながら受け取り、一口含んだ。爽やかな香りと優しい甘みが広がる。意外と美味しい。その香りは、どこか懐かしい。ふと気づく。幼いころ、母が私に作ってくれたお茶の香りに似ていた。
「意外ね。暗殺者が薬草の知識まで」
「様々な毒と解毒の知識は基本です。ただし、これは純粋な薬草です。安心してください」
彼の唇が少し上がった。冗談を言っているのだろうか。この男の素が見えない。
「ルートヴェルト家の屋敷について、教えてもらえる?」
話題を変えながら、もう一口ハーブティーを飲んだ。
「伯爵家の館は大きいですが、王宮に比べれば小さい。主に辺境伯夫妻、私たち夫婦、そして使用人が住んでいます。周囲は広大な農地と森に囲まれています」
彼は淡々と説明を続けた。
「辺境伯家は国境守護のため、相当な兵力と強い権限を持っています。周辺領民は比較的裕福で、反乱の兆候はない。ただし、国境に近いため、時々隣国からの密輸や亡命者の問題が起きている」
「あなたはよく調べているのね」
「任務のためです」
簡潔な答え。窓の外に視線をやった彼の、憂いをおびた表情。この男は謎だらけだ。
夕暮れ時、最初の宿場町に到着した。明日は一日中馬車の旅になるという。宿に入り、夕食を取った後、私たちは隣接する部屋に案内された。
ノアは部屋に入るとすぐに、魔法の変容を解いた。変身の光が消えると、彼の本来の姿が現れる。長時間の変容維持で疲労が蓄積していたのか、額に汗が浮かび、呼吸が荒い。
「大丈夫?」
「すぐに回復します。一時間ほど本来の姿に戻れば」
彼は椅子に腰を下ろし、深く息をついた。
「正直に言うと、変容魔法は私の本領ではありません。通常、暗殺者は短時間の変容しか行わないので」
彼は右手で軽く額を押さえながら視線を上げ、私をじっと見つめた。
「レティシア殿下、あなたには不思議なものがある。見えないはずの魔力の流れを感じる」
「私には魔力がないわ。母のような才能も受け継いでいない。継母が公言したように」
「そうでしょうか? 貴女の周りには変わった波動がある」
ノアは静かに立ち上がり、私の方へ歩み寄る。思わず後ずさる。
「恐れないでください。ただ確かめたいのです」
彼は右手を私の方へ伸ばした。肩口あたりを目指して。反射的に身を引こうとしたが、何かが止めた――好奇心かもしれない。彼の手が近づくと、肌が熱く感じる。そして彼の指先が私の肩に触れた瞬間、青い光が私の体から放たれた。光は弱く、すぐに消えた。
「やはり……」
ノアの顔に驚きの色が浮かぶ。
「あなたの魔力は封印されています。魔力がないのではなく、使えないだけです。そして、その封印が少しずつ弱まっている」
魔力? 私に? それはない。魔法学院の試験でも何の反応も示さなかった。母の優れた魔力も受け継がなかった私。それなのに――。
「封印? でも、なぜ?」
ノアは首を横に振った。
「それは私にも分かりません。ただ、封印の痕跡が見える。おそらく高度な儀式によるものでしょう」
遠い記憶がよみがえる。母が病に倒れる少し前、私を連れて古い神殿へ行ったこと。そこで行われた奇妙な儀式。「あなたを守るため」と言った母の涙。なぜ忘れていたのだろうか。
ふと思い至る。母はなぜ、私の魔力を封印したのか。分らないことだらけで混乱する。
ノアは部屋の窓辺に立ち、外をじっと見つめた。
「明日からが本当の試練です。辺境伯家に潜入し、証拠を集める。貴女の協力が必要になります」
振り返った彼。灰色の瞳が光る。
「信頼してもいいの? あなたのことは何も知らないのに」
「賢明な判断です。私のような者を簡単に信じるべきではない」
彼は窓際から離れ、私の方へ歩み寄った。
「ただ、一つだけ約束できることがあります。私はあなたを守る。どんな状況になっても、あなたの命と安全を最優先します」
嘘の色は見えなかった。それは真摯な誓い。そして再び、彼の周りに淡い金色の魔力が見えた気がした。
その夜、私たちは隣の部屋で別々に眠った。眠りに落ちる前、ベッドに横たわりながら、母について考えた。私の魔力を封印したのはなぜか。そして、ノアの言う「封印が弱まっている」とは、どういう意味なのか。
*
翌朝、ノアの姿はすでにジョゼフ・ルートヴェルトに戻っていた。彼は昨夜より元気そうに見え、魔法の維持も安定しているようだった。
馬車に乗り込み、再び旅は続いた。風景は荒涼とし、人の気配も少なくなっていく。
昼食を取るために馬車を止めた宿場町は、想像以上に疲弊していた。住民の表情には暗い影が宿り、子供たちも元気がない。何かがおかしい。
「ここは本来、豊かな町のはずです」
ノアが小声で言った。
「辺境伯の統治下ですが、税金が異常に高いと聞いています。彼の軍備増強のための費用を、民から搾り取っているのでしょう」
政略結婚を通じて辺境伯家と王家の絆を強めるはずだったのに、実際には謀反の準備が進んでいる。
昼食を終え、再び馬車に乗り込む直前、黒い馬に乗った一団が町に入ってきた。軍服を着た男たちは、辺境伯の紋章を纏っている。
先頭の男が馬上から町長らしき老人に何事か告げると、老人の顔が青ざめた。兵士たちは町の若者数名を馬から降りて捕え、縄で縛り始めた。
「強制徴兵です」
ノアが低い声で言った。
「急いで出立しましょう。関わらないほうがいい」
私たちが馬車に乗り込もうとした時、悲鳴が聞こえた。捕らえられた若者の一人の母親が、兵士に泣きすがっている。兵士は冷酷にその女性を突き飛ばした。老婆が地面に倒れ、若者が怒りに任せて兵士に飛びかかる。兵士の剣が引き抜かれた。
見てられない。反射的に歩き出した私の腕を、ノアがきつく掴んだ。
「やめてください」
ノアの表情は厳しい。しかし、彼の目には苦悩も浮かんでいた。彼も見過ごしたくないのだろう。
兵士の剣が振り上げられ、母を守ろうとした若者に振り下ろされようとした瞬間――激しい感情が私の中で吹き荒れた。
やめろ、と無言で叫んだ。
兵士の剣が青く光った。
持ち手が熱くなったのか、兵士が剣を取り落とす。
その隙に、若者と母親は逃げ出した。
何が起きたのか分からず、兵士たちは混乱している。
どうして剣が光った。まさか、私のせい――
ノアは私の方をじっと見つめていた。彼には何か見えたのか。
「急いで馬車に」
彼は私の背を押す。何が起きたのか把握できないまま、私たちは馬車に乗り込み、急いでその場を離れた。
*
馬車の中で、ノアは長い間黙っていた。しばらくして町が見えなくなると、ようやく口を開いた。
「封印が弱まっている。貴女の感情が高ぶると、魔力が漏れ出す」
彼の表情は深刻だった。
「あれはやっぱり……私が?」
「はい。あなたの無意識の力です。剣を熱くして、兵士に持たせなくした。単純ですが効果的な魔法でした」
「私の魔力が封印された理由は分る?」
「分かりません。しかしおそらく、あなたの母上には理由があったはずです。魔力の強さは時に災いを呼ぶことも」
ノアの言葉は何かを示唆している。彼は何を知っているのだろう。
夕暮れ時、私たちは小さな村の宿に泊まった。部屋は一つしかなく、仕切りのあるだけの狭い空間だった。互いに背を向けて着替え、早めに就寝することにした。
明日の夕方には、辺境伯家の館に到着する予定だ。そこからが本当の任務の始まり。二人きりで敵の中に入っていく。
ベッドに横になり、明かりを消した後、暗闇の中で静かにノアの声が聞こえた。
「あなたは特別な方です、レティシア殿下。魔力だけではなく、精神の強さも。明日からの日々がどうなるか分かりませんが、守ると誓った以上、必ず守ります」
返答する言葉が見つからなかった。ただ心の中で、この不思議な男との偽りの結婚が、封印された魔力の謎を解き明かすきっかけになるようにと祈った。
目を閉じる。遠い記憶がよみがえる。母の優しい声。「いつか分かる時が来るわ」と言った最期の言葉。当時は意味が分からなかった。今なら少し理解できる気がした。
*
辺境伯家の屋敷は、想像していたよりもずっと堂々としていた。
三日間の旅を経て、私たちは辺境の町ヴェルドモントに到着した。国境に近い城郭都市で、周囲を高い石壁に囲まれていた。軍事色の強い街並み。入城する際、異様なほど武装した兵士たちが目についた。彼らは訓練しているようでもあり、何かの準備をしているようでもあった。
町の中心に聳える巨大な石造りの邸宅が、ルートヴェルト辺境伯の居城だった。この建物も要塞を思わせる堅牢な造りで、各所に監視塔が設けられている。防衛のためというよりは、周囲を監視するためのものにさえ見えた。
城門をくぐると、多数の従者が出迎えた。その先頭に立つのは、厳めしい表情の中年夫妻。辺境伯グレゴリーと夫人エリザベスだ。
馬車から降り立つ。横にはノア。完璧な変容魔法で、ジョゼフ・ルートヴェルトの姿になっている。淡い茶色の髪に青い瞳、端正な顔立ち。彼は自然に私の腕を取り、紳士的な仕草で導いた。三日間の旅で、彼の変容魔法の持続時間は安定してきているように見えた。人目がある時は完璧なジョゼフとして振る舞い、夜の二人きりの時だけ本当の姿に戻る。
「お二人の無事な到着を心から歓迎いたします」
辺境伯が深々と頭を下げる。声は低く、威厳がある。表面上は丁寧だが、目は冷たく計算高く感じる。彼は私の顔よりも、むしろ「息子」の方に強い関心を示していた。五年以上も会っていない養子への観察なのか、それとも別の理由があるのか。
「父上、母上、ただいま戻りました。そして私の妻、レティシア・エル・ソルディアスをお連れしました」
ノアは演技の天才だ。息子を演じる彼の声には適度な尊敬と愛情が混ざり、本物の親子関係を完璧に表現していた。
「王女殿下、お迎えできることを光栄に存じます。どうか我が家をご自分の家と思ってくださいませ」
辺境伯夫人のエリザベスが丁寧に挨拶した。表情は硬いが、敵意は感じない。彼女の視線は辺境伯よりも温かく、同時に悲しげな色を秘めているようにも見えた。
「ありがとうございます。どうぞレティシアとお呼びください。これからお世話になります」
王宮での作法通りに会釈をする。新妻の緊張感は演じなくても自然と滲み出ていた。
「では屋敷内をご案内します。ジョゼフ、貴方も久しぶりよね。西の学院から戻ってきたのはいつだったかしら」
そう言いながら辺境伯夫人に導かれ、私たちは石畳の廊下を進む。ノアへの質問。彼は準備していたのか、自然に答えた。
「二年前の夏です、母上。それからずっと国境哨所での任務でしたから」
辺境伯夫人は納得したように頷いた。彼女の表情に僅かな安堵の色。ノアは魔法省の準備した情報を完璧に使いこなしている。
城内は予想以上に広大だった。迷路のような廊下、高い天井、厚い壁。王宮ほどの華やかさはないが、実用的で堅牢な造りだ。随所に剣や鎧が飾られているのが印象的だった。
ノアはすでに情報収集を始めているようだ。屋敷の構造、人の動きを観察している。暗殺者の習性だろうか。彼の視線は時々、廊下の特定の場所や扉に注がれる。隠し通路や秘密の部屋を探しているのかもしれない。
辺境伯夫人が一つの扉を開いた。
「こちらがお二人の部屋です。隣の扉は書斎につながっています」
私たちの部屋。夫婦だから当然だけれど、二人で同じ部屋を使う。偽装結婚とはいえ、現実味が増してきた。
「ありがとうございます」
「ではまたのちほど」
辺境伯夫人は丁寧に頭を下げてから、私たちだけを残して去っていった。
二人きりになった。ノアは言葉を発する前に、まず部屋を隅々まで調べ始めた。壁や家具、床まで念入りに。天井の装飾にも目を配り、指先で何かを感じ取るように撫でて回る。
その行動に疑問を持ちつつ、黙って見守った。やがて彼は小さな金属片を見つけると、それを窓の外に放り投げた。次に窓辺へと向かい、外を確認し始めた。
「何を捨てたの?」
「盗聴魔法具です。これで会話は安全。……監視の目もありますね。カーテンは閉めておきましょう」
ノアがカーテンを引くと、部屋は薄暗くなった。彼はさらに部屋の隅々まで歩き回り、床板の一部を押すと、軽く音がした。
「ここには隠し扉。何を想定しているのやら……」
「警戒されてるの?」
「辺境伯は何かを企んでいます。この城の建築様式も通常の貴族の館とは違う。要塞のようです」
ノアは椅子に腰かけ、ようやく変容の魔法を解いた。金色の光が彼を包み、元の姿に戻る。黒髪に灰色の瞳。すっかり見慣れた本来の顔。その表情を見て安心する自分に気づいた。
「ジョゼフとしての情報は十分なの? 辺境伯夫妻は疑ってなかったけど」
「今のところは大丈夫です。彼は養子で、五年前まで西の学院で学んでいた。帰郷後も国境哨所での勤務が多く、城にはほとんど滞在していなかった。親でさえ、彼の素顔をよく知らないのです」
ノアは窓辺に立ち、カーテンの隙間から外を眺める。横顔には、変容魔法の維持による疲労が見えた。
「これからどうするの?」
「まずは城内の状況把握と情報収集。表向きは新婚夫婦として過ごします。明日から私は辺境伯と共に、城内や周辺の巡察に出ると思います。それが口実で、彼らの軍事力の詳細を調べます」
この城内には敵が潜んでいる。ノアの警戒は当然だ。しかし、ノア一人だけで任務を進めるのはあまりにも危険ではないか。
「私に何か手伝えることはある?」
ノアは少し考えてから答えた。
「辺境伯夫人との関係を構築してください。彼女は夫ほど敵意を感じません。何か情報が得られるかもしれない」
「わかったわ」
ノアは金属の小球を取り出し、それを窓辺に置いた。
「これは警報器です。何か異変があれば、この球を握りつぶしてください。どこにいても私に通知が届きます」
細心の注意を払う彼の姿に頼もしさを感じた。
*
辺境伯家での生活は、意外と平穏に始まった。
朝には侍女が訪れ、着替えや身支度を手伝ってくれる。赤毛の若い侍女、リリーが私の専属となった。彼女は明るい性格で、何かと話しかけてくる。最初は警戒していた。けれど、彼女の純粋さが伝わってきて、少しずつ心を開いていった。
昼食は大きな食堂で家族と共に。午後は庭園散策や読書に時間を費やした。真の辺境伯夫人となる準備としての作法や土地の知識も教わる。辺境伯夫人は思いのほか親切で、地域の習慣や伝統について丁寧に教えてくれた。
夜になると、ノアと私は同じ寝室で過ごす。彼は常に紳士的で、約束通り一線を越えることはなかった。部屋には大きなベッドが一つだけ。初日、彼はソファで眠ると言い出したが、それは違うと言ってやめてもらった。
同じベッドで、背中合わせに眠る日々。
一週間が過ぎた頃、私は屋敷の違和感に気づき始めた。定期的に届く王都からの密書。深夜に行われる密会。そして特に、地下から聞こえる不思議な音。
リリーに尋ねても、「地下室は倉庫です」と簡単に答えるだけで、それ以上詳しく聞いても誤魔化された。彼女も本当のことを知らないのかもしれない。
ある午後、庭園を散歩していると、辺境伯夫人が一人で花を摘んでいた。絶好の機会だと思い、近づいてみる。
「素敵なお花ですね」
辺境伯夫人は振り返って微笑んだ。
「ああ、レティシア。この青い花は、この地方特有のものよ。香りがとてもいいの」
彼女が差し出した花から爽やかな香りがする。
「辺境伯様はいつも忙しそうですね」
「ええ、国境の安全維持は重責だから。最近は特に近隣国との緊張が高まっているの」
彼女は隠し事をしている。表情にあからさまな影が差した。
「大変なお仕事ですね。ジョゼフも父上のお手伝いをしていると聞きました」
「そうね。彼はとても有能よ。西の学院での教育の成果かしら」
彼女はしばらく花に目を落としたまま黙っていた。そして、ふと私を見上げた。
「レティシア、あなたはとても母親に似ているわ」
突然の言葉に、心臓が跳ねた。
「母を……知っているのですか?」
「もちろん。二人とも王宮で育った身ですもの。彼女は素晴らしい魔法使いだった。誰もが彼女を慕っていたわ」
彼女の目に懐かしむような色。
「母は……私が十二歳の時に亡くなりました」
「ええ、聞いています。本当に悲しい出来事でした。彼女は国王陛下の最愛の人だった」
彼女はそう言いながら、表情を曇らせた。
「レティシア、あなたには――」
言いかけた彼女の言葉が途切れた。夫人の視線が、私の後ろを見ている。振り向くと、辺境伯が庭の入り口に立っていた。
「エリザベス、ここにいたのか」
低くて威圧的な声。辺境伯夫人は緊張した様子になり、花を手に立ち上がった。
「ええ、レティシアにこの地方の花を紹介していたの」
「それより、客人が到着した。対応してくれ」
辺境伯は私を一瞥して、再び城内へと戻っていった。その背後には、見知らぬ使者らしき人物の姿があった。彼らは急いで廊下の奥へと消えていった。
辺境伯夫人は小さくため息をついた。
「失礼します、レティシア。また後でお話しましょう」
彼女は慌ただしく立ち去った。言い残された言葉が気になる。「あなたには」の続きは何だったのだろう。
*
夕方まで庭を散策した。広すぎる敷地にも困ったものだ。部屋に戻ると、ノアが待っていた。変容魔法を解いた彼の表情は硬く、何か考え込んでいた。
「何かあった?」
「辺境伯が密使を受け入れてます。隣国からの使者です。彼らは夜通しの会談を行うようです」
彼はカーテンの隙間から窓の外を見て、低い声で続けた。
「民間からの徴兵が加速しています。おそらく、王都への反乱の準備が着々と進んでいる」
「本当に辺境伯は謀反を……」
「間違いありません。そして、あなたの継母が関わっているようです」
ノアは机の上に広げられた古い地図を指した。
「要所に王妃の紋章がある。彼女の協力者が配置されてます」
「でも、どうして? 継母は父上の妻でしょ?」
「権力です。彼女は自分の息子を次期国王にしたい。そのためには、あなたの父上と兄君を排除しなければならない」
私を辺境に追いやったのも、その計画の一部だったのだろう。目障りな王女を手放し、同時に辺境伯との同盟を確保する。狡猾な女だ。
ふと、辺境伯夫人との会話を思い出した。
「そういえばノア、辺境伯夫人が私の母のことを知ってたわ。彼女が私について何か言いかけたとき、辺境伯に遮られたの」
ノアの表情が変わった。
「……辺境伯夫人は、あなたの母と親しかったのかもしれません。彼女はあなたの魔力の封印について知っているのでしょうか」
「分からないわ。でも、母について話すとき、彼女の目には悲しみがあった」
ノアはしばらく考え込んでいた。
「辺境伯夫人は、この謀反に全面的に賛同しているようには見えません。彼女の考えとか立場とか、もっと詳しく探る必要がありますね」
何かを決意したように、ノアは立ち上がった。
「明日、辺境伯と共に町へ出ます。辺境伯軍の配置を確認するためです。その間、もし機会があれば、辺境伯夫人からさらに情報を得てください」
彼は念入りに窓の外を観察している。
「ただし、危険を冒さないでください。彼女があなたの母の友人だったとしても、今は辺境伯の妻です」
ノアの警戒心は理解できた。しかし、辺境伯夫人の目に見た悲しみは本物だったと思う。彼女は何かを知っている。そして私に伝えたがっている。そうとしか思えなかった。
*
ある夜、ベッドで横になりながらノアに尋ねた。
「あなたは何か見つけた?」
「陰謀の一部です。やはり辺境伯家は、王国転覆を企てていました。しかし主犯は別にいる」
「父上……国王陛下は知ってるの?」
「結婚式の直後に事態は動きました。貴女が王都を離れた直後、継母――王妃が国王を幽閉したのです。王都はいま、王妃派と国王派で睨み合いが続いているとか……」
衝撃の事実に息が止まりそうになった。父が幽閉? では王国を動かしているのは。
「王妃が国を動かしている、と?」
「その通り。彼女は王位簒奪を計画し、国王を軟禁状態にしてます。次の標的は――」
「私?」
「いいえ、あなたではありません。あなたの兄、第一王子です。継母は彼を暗殺し、自分の子を次期国王にしようとしてます」
継母の野望。その全体像が見えてきた。私を辺境に追いやったのも、計画の一部だったのだろう。
「どうやって阻止するの?」
「証拠を集めてます。ただ、時間がない。一週間以内に、謀反の合図が出される予定です。辺境伯の軍団が都に向けて出陣する」
ノアはベッドから立ち上がり、窓辺に立った。カーテンを少しめくると、彼の真剣な表情が月明かりに照らされた。
「前も言ったように、貴女の魔力は封印されています。魔力がないのではなく、使えないだけです。そして、その封印が少しずつ弱まっている」
旅の途中の村で起きた出来事を思い出す。兵士の剣が突然青く光り、彼が手を離した瞬間。
「実感はないのだけれど……?」
「貴女の周りに特殊な魔力の流れがある。封印されてはいるが、時折漏れ出す。貴女の母が封印したのだと思います」
「母は強力な魔法使いだったわ。でも、なぜ私の力を?」
「保護のためかもしれません。あなたの母は毒殺されました。強大な魔力を持つ者は、常に危険にさらされます」
毒殺? そんな話、初めて聞いた。ノアの声には、何か個人的な経験を思わせる。彼自身も魔力による迫害や危険を経験したのだろうか。
「あなたは母を知っていたの?」
突然の質問に、ノアは少し躊躇った。
「直接の面識はありません。ただ、彼女の魔法書を研究したことがあります。彼女の理論は革新的でした」
何か隠している。でも嘘をついている訳でもない。やっぱり彼には多くの秘密がある。
*
翌朝、ノアは辺境伯と共に城を出て行った。軍事施設の視察という名目だが、実際には情報収集のために。変容魔法で再びジョゼフとして、彼はその役を完璧に演じていた。
彼らが出発した後、私は屋敷の中を探索することにした。リリーの案内で、まだ見ていない東棟へと向かう。そこには辺境伯家の歴代当主の肖像画が飾られていた。
最後の一枚は、現在の辺境伯グレゴリーのもの。彼の隣にはエリザベス夫人と一人の若い男性が描かれていた。彼がジョゼフ・ルートヴェルト――本物の、ノアが殺したという男だ。
リリーは肖像画を指し、説明を始めた。
「これは五年前の絵です。若様がまだ西の学院から戻ってきたばかりの頃です」
肖像画のジョゼフは、ノアが変身した姿とほとんど同じだった。しかし、彼の表情に若干の違いを感じる。この肖像画のジョゼフは、どこか冷たく計算高い印象だ。
「ジョゼフ様は、どんな方だったの?」
リリーは少し考えてから答えた。
「正直申し上げれば、厳しい方でした。使用人にはあまり話しかけず、いつも本を読んでいらっしゃいました。特に魔法と戦略の書物を」
これは貴重な情報だ。ノアの演じるジョゼフは、使用人にも優しく接している。怪しまれているかもしれない。
「そう。前と変わられたのね」
「はい、本当に変わられました。ご結婚されてから、まるで別人のようです。みんな奥様のおかげだと話しています」
杞憂だった。まさに「別人」なのだが、それを知るのは私だけ。
肖像画を見終わった後、庭園へと向かった。そこには辺境伯夫人がいた。彼女は一人で紅茶を飲んでいた。
「レティシア、よかったら一緒にいかが?」
彼女の誘いに応じて、テーブルに座った。
「昨日の続きなのだけど、あなたの母上について、少しお話ししたいの」
辺境伯夫人の表情は穏やかだが、どこか緊張している。
「母のことをよくご存知なのですね」
「ええ、若い頃は親友だったの。同じ魔法学院で学んだのよ」
王宮で一緒に育ったとは聞いていたが、母とそんなに親しかったのか。
「彼女は素晴らしい魔法使いだった。特に防御と治癒の魔法に秀でていたわ。そして……」
彼女は周囲を確認するように視線を巡らせ、声を落とした。
「彼女は強力な封印魔法も使えた。たった一人の人間にそれを使ったのよ」
私の心臓が激しく鼓動し始めた。
「私に、ですか?」
辺境伯夫人はゆっくりと頷いた。
「あなたには強力な魔力があったの。生まれた時から。私も立ち会ったわ。あなたが産まれた瞬間、部屋中の炎が一斉に青く変わった」
青い炎。感情が高ぶると現れる青い光と同じ色。
「母はなぜ私の魔力を封印したのでしょう?」
「あなたを守るためよ。当時、王宮には危険な存在がいた。あなたの魔力を狙う者たちが」
彼女は急に言葉を切り、再び周囲を見回した。
「また詳しく話しましょう。今は……」
彼女が言葉を切った理由がすぐにわかった。庭の端から二人の兵士が歩いてきた。彼らは私たちを一瞥すると、そのまま通り過ぎていった。監視されている感覚。それがまとわり付いて消えなかった。
*
夕方、ノアが城に戻ってきた。彼の表情は厳しい。部屋に戻るとカーテンを引き、すぐに変容魔法を解いた。
「状況が悪化してます。辺境伯はすでに三千の兵を集め、王都への進軍準備を整えています。三日後に出発の予定です」
「三日後? あなたが言っていたより早いわ」
「はい、計画が前倒しになったようです。おそらく、王妃から新たな指示があったのでしょう」
ノアはカーテンをめくり、夕空を見上げた。
「王都に警告を送らなければ。しかし、何も持たせてない伝書鳩で試しましたが、すべて辺境伯の手の者によって打ち落とされてます」
彼の声には焦りがあった。私も今日得た情報を伝えないといけない。
「今日、辺境伯夫人から聞いたことがあるの。彼女と母は親友だったそうよ。そして私の魔力の封印について知っていた」
ノアは驚いて振り返った。
「詳しく聞かせてください」
辺境伯夫人から聞いた話を全て伝えた。ノアはじっと聞き、時折頷いていた。
「これで確定ですね。やはり貴女の魔力は封印されていた。強力な魔法によって」
「でも、なぜその封印が今、弱まっているの?」
「あなたの母は、何か条件を設けたのかもしれません。特定の年齢、あるいは特定の状況下で封印が解けるように」
ノアは考え込んだ後、決断したように言った。
「レティシア、あなたの力が必要になるかもしれません。封印が完全に解けていなくても、漏れ出る魔力でできることがあるはずです」
「でも、魔法なんてどうやって使えばいいの? 制御の仕方も分からないわ」
「明日から特訓しましょう。魔力の基本は感情と意志です。あなたが無意識に使った時も、強い感情があったはずです」
確かに。兵士の剣が青く光ったのは、私が怒りと同情を感じた瞬間だった。王宮でも、悲しみや恐怖を感じた時に不思議な現象が起きていた。
「分かったわ。試してみる」
その夜、私たちは翌日の特訓の計画を立てた。しかし、それ以上に切迫していたのは、王都への警告だった。
「魔力通信も監視されている。普通の方法では連絡できない」
ノアは魔法具を仕舞い込む。しばらく考え込んでいたが、ふと何かを思いついたように顔を上げた。
「伝書鳩を使う。しかし、特殊なものを」
彼は小さな袋から、透明な結晶を取り出した。
「記憶結晶です。これに情報を封じ込め、鳩に持たせる。この結晶は特殊な魔力でしか開けない。打ち落とされても、中身は見られません」
ノアは結晶を手に取り、額に当てた。淡い金色の光が彼から結晶へと流れ込む。
「これで辺境伯の計画と兵力の詳細が記録されました。あとは王国正規軍、ベイル騎士団長あてに送り出すだけです」
しかし、その難しさは明白。城内のあらゆる鳩は監視下にある。
「明日の訓練中に、裏門から放つ機会を作ります」
ノアの声には決意があった。彼は命を懸けてこの任務に臨んでいる。そのことに、改めて身が引き締まる思いがした。
*
翌日の早朝、私たちは人目につかない裏庭で「訓練」の名目で特訓を始めた。表向きには新婚夫婦の朝の運動だが、実際には私の魔力の覚醒と、伝書鳩の放出が目的だった。
ノアはまず、私に呼吸法を教えた。
「魔力は呼吸と共に流れます。まずは深呼吸から。吸う時に力を集め、吐く時に解放する」
彼の指示に従い、目を閉じて集中する。すると、体の奥深くで何かが動く。熱いような、しかし心地よい感覚。それは徐々に全身に広がっていった。
「いいですね。魔力が動き始めています」
ノアの声が聞こえた。目を開けると、彼が驚いた表情で私を見ていた。
「どうしたの?」
「あなたの指先が青く光っています」
見ると確かに、かすかな青い光が指先から漏れていた。不思議と怖くはない。むしろ、長い間失われていた何かを取り戻したような感覚だった。
「次は、意志を込めてください。例えば、その小石を動かすイメージを」
ノアが地面の小石を指した。私は再び目を閉じ、深呼吸をした。小石が浮かぶイメージを持ち、指先の力をそこに向けた。
突然、辺りが風に包まれ、小石だけでなく周囲の落ち葉まで舞い上がった。あまりの力の強さに驚き、思わず集中を切ってしまう。全てが地面に落ちた。
「素晴らしい」
ノアの声には驚きと喜びが混ざっていた。
「これほどの力が眠っていたとは。あなたの母上は、本当に強力な魔法使いだったのですね」
少しだけ誇らしさを感じた。母から受け継いだ力。
特訓の間、ノアは何度か屋敷の裏手に姿を消した。おそらく伝書鳩を放っているのだろう。彼が戻ってきた時、小さく頷いたので、成功したのだと理解した。
しかし、その安堵の時間は長くは続かなかった。
*
正午過ぎ、城内が突然騒がしくなった。兵士たちが慌ただしく動き回り、馬の嘶きが聞こえる。ノアは警戒の表情を浮かべた。
「何か起きてます。部屋に戻りましょう」
部屋に戻る途中、辺境伯夫人が慌てた様子で近づいてきた。
「レティシア、ジョゼフ、二人とも急いで。夫が緊急会議を招集しています」
彼女の表情には不安が浮かんでいた。私たちは大広間へと向かった。そこには辺境伯と十数名の将校たちが集まっていた。彼らの表情は緊張し、怒りを含んでいた。
辺境伯は私たちを見ると、冷たい視線を投げかけた。
「来たか、ジョゼフ。実は重大な問題が発生した」
彼は机の上に広げられた地図を指した。
「王国軍が動き出した。何者かが我々の計画を王都に警告したようだ」
その言葉に、背筋に冷たいものが走った。私たちの伝書鳩が発見されたのか? それとも別の情報源から?
ノアの表情は完璧に驚いたものだった。
「どういうことです、父上? 王国軍が?」
「我々の計画を知ったのだ。三日後の出発を前に、すでに迎撃の準備を始めている」
辺境伯の目は疑いに満ちていた。
「情報漏洩だ。誰かが裏切った」
彼の視線が部屋中を巡った。そして一瞬、私とノアに留まった気がした。しかし、証拠はないはずだ。
「計画を前倒しする。今夜、全軍で出発する」
辺境伯の宣言に、将校たちが一斉に頷いた。私たちにとって、最悪の展開だった。王国軍の準備が整う前に、辺境軍が出発してしまう。
「ジョゼフ、お前は第三部隊を指揮する。準備を急げ」
ノアは軍事的な任務を任されるとは予想していなかったようだ。一瞬だけ、彼の瞳に戸惑いが浮かんだ。しかし、すぐ役目に戻った。
「承知しました、父上」
会議が終わり、私たちが部屋に戻る途中、二人の兵士が近づいてきた。
「ジョゼフ様、司令部にご案内します」
ノアは一瞬私に目配せし、兵士たちについていった。彼の背中が遠ざかる。不安が込み上げてきた。
部屋に一人戻った私は、窓から城下の様子を見てみる。兵士たちが忙しく動き回り、馬や荷車が準備されていた。本当に今夜、辺境軍は出発するつもりだ。
扉が開く音がして振り返ると、辺境伯夫人が立っていた。彼女は周囲を確認し、素早く部屋に入ると扉を閉めた。
「レティシア、もう時間がありません」
彼女の声は切迫していた。
「どうしたのですか?」
「夫は疑い始めています。あなたかジョゼフが情報を漏らしたと」
「……」
「夫は直感的に感じています。そして……」
彼女は声を落として顔を寄せた。
「彼はジョゼフを試そうとしています。本当の息子ならすぐに分かることで」
ノアが危険だ。本物のジョゼフしか知らない情報を問われれば、簡単に正体がばれてしまう。
「どうすればいいの?」
「あなたの魔力が必要です。封印が完全に解けていなくても、使える力があるはず」
彼女は胸元から小さな青い結晶のペンダントを取り出した。
「これは、あなたの母の形見です。彼女はこう言いました。『レティシアが最も必要とする時、この結晶が彼女の力を解放するだろう』と」
青い結晶は、私の指先から漏れる光と同じ色をしていた。
「あなたの母は、自分の死を予感していました。そして、あなたが危険にさらされることも」
辺境伯夫人は結晶を私に手渡した。
「この結晶に力を注ぎなさい。あなたの本当の力が目覚めるはず」
彼女はそう言うと、急いで立ち上がった。
「それと、彼は誰なの? 養子とは言え、私が息子を間違えるはずがありません」
「……それは」
「いいわ。その目を見てわかったわ。ジョゼフはもう死んだのね……あれだけ止めておきなさいと言ったのに……」
「……」
「レティ」
「はい……」
「あなたの目、正直すぎるわ。この貴族社会、腹芸は必須よ?」
「はい……」
「行きます。夫に気づかれない内に」
なにも言えなかった。夫人は貴族として圧倒的だった。母が生きていたら、ああいう感じだったのかな……。
辺境伯夫人が去った後、私は手の中の結晶を見つめた。母からの最後の贈り物。十年以上も封印されていた私の力を解放する鍵。
窓の外から騒がしい声が聞こえた。見ると、中庭でノアが兵士たちに囲まれていた。彼の表情は冷静を装っているが、緊張している。辺境伯も現れ「息子」に何かを問いただしているようだ。
時間がない。彼らがノアの正体に気づけば、彼の命が危うい。
結晶を両手で包み、朝の特訓で教わった通りに呼吸を整えた。深く息を吸い、力を意識する。すると、体の奥深くから何かが目覚めるような感覚。熱くて冷たい、奇妙な感覚。それは全身を駆け巡り、指先まで広がっていく。
結晶が青く輝き始め、光が強くなっていった。そして突然、眩い光が爆発するように放たれ、私を包み込んだ。
全身が熱く、しかし心地よい。長い間眠っていた何かが、ついに目覚めたような感覚。視界が青い光に包まれる中、遠い記憶が蘇った。
母との儀式。神殿で行われた封印。そして母の最後の言葉。「あなたの力は破壊のためではなく、守るためにあるの」
光が消えると、体の中に新たな感覚が広がっていた。指先から全身まで、魔力が自由に流れている。封印が解けたのだ。
窓の外を見ると、剣を抜いた辺境伯にノアが追い詰められている。もう変装の魔法も解けかけており、黒髪が見え始めていた。彼の正体が明らかになるのは時間の問題だ。
躊躇う時間はない。窓を開け、中庭を見下ろした。二階の高さから飛び降りるのは危険だが、他に選択肢はない。
深呼吸し、新たに目覚めた力を感じながら、窓から飛び降りた。
驚いたことに、体が軽く、青い光に包まれたまま、ゆっくりと地面に降り立った。全員の視線が私に集まる。
「ジョゼフ、いや――キサマは誰だっ!」
ノアを追い詰める辺境伯の声は、怒りと混乱が混ざっていた。ノアの変容魔法はほとんど解け、本来の姿が現れつつあるからだ。
「彼は王国の使者よ」
私は堂々と言い放つ。体が魔力で満ちあふれ、恐れを感じない。
「こいつが王国の使者だと?」
辺境伯が剣を上段に構える。ノアは周囲の兵士に押さえつけられていた。
「待ちなさい! 裏切り者はあなたよ、辺境伯。王に謀反を企て、王妃と共謀した」
冷静に言ったつもりだった。けれど、青い光が周囲に広がっていった。兵士たちが不安げに後ずさる。
「貴様らを生かしては置かん!」
辺境伯が剣を振り下ろした。
ノアを斬るために。
私は両手を前に突き出した。
母の声が心の中で響く――「守るための力」。
強烈な青い光の波が私から放たれ、辺境伯と兵士たちを押し返した。彼らは数メートル吹き飛ばされ、地面を転がってゆく。
ノアを拘束していた兵士も同じく、吹っ飛んで転がってゆく。彼は素早く立ち上がった。彼の周りにも金色の光が漂い始めていた。
「レティシア殿下、ご無事で」
彼の声には安堵と驚きが混ざっていた。もはや彼の姿は完全に元に戻っていた。黒髪と灰色の瞳の暗殺者。
「ノア、あなたが王族の血を引いているわね。今の魔法を使ってわかったわ」
思わず口にした言葉に、ノアは驚愕の表情を浮かべる。ただ、今はそれを確認している場合ではない。辺境伯たちが再び立ち上がろうとしていた。
「逃げます!」
ノアが私の手を引いて、城の裏門へ駆け出した。訓練された暗殺者であるノアは走るのが速い。背後からは兵士たちが追いかけてくる。しかし、私の魔力が足に宿ると、急に速度が増した。
裏門を抜け、森へと駆け込んだ。しばらく走った後、人の気配がなくなったところで立ち止まった。
「ねえノア、私たちは王都への伝言に成功したのよね?」
息を切らしながら尋ねた。
「はい。王国軍はすでに動いています。彼らは辺境軍を迎え撃つでしょう」
ノアは周囲を警戒しながら、私の顔をじっと見つめる。
「貴女の魔力が完全に解放されましたね。どうやって?」
「辺境伯夫人が母の形見をくれたの。それが鍵だったわ」
私は胸に下げた青い結晶のペンダントを見せる。
「彼女は味方だったわ」
「彼女は辺境伯の陰謀に反対していたのでしょう。しかし立場上、表立って協力はできなかった」
彼は森の奥を指した。
「王都に急がなければなりません。あなたの父上と兄君を救うために」
私たちは森の中を歩き始めた。行く先には危険が待ち受けているだろう。しかし今、私には守るべき人と、守るための力がある。
ノアが歩みを止めて振り返った。
「レティシア殿下、ひとつだけ真実をお話ししましょう」
「真実? どうしたの?」
「私は先王の隠し子です。貴女の父の異母弟が、私の父。だから身分を明かせず、暗殺者として仕えることを選びました」
つまりノアは、私のいとこ。衝撃の告白に、言葉を失った。しかし、全てが繋がった。彼がなぜ王国に忠誠を誓い、なぜこの任務を選んだのか。そして彼の周りに漂う金色の魔力――王族特有の色合い。
「それで私を守ると誓ってくれたのね」
「はい。血族として、そして……」
彼はそこで言葉を切った。
気になる。気になるけれど、私はノアが差し出した手を取った。偽りの結婚から始まった関係は、思いがけない形で深まっているのだから。
「行きましょう。早馬の準備は整っていますが、乗れま――」
「乗れます。乗馬は得意ですから」
食い気味に言う。ここまで来て引き下がりたくはない。
王都へ向かう旅路で、私は心に決めていた。この力を使って守る。王国、父、兄、そして私の側に立つ暗殺者。魔力なき無能ではなく、強大な力を持つ第三王女として。
辺境の森から見える夕日に照らされながら、私たちは王都へ向けて駆け出した。
*
辺境伯領から王都まで三日かかるところを、馬を乗り継ぎ一日半の強行軍で到着。伝書鳩は無事に到着していた。ベイル騎士団長率いる王国軍は、すでに辺境伯討伐へ発っていた。ただし、王宮は依然として継母派の兵士に掌握されていた。
まだ暗い。王宮の裏門から忍び込んだ私たちを出迎えたのは、静寂と緊張感だった。
月明かりだけが頼りの暗闇の中、ノアは軽やかに先導していく。彼は暗殺者として王宮の隠し通路を熟知していた。私たちは地下牢へと向かう。
「父上と兄上は、おそらくこの先です」
ノアは壁に耳を当て、番兵の位置を確認すると、数分の間隔で交代する隙を見計らって静かに鍵を開けた。
地下牢の奥、最も湿気の多い場所に父王と兄が幽閉されていた。ぐったりした二人を見つめる。軟禁生活で、二人とも痩せ衰えていた。
「レティか?」
「はい」
父王の目が驚きに見開かれた。その瞳には安堵と同時に恐れも浮かんでいた。
「なぜここに? 危険だ、早く逃げろ」
「父上を置いては行きません」
牢を開け、父王と兄を解放する。兄は立ち上がるのも辛そうだったが、私の顔を見て力強く微笑んだ。
「レティから魔力を感じる……母上の封印が解けたのだな」
兄は知っていた。私の魔力のことを。
「ええ、力を取り戻したわ。そしてここにいるのは――」
ノアが歩み出る。父王はしばらくノアの顔を見つめ、やがて目を丸くした。
「マリアの……」
「陛下に顔を見せるのは初めてですね。レティシアのいとことしてはせ参じました」
父王は深く頷いた。当然ながらノアの出自を知っているはず。
「王妃は?」
「玉座の間に立て籠もっています。王妃派の兵を集め、陣を築いていました」
ノアの言葉に、父王の表情が厳しくなる。
「王国騎士団は?」
「ベイル団長は辺境伯討伐に向かいました。すでに勝利の報が届いています。辺境伯は討たれ、夫人は救出されました。彼女が当面、辺境を治めることになるでしょう」
いつの間にそんな情報を。いや、情報の入手方法はどうでもいい。よかった。夫人が無事で。しかし、まだ最大の問題が残っていた。
「騎士団副長のタルノスが残留部隊を率いて、王妃と対峙しています。しかし、彼女は強力な黒魔術を操る。騎士たちだけでは太刀打ちできない」
ノアの声には焦りがあった。父王は立ち上がり、弱った体を壁に支えながら言った。
「王都が戦場になる前に、この争いを終わらせなければ」
父王の言葉に突然、城内に警鐘が鳴り響いた。私たちの侵入が発覚したのだ。
「急ぎましょう」
ノアは父王を支え、私は兄の腕を取った。四人で地下牢を脱出し、秘密の通路を通って王宮中央部へと向かう。
玉座の間に近づくにつれ、剣戟の音と叫び声が聞こえてきた。激しい戦闘が始まっていた。
広間に辿り着く。凄惨な光景が広がっていた。騎士団副長タルノスの兵と王妃派の兵が入り乱れて戦っていた。床には多くの死傷者が倒れている。そして広間の奥には、玉座に座る継母の姿があった。
彼女の周りには赤黒い霧のような魔力が渦巻いていた。両手に真っ黒な炎を灯し、近づく兵士を次々と薙ぎ倒していく。
「死せよ、謀反人どもが!」
継母の声は狂気を帯びていた。彼女の黒魔術はここ数年、密かに練り上げてきたものだろう。その力の源は禁忌の術だと、波動から感じられた。
私たちの姿を見つけた継母の顔が、一瞬で憎悪に歪んだ。
「まさか……レティシア? それに、マリアの忌まわしい落とし子まで」
彼女は私たちめがけて黒い炎の矢を放った。ノアが素早く身を翻し、父王と兄を庇う。私は両手を前に突き出した。
青い光の盾が現れ、継母の攻撃を弾き返す。力の衝突で広間中が振動した。
「貴様の力など、所詮は幼子のたわむれ!」
継母が両手を高く掲げると、周囲の空気が重く、澱んだものに変わった。黒い渦が彼女の周りに形成され、その渦は徐々に大きくなっていく。
父王が私の肩に手を置いた。
「レティ、ノア、二人の力を合わせろ」
ノアが私の側に立ち、金色の魔力を解放した。王族の血による力だ。
「私たちの力を……」
私の青い魔力とノアの金色の魔力が混ざり合い、清らかな白光となる。その光は継母の黒い渦に対抗するように伸びていった。
「守りの力よ」
私は母の言葉を思い出した。魔力は目覚めたばかりだが、守るという意志は明確にある。
ノアの金色の魔力が私の青い魔力を包み込み、強化する。彼は私の両手を握り、共に前へ踏み出した。
「十年前、あなたは私の母を毒殺した」
ノアの声は冷たく鋭かった。
「そして、レティシア様の母君も同じ手口で殺害した。二人の王妃を、自らの野望のために」
継母の顔が青ざめた。彼女にとって最大の秘密が暴かれたのだ。
「二人とも愚かな女だった! 王となる器のない男に惚れ、子を残して死んだ!」
継母の黒い渦が爆発的に膨らみ、広間中に広がった。近くにいた兵士たちが闇に飲み込まれ、叫び声をあげる。
ノアが私の手を強く握った。
「全ての力を」
私は全ての魔力を解放した。母から受け継いだ力、十年以上封印されていた力を全て。ノアも同じように全力を尽くしている。
白い光の柱が天井を突き破り、夜空へと伸びていった。継母の黒い渦が徐々に押し返される。
「あり得ない……!」
継母の叫び声が響く。光は彼女を包み込んだ。
一瞬の閃光の後、広間に静寂が戻った。継母の姿は消え、玉座には何も残っていなかった。ただ、床に黒く焦げた跡だけが、彼女がそこにいたことを物語っていた。
魔力を使い果たし、私はその場に膝をつく。ノアも同じように疲労の色を見せていた。
「終わったの……?」
「はい、終わりました」
ノアの声は安堵に満ちていた。
父王が私たちに近づき、二人の肩に手を置いた。
「よくやった。二人とも」
兄も歩み寄り、私を抱きしめた。
「母上も喜んでいるだろう」
彼の言葉に、涙が込み上げた。
*
ひと月後、王宮は平穏を取り戻していた。辺境伯討伐を成功させたベイル騎士団長が凱旋し、エリザベス辺境伯夫人からの忠誠の誓いも届いた。彼女は辺境の統治者として認められ、辺境と王都の関係は新たな段階へと進んだ。
ノアの正体は公式に認められ、先王の息子として公爵位が与えられた。彼は王家の守護者として、新設された「王室護衛特別顧問」の地位に就いた。表向きの役職だが、実質的には王家の安全を守る重要な役割だ。
そして私は、第三王女として新たな尊敬を集めるようになった。「魔力なき無能」ではなく、「王国を救った青き魔術師」として。
騎士団長直々の訓練を受け、魔力の制御を学びながら、私は少しずつその力を王国のために使う方法を模索していた。
青く輝く魔力の宝珠を手の上で浮かせながら、王宮の庭園で春の日差しを浴びていると、ノアがこっそり近づいてきた。
「訓練は順調ですか?」
「ええ、だんだん制御できるようになってきたわ」
彼は私の隣に腰を下ろした。黒い正装姿は、もはや暗殺者ではなく王族としての威厳を感じさせる。
「あなたの母君も誇りに思うでしょう」
ノアの声は優しい。かつての冷たい暗殺者の面影はない。
「あなたの母上も同じように」
私の言葉に、彼は小さく微笑んだ。
「そうですね。二人とも、私たちを見守っているでしょう」
沈黙が続いた後、ノアが静かに口を開いた。
「レティシア殿下、私たちの関係は偽装から始まりました」
思わず目を合わせる。彼の瞳には真摯な光があった。
「しかし今、正式にお伺いしたい。本当の意味で、私の妻になっていただけませんか?」
予想はしていた。偽りから始まった二人の関係は、今や誰よりも真実に満ちたものになっていた。
「もちろん、喜んで」
彼の腕に身を寄せる。柔らかな風が私たちを包み込んだ。青と金の光が静かに混ざり合い、美しい白い輝きとなって広がる。
かつて「魔力なき王女」と蔑まれた私と、暗殺を生業とする「執行者」だった彼。二人は偽りの契約から始まり、真実の絆で結ばれた。
(了)