ギトーを待ちながら(こんとらくと・きりんぐ)
わたしこそが立役者のなかの立役者だ!
―― チャールズ・J・ギトー
ノーザン・サウス鉄道は国を東西に貫通していた。
機関車は八台の客車と一台の秘密車両を曳いていて、秘密車両が何を運んでいるのかはファースト・ナショナル銀行だけが知る秘密とされていた。ただ、秘密が守られていると思っているのは銀行だけで、大衆はその車両がジンクス鉱山で採掘された金塊であると新聞で読んで知っていた。ファースト・ナショナル銀行は秘密車両に積んであるのは三十樽の酢漬けキャベツだと秘密を暴露したが、その結果、大衆はますます強く、金塊の存在を信じるのだった。
殺し屋が乗っているのはそういう列車の三等車両だった。
あのハゲたクソッタレは仕事が終わったらカネを払うと言ったのに、いざその段になると、殺し屋への報酬の十分の一の額で雇ったごろつきのクソッタレどもをよこしてきた。殺し屋はごろつきのクソッタレどもを地獄に落とし、ハゲたクソッタレのことを追いかけ、ブライダルロックスの山小屋に隠れていたのを見つけ、崖から突き落とした。とても高い崖だった。ごろつきどもはもう地獄に落ち終えただろうが、ハゲのクソッタレはまだ地面に到達せず、落ち続けていることだろう。そのくらいすごい崖だった。
溜飲はいくらか下がったが、手に入る予定だったカネが手に入らないというのは嫌なもので、いろいろなものを我慢することになる。
殺し屋が真っ先に我慢する羽目になったのは車両の等級だった。
殺し屋は個室付きの一等車に乗り、食堂車でポークチョップとさやいんげんを平らげて食後のコーヒーを楽しみながら、殺しに行き、帰りは椅子が洗濯板みたいな三等車に乗り、駅の売店で買った生姜入りのウエハースをかじることになった。
「あのクソったれたハゲはどこにお金を隠したんだろう」
いくら考えても分からない。洗濯板みたいな背もたれにどやされながら、手に入れ損ねたカネのことをあれこれ考えるのは精神によくない影響を与えるものだ。こんなときは寝てしまうのが一番だが、三等車の残念なことは向かい合う形で他の客と座ることだ。
「あいつはぶっ殺してやる」
殺し屋と向かい合って座っている男が言った。
ニンジン色の顎鬚を生やした男で痩せていた。たぶん背中側の骨が浮いて、この椅子にも難なくぴたりとあてはまるに違いない。でなければ、スウィート・スプリングスから五百九十七回、あいつはぶっ殺してやるなどとぶつくさ言い続けることは不可能だ。体力が持たない。精神力も持たない。喉は平気だ。しょっちゅう、茶色の瓶に入った謎の液体を飲んでいるので枯れることはない。ちらっとラベルが見えたが、〈ラ・テレーヌ博士の万能薬〉と書いてあった。恐らくインチキレースの競走馬がお尻から注入される類の、元気の前借りをするような薬だろう。
「あいつはぶっ殺してやる。分かるか? 必ず、あいつはぶっ殺してくれる」
ふむ、と、殺し屋は考える。
『あいつはぶっ殺してやる』とはどういうことだろう。あいつ『を』ではなく、あいつ『は』なのだ。たぶん、ぶっ殺す以外にも半殺しにしたい人間がいるのだろう。
「やってやる。どうやってやるか分かるか?」
「さあ」とは言うが、こたえは知っていた。五百九十七回きいていたから。
「真正面から心臓をぶち抜くんだ。二発撃ち込むんだ。心臓ってのは活きがよくて、しかもふたつあるからな。だから、ちゃんとふたつ撃たないといけないんだ」
「心臓はひとつしかありませんよ」殺し屋は五百九十七回目の訂正をした。
「そんなことあるか。おれの心臓はふたつあるぜ」
「それ、何かの病気かも」
「そんなわけがない。えーと」
男は殺し屋のことを坊主と呼ぶべきか、お嬢ちゃんと呼ぶべきか迷っていた。殺し屋はショートヘアの少女、もしくは長髪の少年に見えたからだ。
「とにかく大統領をぶち殺してやる」
「やっと話が進んだ」
「どうやってやるか分かるか?」
「前から撃つんですよね?」
「心臓に一発ずつな。合計二発だ。一足す一はいつだって二だ」
「でも、大統領とは大物ですね」
「そうでもねえさ。とんでもねえ恩知らずだからな」
「と、言うと?」
「あいつが選挙に勝てたのは、このおれさまがパンフレットを書いてやったからだ。あいつはその功績を認め、おれを大使に任命すべきなんだ」
「でも、しなかった」
「だから、死ななきゃならねえ。恩知らずを野放しにしてたら、世のなかどうなる? クソ野郎だらけになって、ひっくり返っちまうぜ」
「それには同意します」
「だろ? だから、ぶち殺す。この銃でな」
男は上着の裾をめくって、ベルトに挟んだ銃を見せた。古い、大きなキャップ式リヴォルヴァーだが銃身をノコギリで切り詰めたせいで、全体的な見た目がブルドッグみたいになっていた。これだと三歩の距離まで近づかないと命中させられないし、命中したとしても致命傷にならない。
「いい銃だろ」
「そうですね」
「結構な値段がしたんだ。これを買うために金時計を質に入れなきゃいけなかった。時計を手放したのは惜しいが、でも、恩知らずの畜生に思い知らせるためだ。正義ってのはいつだって痛みを伴う。だろ?」
「その通りだと思います」
ポーッ!と汽笛が鳴った。やかましい高音は谷のなかを跳ね返り、転がりまわった。いま列車は山地を出ようとしていた。線路は川沿いに敷いてあった。木立のあいだから見える谷間では透き通った水が細く走り、白く泡立って小石を洗っている。
男は〈ラ・テレーヌ博士の万能薬〉をぐびぐび飲んでから言った。
「あいつはぶち殺してやる。やってやる。どうやるか分かるか?」
「さあ。分かりません」
「真正面から撃ち殺してやる」
「心臓に一発ずつ?」
「一発ずつ。合計三発だ」
「心臓が増えてる……」
「これを読んでくれよ。おれがやつのために書いたパンフレットだ」
殺し屋はパンフレットを読んだ。歩兵師団三個と騎兵旅団一個、砲兵旅団二個を派遣して月を征服し、月面人を奴隷にして月にプランテーションを作り、月チーズを生産して、地球で販売するという内容だった。これが大統領を選挙で勝たせたというのが男の言い分だ。
「こういうパンフレットは」と、男が言った。「誰でも書けるわけじゃない。だから、大統領はおれを大使に任命すべきなんだ。あの恩知らずめが」
「大統領と会って話を?」
「倫理が歪んでる人間はまともな人間と面と向かって話す度胸がないもんだ」
「つまり、会わせてもらってないと」
「だから、ぶち殺すんだ。あの恩知らず。畜生めが。見てろよ。この野郎」
列車はタイタスブリッジで停車した。黒く冷たそうな川は見えたが、橋は見えなかった。駅の前には沼みたいな道があり、木造の店が並んでいた。床屋、金物屋、電信所。梨の林の上に教会の鐘塔が伸びている。その町では男はみなガンベルトを巻いていた。女はみんな赤毛だった。
十分後、ガタガタと椅子が動いて、背中をどやし、汽車は走り出して窓の外の景色が動き始めた。橋のないタイタスブリッジは記憶の彼方に置き去りにされ、男は大統領のことを忘恩の輩、恩知らずは死ななければならないとまた演説を始めた。
「真正面からぶち殺してやる」
「あのー、失礼かもしれないですけど、以前、人を殺したことは?」
「頭のなかでなら何度も殺した」
「実際には?」
「これが初めてだな。殺したいほど頭に来るやつに会わなかったからだ。おれはあんな畜生に出会ったことがなかった。あんな最低野郎が大統領だなんて。なあ、あんた。これは恐ろしいことだ。選挙民は頭の悪いことがしたくて投票したんだ。でなきゃ、説明がつかない」
「でも、あなたは大統領のために書いたんですよね、パンフレットを」
「当選間違いなしのやつをな」
男はそのパンフレットでボールみたいに丸めたものをポケットから取り出した。男はパンフレットでコーンフリッターを包んでいたのだ。月の植民計画は油のシミで台無しになり、むしろ、月の側が地球攻め込もうとしているように見えだした。シミは月から伸びたひん曲がった指の形になり、鉤爪がふたつの大陸にしっかり刺さっていた。
殺し屋はというと、トラウトレイク・ジャンクションで買った生姜入りウエハースを外套の内ポケットから取り出した。それを包んでいたのは日付不明の『イーグルフィールド・タイムズ』でかろうじて読めたのは『ロブスター小指チャレンジで怪我人続出』という文字だけだった。
男はベトベトのコーンフリッターを〈ラ・テレーヌ博士の万能薬〉で飲み下した。
汽車は右へ大きく曲がりながら、平池へと入っていった。振り向けば、白い雪をかぶった山が見え、川の向こうには街道沿いに石造りの民家が並んでいるのが見えた。毛布みたいな服を着た人びとがお互いの家を言ったり来たりしていて、仕掛け時計の人形みたいな決まり切った暮らしを営んでいるようだった。
「あいつらもあの恩知らずに入れたのかな?」
「こんなところまで投票箱を設置するもんですか?」
「政治家ってのは強欲だからな。自分が鷲づかみにできるカネと票があると分かれば、月にだって取りにいく。特にひどいのが、あの大統領よ。恩知らずめ。あいつのおふくろの腹のなかに、あいつの名前が書かれた投票用紙が一枚入ってると知れば、あの野郎、てめえのおふくろの腹を切り裂くぜ。ほんと」
「この国の人間はとんでもない人物を大統領にしたようですね」
「その通りよ、恩知らずめが」
「でも、あなたはその恩知らずが投票するためにパンフレットを書いた」
「そうだ。だから、あいつはおれを大使にすべきなのさ」
「でも、大統領は当選のためなら自分の腹も切り裂く異常者なんですよね」
「そうだ。だが、母親殺しなんて恩知らずに比べれば、どうってことない。だろ?」
「それについては回答を控えておきたいですね」
「まあ、それもひとつの生き方だ。ただな、坊主だかお嬢ちゃんだか。それじゃあ、パンフレットは書けないんだぜ」
「でも、せっかく入魂のパンフレットを書いても報われないなら、僕はパンフレットを書かない静かな人生を送りたいです」
「それもひとつの生き方よ。ちくしょう。あいつはぶっ殺してやる。どうやってやるか、お前、分かるか?」
ケッチャムとブランカハーパーのあいだの線路に丸太と壊れたソファーが積み上げられていて、機関車はブレーキをかけた。
その途端、列車の左から銃弾が飛んできた。森のなかから次々と、角突きの覆面をかぶった強盗たちがあらわれ、銃をぶっ放してきたのだ。
「ウイスキー・ギャングだ!」
誰かが叫んだ。すぐに飛んできた弾で、その誰かの口が弾けて消えた。
殺し屋は伏せたが、男は伏せなかった。弾は男のそばをかすめていたが、男は頭をひっこめたり、体をかかませたりせず、目の上に左手を添えて、襲ってくる連中をしっかり見定めようとしていた。
「スカートのやつもいるな」男が言った。「女のギャングだ」
弾は三等車両のランプを撃ち抜き、それが床で割れて燃えだした。殺し屋はリヴォルヴァーを二丁持っていた。一丁が本命で、もう一丁は予備。どちらもカートリッジ式で男の持っている銃よりも格段新しく、命中しやすく、威力もあった。ただ、殺してもカネにならない相手を殺す気分になれないので、殺し屋はこのまま伏せておくことにした。というのも、ケッチャムで二両の貨物車が付け加えられたのだが、それが騎兵隊を乗せていたのだ。すぐに威勢にいいラッパが鳴り響き、青い軍服を着た騎兵たちが貨物車から飛び出した。近づきすぎたギャングが馬の胸にもろにぶつかって弾け飛び、次の騎兵が馬蹄にかけた。火薬の爆発とひどく濃い硝煙に血の混じったにおい、風にあおられ、ぐるぐるとまわりながらどこかへ飛んでいく霊魂たち。
十分もしないうちに、生き残ったのは男と殺し屋のふたりだけになった。ギャングと騎兵は相打ちになり、流れ弾は一等から三等まで切符代で差別せずに容赦なく襲いかかり、客は皆殺しにされていた。殺し屋の車両は割れたランプのせいで半分以上がメラメラ燃え上がっていたので、背嚢を引っぱって、車両を降りることにした。
野生の、食べられない麦が腰の丈まで伸びて海のように広がり、そのなかで死体が思い思いのやり方で血肉を飛ばして息絶えていた。男のほうはひょこひょこと動きながら、隣の車両や機関車を覗き込み、ひでえ、とか、恩知らずめ、とか大声でわめいていた。
殺し屋は例の秘密車両へ歩いてみた。ドアはダイナマイトで吹き飛ばされていて、車内じゅうに銀行員の体と酢漬けキャベツが混じったものが飛び散っていた。
つまり、全ては犬死だ。
「はあ。本当についてない」
殺し屋が肩を落としていると、男がやってきた。
「まずいよな。みんな死んでる。でも、悪い話ばかりでもない。機関室にあの恩知らずの記事が切り抜きされて貼ってあった」
「つまり?」
「機関士は死んで当然の野郎だってことだよ」
「その機関士が死んだら、僕らはまったく動けないですよ」
「どのみち、無理だよ。線路の上の倒木は十人がかりでも動くかわからない。後ろも同じく塞がってる。この辺にあんな立派な松の幹が生えてると思わないから、やつら、材木屋からわざわざ買ったんだな。ったく。どこの世界に材木屋と取引するギャングがいるんだ。あ、でも、待てよ。材木を積んだ列車を襲ったら、戦利品を売るのに材木屋がいるじゃねえか。おいおい、どこに行くんだ?」
「ケッチャムか、ブランカハーパー。近いのはどっちですか?」
「同じくらい離れてる。それと線路沿いに歩くのはおすすめしないね」
「ギャングがまた来る?」
「騎兵隊だよ。十人も仲間を殺されたから、やつらはクソ怒るはずだ。そうなったら、あいつらは生きてるもん全部敵扱いよ。たとえ、角の生えた袋をかぶってなくても、撃ち殺される。おまけに、おれもお前もひと目で金持ちに見える格好をしてない。本当のおれは大使なのにな」
「じゃあ、どうしたもんかな」
「線路から離れて、どこか人里に着くしかない。一緒に行こうぜ。おれには恩知らずのクソ野郎の心臓にそれぞれ一発ずつ、合計四発撃ち込む使命があるんだ。こんなとこで神さまがおれを死なせるはずはない」
正直、殺し屋は男のことを信用できなかった。嘘つきくらいならまだマシだが、この男は間違いなく誇大妄想を患っている。それに先ほどの銃撃戦で分かったが、この男は死を恐れていない。殺し屋はこの世で何が一番恐ろしいかって死を恐れない人間が恐ろしい。死そのものよりも恐ろしい。こういう人間は常人には理解できないやり方でトラブルを起こすと相場は決まっている。
「間違いねえ。おれと一緒なら安全だ」
そう言いながら、男はギャングたちがあらわれた森のほうへと歩いていた。仕方なくついていくことにした。男はこのあたりに土地勘があるようだが、殺し屋にはない。不測の事態を常に気にかけながら生きていく。それしかないのだ。
森のなかで迷い、男は自分がこのあたりの地理に明るいと言ったことはないと断言した。殺し屋は線路沿いに歩けばよかったと後悔した。森は原生林で、伐採場の小道や放置された水車の車輪のような金を稼ごうとした人間のきざしのようなものが存在しなかった。一度だけ、人の頭を見つけたことがあった。それは角付きの袋をかぶっていた。男が角をひっぱって、袋を取ると、しゃれこうべがひとつ転がり落ちた。
「おれは頭蓋骨の形から、そいつがいかれてるかどうかわかるんだ」
「自分の頭を触ったことは?」
「ない。髪と皮が邪魔だから」
「骨に直に触れないといけないんですか?」
「そりゃそうだ」
「でも、頭の骨に、直に触れるような状態なら、もう相手は死んじゃってるし、そこから狂ってるかどうか分かっても、あまり意味がないような気がするんですけど」
「いや。こういうことはきちんとしておかないといけねえんだ。狂ってるやつはひとりだって見過ごされちゃあいけねえんだ。たとえ死んでてもな。なぜならいかれた頭蓋骨の持ち主はかなりの確率で恩知らずだからだ」
「大統領の頭も触れればいいのに」
「触るまでもない。あの恩知らず」
男は苔がへばりついた、薄気味悪い頭蓋骨を拾い上げ、ペタペタ触りながら、森のなかを歩いた。枝や葉、蔓がその顔にぶつかったが、そのなかには王家の紋章みたいに形のいい葉をつけた蔦ウルシも含まれていた。そのうち、顔じゅうに赤い点々ができて、かぶれはじめた。
「かかないほうがいいですよ」
「でも、かゆいんだよ!」
もう頭蓋骨はどこかに放り捨てていて、顔をぼりぼりかきむしった。顔が赤く脹れ上がるころには軟膏を欲しがった。
殺し屋たちはしばらくして、丘のふもとに出た。そこで左右上下を塞いでいたあらゆる植物が消え去った。丘は丸ごと見晴らしのいい空き地になっていて、その頂には二階建ての木造家屋が立っていた。
「あそこで軟膏をもらおう」
「こんな森のなかの、急に出てきた空き地の丘に家を建てる人がいるかなあ」
「どうせ廃屋だ。とにかく何でもいいから、このかゆいのを何とかするんだよ!」
踏むとじわりと水が浮く小道を上っていく。家は薄い灰色に褪めた板材でできていて、すっかり乾ききったポーチは水気を失って間違った寸法の分だけ歪んでいた。薪小屋にはひと冬を越すのに十分な薪が屋根のすぐ下まで積み上がっていた。斧は薪割り台のそばに立てかけてあったが、ちっとも錆びておらず、きちんと研いであった。
「人が住んでる」
男がやってきたので、そう教えたが、男は、へえ、と言っただけで大きな薪をひとつ抱えて、玄関のほうへ戻っていった。まもなく窓ガラスが割れる大きな音がして、ポーチへ行ってみると、男は手を切らないよう、ドア枠のガラス片を棒切れで削ぎ落す作業に没頭していた。十分、ガラスがなくなったと思ったらしく、男は窓からなかに入り、殺し屋にはドアを開けるからそっちから入ってこいと言った。すぐにドアの錠が開く音がした。それも五回も。
「ここの住人はちっこい閂みたいなもんを五個もつけてやがったよ」
「こんなところまで空き巣が来ませんよ」
「もっとやばいもんが住んでるんだよ。狼男とか」
その後、男は箱に流し込まれた水のようにあちこち走りまわって、ようやく見つけた浴室の洗面台を派手に荒らし始めた。殺し屋はというと、二階に上がり、ここの住人がショットガンを握りしめ、ひどく敏感な状態で隠れていないか念のため調べに行っていた。そのあいだも男が薬壜や剃刀などを床に投げ捨てる音がきこえていた。しばらくすると、あったぞ!と声がした。
二階には三つの部屋があった。そのうちふたつは寝室なのだが、蓋つきの事務机や小さな丸いテーブル、パッチワークの毛布など、生活雑貨はきちんとそろっているのに、写真や肖像画の類がいっさいなく、また、教典やメダルなどの宗教に関するものもひとつもなかった。
最後の部屋――廊下の突き当り――は鍵がかかっていた。靴が何かを軽く蹴った。かがんで拾ってみると、それは白い、何かの破片を入れた小さな薬壜だった。
殺し屋は薬壜を廊下の隅に置き、開錠用の針金を差し込んでみた。うまくいくかと思ったが、パキッと折れて鍵穴が塞がったので、銃を抜いて、錠前を撃ち飛ばした。
殺し屋はドアを開け、なかに入り、そこにあるものを見た。
すぐに部屋を出た。男が二階に上がってきていた。顔は軟膏を分厚く塗ったせいで白くなっていて、髭もベトベトになっていた。
「あの部屋のなかは見ないほうがいいですよ。割とホントに」
「なかに何があるんだ?」
「未来の大使さまが見たら、発狂するようなものです」
「なんだ、それ」
そして、男は殺し屋が止めるのもきかず、突き当りの部屋に入った。
男はしばらく出てこなかったので、ショック死したのかもしれないと思った。ただ、それを部屋まで行って、確かめるのは嫌だった。それほどのものがあの部屋のなかにあるのだ。
十分後、男は部屋から出てきた。
「なあ。探したんだけど、何にもないぞ?」
「え? 部屋の真ん中にあったはずですけど」
「ああ。あった」
「あれ」
「あれが何だってんだ?」
「あれを見て、どうとも思わないんですか?」
「逆になんでどうとか思うんだ?」
「だって、あれですよ。あんなもの、おかしいでしょ?」
「まあ、多少変わってるかもしれんが、発狂するほどのもんじゃない。このかぶれのほうがずっとひどい」
殺し屋は確信した。この男は狂っている。
「とりあえず、軟膏を見つけたみたいですし、僕らがしたことは完全な家探し。すぐにここから離れたほうがよさそうです」
「食い物ももらってこうぜ」
「あれを見たら、ここの住民の食べ物なんて絶対に食べる気がなくなるはずですけど」
「おれは食べるぜ」
男は台所の白い琺瑯びきの箱からベリーパイを取り出した。そして、外に出ると、パイを、何かの儀式で生きた人間から取り出した心臓みたいにうやうやしくポーチの床に置き、薪小屋から薪を一抱えほど失敬して家のなかに戻っていった。
いったい何をする気なのかとついて行ってみると、男は神経質にあちこち手をくわえながら、完璧なキャンプファイヤーの木組みをつくっていた。そして、その薪に〈ラ・テレーヌ博士の万能薬〉を少しかけてから、マッチを踵でスって、投げた。ゴウッ!と音がして、キャンプファイヤーは蛮族に征服された都市みたいに燃え上がり、渦を巻き、熱にあおられたカーテンが踊りながら燃えだし、天井にぶつかった火勢が殺し屋の頭上まで広がった。
ふたりは元来た道を戻って、丘のふもとから家を振り返った。家の窓全てが割れて、そこから火が噴き出していた。二階の、反り返った板材は乾ききっていたから簡単に火がついた。あれがある部屋も燃えだしたのを見て、殺し屋はむしろこの放火は褒められるかもしれないと思ったりもした。
「住人は怒るでしょうね」と、殺し屋。
「まあ、焼け死ななければの話だけどな」
「……は?」
「このパイが入ってた箱。見えただろ?」
「琺瑯びきの?」
「そう。それに入ってた」
「あの箱、そのパイがギリギリふたつ入るくらいの大きさでしたけど。中身は小人?」
「いや、普通の大きさの人間だ。それがあの箱にギチギチになって入っていた」
〈ラ・テレーヌ博士の万能薬〉はガソリンの代わりにはなっても、ウルシのかぶれは治してくれなかった。
「それじゃ嘘ですよね?」
「まあ、しょうがない。こいつが本当に万病にきくなら、この博士はこの世の支配者になってる」
「それって恩知らず的じゃないですか?」
「いや、違うな。ただの嘘つきだ」
男は忘恩には厳しいが、他の悪徳や堕落には寛容だった。
ふたりが森を抜けた先にはリンゴ園が広がっていた。樹皮を剥いでいない木で柵が作ってあり、三十分ほど北へ歩いて、果樹園のなかを抜けていく道を見つけた。空では雲が西へ西へと流れていき、殺し屋たちは東から体が風船になったのかと思うほど強い追い風に背中を押されていた。すれ違う風のあいだには無風地帯があり、そこではシロハラオオタカが一羽、ゆっくりと円を描いて飛んでいた。果樹園の道は街道に突き当たっていて、そこには一軒の小屋があった。ポーチでは老婆がひとり安楽椅子でぐらぐら揺れていた。
「おい、なあ」と、男が声をかけた。「リンゴ園に誰もいねえぞ。百姓もロバ追いもいねえ。集団夜逃げでもしたのか?」
「いまは昼だよ」老婆は爪楊枝みたいな外見をしていたが、声だけは若々しく、声変わり前の少年のような弾むような高音には淀みがなかった。「あんたたち、何者だい?」
「おれは大使だよ」
「僕は違います」
「で、みんなどこにいるんだ?」
「コートハウスに行ってるよ」
「庁舎? なんでそんなとこに行くんだ?」
「政治だよ。他にすることがあるかい?」
「焼き討ちか?」
「違うよ。政治だよ」
コートハウスは老婆の家から南へ曲がって、街道沿いに三十分歩いた先にぽつんとあった。白い二階建ての役所で、正面には大きな柱が二本立っていて屋根を支えていた。コートハウスは人でいっぱいのようだった。入りきらない村人たちが扉のあたりでうろうろし、煙草を噛んでいたからだ。柱廊の端には頬髯を生やした老紳士がいて、黄ばんだテーブルクロスをかけた机の上にコーン・ウィスキーを注いだショットグラスを二十くらい並べて、一杯いくらで売っていた。男と殺し屋は一杯買い、ひと息に飲み干した。熟成一日の粗野な刺激が喉を焼いた。
「ここじゃあ何をしてるんだ?」
「さあ。分かりません。ただ、政治をしてるとだけ」
「ここで一番偉いのは誰だ?」
「郡のコミッショナーですね」
建物のなかから銃声がした。すぐに「つまみ出せ! その馬鹿野郎をとっととつまみ出せ!」と声がして、泥酔した男が開いた窓から蹴り出され、灌木の茂みに落ちた。
「じゃあ、郡のコミッショナーを決めるのか?」
「選挙のシーズンじゃありません」
「じゃあ、なんだって、こんなに人が集まってる?」
「わかりません。それが政治らしいです」
「郡のコミッショナーはどこにいるんだよ? どこで何してんだよ?」
「あなたの目の前で自家製コーン・ウィスキーを一杯いくらで売っています」
「あんたが郡のコミッショナーなのか?」
「そうです」
「なんで、政治をしないんだよ」
「もう一杯いかがです?」
殺し屋も男ももう一杯買って、ひと息に飲み干した。
「さて、先ほどの質問、なぜわたしが政治をしないかですが、逆になぜわたしは政治をしなければいけないのですか?」
「あんた選挙で選ばれたんだから、政治しねえといけねえ。それが、選挙ってもんよ」
「ですが、わたしが選挙で当選したのは酒を製造したときにとる税金を廃止すると言ったからです。実際、わたしは廃止したかったから選挙に出たわけです。でも、酒税廃止以外は何も興味がありません。わたしは自家製ウィスキーを作るときが一番幸せなんです。それ以外のことはしたくないんです。それにわたしは酒税を廃止すると言いましたが、それ以外は何も約束していません。このあたりの有権者はそれを知っていて、わたしを当選させたんです。だから、あとは政治が好きな人が何でもすればいいんです」
「あのぉ、もし、禁酒運動家の誰かがあなたの代わりになって、酒税を復活させたら?」
「酒税廃止を公約に選挙に出ます。わたしはまた当選するでしょうし、きっと酒税を廃止するでしょう」
「ふうむ。まあ、恩知らずじゃないみたいだな。あんたは誰かにパンフレットを書いてもらったか?」
「いいえ。わたしは演説だけです」
「この世のなかにはよ、当選のためにパンフレットを書いた相手をコケにする恩知らずがいるんだよ」
「ちゃんと仕事をした殺し屋にちゃんと報酬を払わないクソッタレもいます」
「おふたりは選挙に投票しましたか?」
「してませんよ。ぼくは戸籍がないから」
「おれはした。あの恩知らずに十回も投票してやった」
「ひとりの人間ができる投票回数は一回だけのはずですが」
「墓場に行って死人の名前を借りれば、ちょちょいのちょいよ。つまり、おれはこれだけでも普通の有権者の十倍もあの恩知らずに貢献してやった。それに加えて、このパンフレットだ」
コミッショナーは手渡されたパンフレットを読んだ。
「大変な文才ですな」
「分かるやつには分かっちゃうんだな」
「月へはどうやって?」
「風船を体に何百個と巻き付けるんだ」
「手に汗握る冒険ですな」
今度は二階の窓から人が放り出された。黄ばんだ髭の年老いた農夫だ。背中から地面に落ちて、痛さに身もだえして、馬糞まじりの泥のなかを転がりまわった。しかし、誰も助けてくれないと分かると、よろよろ立ち上がり叫んだ。
「覚悟しておけよ、このペテン師のゲス野郎どもが」
だが、返答として砂金取り用の皿が一枚飛んできて、農夫の頭にぶつかった。農夫は耳まで真っ赤にして、家へと帰っていった。
「あれはハンソンですね。きっとショットガンを持って戻ってきますよ」
「このあたりには保安官はいないんですか?」殺し屋がたずねた。
「いません。わたしが廃止しました」
「え? どうして?」
「人が人を逮捕することを覚えてから、人類の悲劇が始まったのです」
「僕はまあ、どちらかというと、保安官がいないほうがいろいろいいけど、でも、大丈夫ですか? さっきの人、ショットガン持って戻ってくるなら、撃たないかな?」
「むろん、撃ちます。なにせ、ハンソンですからね。アイザイア・カーターやトマス・アクィナス・マルグレイヴなら脅しで済ませるでしょうが、ジョン・ハンソンは間違いなく撃ちます。ミセス・コナーの豆シチューみたいにこってりした散弾がこの人込みに降り注ぎますよ」
「死人もこってりですね」
「こってり死ぬでしょうな。一本の銃身で五人を倒せるとしたら、二本で十人」
「保安官はいないんですよね?」
「人はみな法や宗教戒律ではなく、自分の決めたルールで生きるべきなのです」
「おいおい、じいさん。マジか? それじゃあ、恩知らずも放っておけってのか?」
「わたしは自分のルールで生きた結果を引き受けなくてもいいとは言いません。自由には常に責任が付きまといます。例外は酒税廃止だけです」
そのとき、二連式のショットガンを手にした男が目を血走らせてコートハウスへ駆けてくるのが見えた。男と殺し屋はコーン・ウィスキーをもう一杯飲んでから、さっさと退散することにした。
空は晴れていて、雲などどこにもないのに雨が降ってきた。殺し屋は傘を取り出して開いた。男も傘を取り出して開いた。それまで、ふたりは相手が傘を持っていることを知らなかった。
開けているが、林に挟まれた道が水たまりに寸断された。
「靴のなかまで水が入ると、歩くときズッポズッポ音が鳴るじゃねえか」
「そうですね」
「あの恩知らずの頭を吹っ飛ばすとき――」
「心臓に撃ち込むんじゃないですか?」
「心臓にぶち込むとき、靴からズッポズッポ音がしたら、かっこわりいじゃあねえか」
「だから?」
「だから、水たまりを迂回しないといけねえ」
「結構大きな水たまりですね」
「だな」
「僕のは編み上げのブーツなんです」
「で?」
「かなりいいブーツなんです」
「つまり?」
「ゴムで裏張りがしてあって、水が浸みません」
「で?」
「水のなかをズブズブと歩けます」
「つまり、おれと一緒に迂回したくないってんだな?」男は傷ついたようだった。「ひとりで先に進みたいってんだな?」
「これは個人的な好き嫌いがあってのことじゃないんです。もし、僕がいま履いているのが普通の革靴とか、余所行きのローファーとかだったら、間違いなくあなたと一緒に水たまりを迂回して、なんなら――」
「鱶だ!」
男は叫んだ(男の故郷では鮫のことをフカと呼んだ)。男は水たまりの水面を滑る黒い三角形の背びれを指差して、喜ばしいもののようにはしゃぎ、濡れるのも構わず、傘をふりまわし飛びはねた。これで殺し屋が水たまりのなかを進むことができなくなったからだ。
「あれはワグナー鱶だ。鱶のなかでただ一匹、淡水でも生きていける、気骨のある鱶だ。仕掛け網の漁師だったジョセフ伯父は湖であの背びれを見かけると、船を出して、ショットガンで撃ったもんだ」
空は晴れていて、雨は強く降る。水を迂回するあいだ、ワグナー鱶の陰険な背びれは絶えず、殺し屋のそばを進んでいた。三歩と離れぬところまで近づくこともよくあった。水たまりは殺し屋が想像するよりもずっと深かった。ワグナー鱶の大きな頭には返しが片方だけについている銛の先端が刺さっていたが、これは十七年前、B・C・エイブラハム捕鯨会社の一番銛打ちウィルシャー・R・ツィンマーマンが刺したものだった。鱶が執拗に殺し屋のそばを泳いでいるのはウィルシャー・R・ツィンマーマンがショートヘアの少女、もしくは長髪の少年のような見た目をしているせいかもしれないが、確証はなかった。
牧草地の境界を示す木製の柵が水に流されて動くたびに土地登録にうるさい農場主たちが猟銃を撃ち、ときどき運悪く弾が命中した牛が身を引き裂かれるような叫び声をあげることがあった。男は牛を撃たれたほうの農場主を応援した。理由は、
「牛がかわいそうだ」
――だった。
雨は日光をまんべんなく浴びて、砂金のようにきらめいていた。森や一軒家の壁にゆらめく水面の美しい模様が反射して、この世界に存在する全てのものの価値がおよそ二十パーセントほど増えたように思えた。そのなかにはもちろんワグナー鱶も含まれていた。
水たまりと陸地の立場が逆転し始めた。むしろ水たまりのなかに陸地がポツンと浮いているようになってきた。男と殺し屋はあきらめることを知らない健気なワグナー鱶に尾行されながら、水と水のあいだの狭い陸地を選んで、東へと歩を進めていた。水が浸みて柔らかくなった土からは十年前の内戦でめり込んだらしい弾丸がツブリツブリとあらわれて、兵士にとって恐怖の象徴だった時代を懐かしんでいた。低い崖は滝となり、どこかで沈んだ薪小屋のものらしい、リンゴの薪がバラバラと流れ落ちる。しかし、ワグナー鱶はそうした珍風景を一顧だにせず、殺し屋がうっかり水へハマる可能性を健気に信じ続けて、背びれを見せていた。
限りなく近い位置にあるワグナー鱶の背びれを死の象徴と考えると、以前、ある標的から人間は絶対に死ぬことはできないと教えられたことを思い出した。人間は死に限りなく近いところまで行き続けるが、決して死そのものには到達できないというのが、その標的の持論だった。一般的に人びとが死と思っているものが、死へと近づく速度が爆発的に上昇した人間であって、本当に死んでいるわけではない。これが事実なら墓地への埋葬は生き埋めということになるが、その標的は急速に死へ限りなく近づき続ける人間が、一般社会に暮らす人間と同じように生きることができないことは認めた。
ただ、殺し屋にはどうもその説が信じられなかったので、その標的の頭を撃ち、本当に死んでいないか、見てみることにした。死に近づき続ける標的の額には赤い点みたいな穴があり、弾が抜け出た後頭部からは血と脳みそのかけらが混じったどす黒いものがどんどん流れ出していた。どう見ても、死んでるなと思った。たぶん、死に限りなく近づく話ウンヌンカンヌンはちょっと工夫したお茶目な命乞いなのだろう。
水たまりたちが互いに連絡し、太陽が見守るなか、跳ね散らかす水が地表を覆い尽くし、小さな町では教会の傾いた尖塔に住民全員が上っていた。風呂桶の栓を抜いたような渦や狂ったように飛び跳ねる鯉の群れを見た。沈んだ墓場から棺桶が次々と浮かび上がるのも見た。そして、全ての景色の隅には絶えず、ワグナー鱶の背びれが見えていた。
世界を創りなおすと思われた雨は突然止んだ。天気は正しく晴れとなった。あれだけの威勢を誇った水たまりたちが次々と蒸発した。ワグナー鱶は水たまりに閉じ込められた。水位が下がり、ミセス・カーターの家の風見鶏が見え、板葺きの屋根が見え、ポーチが見え、地面に転がったミセス・カーターのショットガンが見えた。
ショットガンのそばの小さな水たまりにワグナー鱶の背びれが立っている。そのとき、土手のほうから吹いてきた乾いた風に水がなめとられ、最後の一滴が土に吸い込まれた。殺し屋はわくわくした。自分に絶えず付きまとった死の象徴が情けなく、砂の上に横たわる姿はなかなか興味深い。
だが、水たまりの跡に、殺し屋の期待したワグナー鱶の死骸はなかった。頭に刺さっていた銛もなかった。ただ、シリアルのおまけについてくる彩色済み野球カードが一枚――ロバート・〈ファイティング・ボブ〉・レインバーンのカードが、白く渇いて反り返っているだけだった。
蝉の鳴き声のうるさい森を右に見ながら、ハンティントン・ロードを歩いていると、栗毛とぶちの馬に曳かれた大きな荷馬車が見えた。荷馬車にはキャンバス地の覆いがしてあったが、強風にあおられて、紐が切れると、なかから巨大な心臓があらわれた。それは熱く、ふるえ、網のような青い血管が表面にへばりついていた。
殺し屋は人間の心臓を止めることで生活の資を得て、暮らしてきたのだが、こんな大きな心臓を止めたことはなかった。ホルスターに入れたリヴォルヴァーがうずうずし始めた。
「撃ってもいい?」
「駄目に決まってるだろ」馭者がキャンバス地をかけなおしながら言った。
「こんな大きな心臓が何の役に立つんですか?」
「ストーニー・クロッシングで巨人を作ってるんだよ。それに使うんだ。心臓はな、他のパーツが全て組み合わされて、最後の最後にはめ込まれるんだ。脳みそやペニスの後にな」
「巨人なんか作って何になるんですか?」
「何にもならないからって巨人を作っちゃいけないって法はないんだ。作る方法があり、材料を用意でき、そして何よりも、作るカネを出す物好きがいる。じゃあ、作るしかないだろうが」
心臓が行ってしまうと、男は〈ラ・テレーヌ博士の万能薬〉のひと口飲んでから、にやりと笑った。
「新人類ってやつだ」
「何ですか、それ?」
「おれたち旧人類を従える上位存在だ」
「そんなもの神さまだけで十分です」
「おれたち旧人類は新人類の見守りのもと、一夫多妻制度を採用して、栄えていくんだ」
「ん?」
「セックスはけがれている。だから、できるだけ清潔に行わなければならない」
「あのー」
「新人類バンザイ! これで! やっと! おれたちはセックスができるぞ!」
殺し屋はヤバい人と絡むハメになったなあ、とため息をついた。
しばらく歩くと、十字路があり、その真ん中には内戦で死んだ将軍の銅像が馬にまたがっていた。将軍はまるで殺し屋たちがそれ以上進むのを認めようとしないように、手を開いて、殺し屋たちのほうへまっすぐ伸ばしていた。
「こいつは負けた将軍だ」
「でも、すごく偉そうですね」
「いや、これが最期の姿なんだ。こいつは馬にまたがって参謀たちを連れて、夜中に偵察に出かけた。ちょっと出かけるつもりが、少し遠出になった。それで急いで自分の陣地に戻ったんだが、真夜中だから兵隊どもは将軍がわからなかった。それでぶっ放した」
「味方に撃たれて死んだんですね」
「そうだが、一発目は外れた。将軍は慌てて、こうやって手を前に伸ばして言ったんだ。『撃つな、余はウォーターフォール・ジョンソン将軍なるぞ!』って。そうしたら、今度はもっと狙い澄ました一発が飛んできた。弾はこいつの左手の手のひらから入って、腕のなかをズタズタにしながら前進し、ぐちゃぐちゃになった肉と骨を従えて、肩から飛び出した。血が流れ過ぎて、おッ月さんみたいに真っ白になって死んじまったってよ。ウォーターフォール・ジョンソン将軍はよ」
「どうして歩哨は将軍だと名乗ったのに撃ったんですか?」
「そりゃ自業自得よ。こいつは部下の兵隊たちに夜襲をかけるとき、相手にバレそうになったら、相手の司令官の名前を叫べって教えたんだ。そうすりゃ、向こうは撃ってこねえって。連中、これはいい手だと思ったんだが、問題は、相手も同じことをしてくるんじゃねえかって思ったことだ」
「内戦のとき、あなたはどっちに?」
「勝ったほうの大尉だった」
「大統領は?」
「将軍だった。むかつくぜ。……ん? なんか地面がキャラメルみたいに揺れてるぞ?」
最初に逃げたのは鳥たちだった。次に鹿やリスたちがストーニー・クロッシングのある方角から慌ただしく走ってきた。人はまだ逃げてこなかったが、持ち主をふり落としたらしい、二頭引きの無人馬車が泡を吹きながら飛ぶように殺し屋たちを追い越していった。
農家と畑とブナ林に覆われた丘の向こうから、全裸の巨人が立ち上がった。尻をこちらに向け、途方もない背丈だった。もじゃもじゃの毛に覆われたその体には壊れた足場がへばりついていて、作業員がぶらさがっていた。
ボーン!と音がした。巨人の足元で何かが勢いよく燃え出した。黒煙の柱が腿に巻きつき、でこぼこした尻に炎の影が、どす黒く赤く揺らいでいた。風上からこの世の終わりのような悲鳴がきこえてきた。
「新人類だ! おれたちに一夫多妻制度を授けてくれ!」
「逃げたほうがいいですよ」
炎はどんどん広がっているらしく、黒煙が七本立って、煤が空を濁し始めた。赤い影にあぶられた黒い雲はどんどん広がっていた。まだ人間はひとりも逃げてこなかった。こういうとき、一番に逃げるのは政治家だが、気取ったシルクハットのひとつも見えない。おそらく全員死んでしまったのだろう。
そのとき、甲高い叫び声を上げた州兵部隊の騎兵たちが十二ポンド砲を引っぱって巨人のいるほうへ走っていく。みな農作業用の帽子をかぶった二十歳を越えない若者だった。彼らを指揮するのは襟に金ぴか星を三つつけた砲兵隊の大佐で、尖らせた顎髭で空を指すように顎を上向かせて鐙に突っ張って、サーベルを振りながら、わめいていた。
「紳士諸君、前進だ!」
砲兵たちはあっという間に去っていった。男は紳士諸君とは泣けるねとせせら笑った。
「あんなふうに星をつけて偉ぶってても、あいつは正式な軍人としての教育なんて、受けてねえに違いない。ここらじゃ輸出用の綿花の梱をひとつ州に寄贈すりゃあ、誰だって大佐になれる。もうひとつ寄贈すれば、将軍になれる! 州政府ってのは無知で馬鹿臭い田舎者の集まりだが、でも、恩に報いるってもんを知っている。あの恩知らずとは大違いだぜ。こいつはとんでもねえことだ。連邦政府ってのは州政府よりもでかい、そのひとつ上の政府なのに、その大統領が、ド田舎の砲兵隊ほどの倫理感も持ち合わせちゃあいねえってんだ。こいつはどえらいことだ。やっぱり、おれは何としても、あの恩知らずに引導を渡してやらなきゃあならない。こいつはマジだぜ」
またボーンと爆発音がした。ストーニー・クロッシングから一キロほど離れたカーター・クリークで新しい巨人が立ち上がったのだ。炎のなかから巨人たちは次々と生まれ出た。グレイトラウト・コーナーズでも、ターニップヴィルでも、パーシモン・ヴァレーでも、巨人たちが雲を押しのけ、立ち上がった。生まれつき、もじゃもじゃした尻を持つ巨人たちは何をするともなく、歩きまわり、そのたびに何かが爆発し、ストーニー・クロッシングを中心に世界は黒煙で夜のように暗くなっていた。
「どう考えても、世界の終わりだね」
「だから、新人類だって」
巨人たちから遠ざかろうと歩くふたりを次々と州軍の騎兵がギャロップですれ違った。農作業や食事中に呼び出された彼らは土のついたニンジンや馬鍬のスプリング、半分以上かじられたロブスターをばらまきながら、馬に鞭を入れていた。鞍の上で軍服に着替えようとしたせいで彼らのファッションは珍妙なものになっていた。指揮官はドルマン式の胸飾りに勲章を引っかけた老人で左腕が二の腕の半ばからなくなっていた。指揮官は腕の付け根にわずかに残った腕で袖をふりまわしながら、殺し屋たちに何か叫んでいた。男は一夫多妻制度について言っていると譲らなかったが、殺し屋の耳は渡し舟という言葉をとらえていた。
なくなりかけた腕の指す小道を歩くと、丸太が積まれた伐採所があり、事務所には〈召集のため、しばらく仕事を休みます〉と札がかかっていた。ごうごうと炎の音がきこえてきた。炎は森のそばまできていた。
伐採場の裏手に小道があり、幕のような苔がかかったオークの木立へと吸い込まれていた。地面すれすれに伸びた枝の下をくぐると、川が手前へと曲がっていた。小さな丸木舟が一艘、杭にロープをもやっていた。丸木舟には老人が乗っていた。黄色く尖った歯でリスの串焼きをかじっていて、膝の上には銃身を切ったショットガンがあった。
「一夫多妻だぜ。じいさん」
「ひとりでも手に負えねえのに?」
「ちょっと、失礼します」殺し屋が割って入った。「ぼくら、あっちの岸に行きたいんです」
「誰でも五十セントだ」
二人合わせて十セント玉を十枚渡した。
老人はもやっていたロープをのろのろと外したが、そのあいだに伐採場まで炎が侵蝕してきていた。ひと財産の丸太が蝋燭みたいにメラメラ燃え出し、火の粉が彼らを大きくまたいで、川へと落ちた。
丸木舟が出発したころには彼らのいた桟橋は左右から炎に挟まれて、熱にあおられてできた小さな竜巻にひねりつぶされるようにして消えていった。
「どうってこたあねえんだ」老人が言った。「川一本挟んじまえば、どんなことだってどうってこたあねえんだ。対岸の火事ってのは本当だぜ。あんな巨人ども、川一本挟んじまえば、どうってこたあねえんだ」
実際、老人の言う通りだった。対岸へ近づくにつれて、空から黒煙が抜け、川は底を泳ぐ小さな鱒がはっきり見えるくらいに澄み切って、炎が空気をあぶって起こす強風も、その轟音もなくなり、そして、巨人たちがいなくなった。対岸では大きなリンゴが実った並木が続いていて、蝶が舞っていた。地主屋敷の廃墟ですら、蔦と花とシダで美しく、切なく飾られていた。それを人は詩情と呼んでいた。
「な?」老人が声をあげた。「どうってことなかっただろ?」
プーリー・ジャンクションの鉄道駅は小さなログハウスだったが、電信所があった。鶏をかかえた女や煙草を巻くのがえらく下手な男がずらりと並んでいて、みな都会に出た家族あてのメッセージを電信係に打たせていた。ふたりは三等の切符を買った。真新しい板張りのホームにはシナモンの残り香がある空っぽの箱が並んでいた。保安官バッジをつけた男がいて、手錠をかけられた髭の男の腰に巻いた紐を手に握っていた。機関車を待つ乗客のひとりがそれを指差して言った。
「あれはダグラス・リーグだ。駅馬車強盗の」
男は面白くなさそうに〈ラ・テレーヌ博士の万能薬〉をあおり、髭についたしずくを拭った。
「駅馬車強盗がなんだ。みんな、おれの名前を忘れられなくなる」
機関車がやってきた。鋼鉄の花瓶のような煙突から火花の混じった黒煙を上げていた。
乗客が等級の秩序を乱さずに席に座ると、列車が動き始めた。この瞬間は靴下の外交販売員ですら、旅の予感に色めきたった。窓の外に見えていた草原に畑のない家や砂利で舗装された小道があらわれ始め、家はつながって通りをつくり、道にはマカダム舗装がされていった。甘いにおいを漂わせる製菓工場や辻馬車がたまる広場があらわれ、公共墓地から死者たちのいびきがきこえた。遠くには刑務所が見え、白黒の縞の服を着た囚人が西へ伸びる土手に枕木を並べていた。空き地が見当たらなくなった。土地には全て建物が立っていた。好ましいことではないが、うら若きご婦人が夜にひとりで歩かなければいけなくなったときに備えて、全ての道に青銅製の街灯が並んでいた。
華やかな庇とゼンマイを模した鋳鉄の柱のあるイーグルフィールド駅に着いた。大統領はテナメント大学で演説をするために、この駅で列車に乗ることになっていた。
「旅もこれで終わりですね」
「始まりの終わりだ」
「前向きですね」
「そりゃ、そうだ。あの恩知らずの畜生をぶっ殺したら、副大統領が大統領に繰り上がる。つまり、おれのおかげで大統領になれるんだから、副大統領はおれを大使にしなければいけない」
「もしも、してくれなかったら?」
「恩知らずの畜生がもうひとりいたってことだ。じゃあな、坊主だかお嬢ちゃん。お前はちっとも恩知らずじゃなかったよ」
「そう言っていただけて光栄です」
ふたりは握手して別れた。男は半円型の巨大な明り取りの窓があるメインの待合ホールへ、殺し屋はもう少し進んでから、左に曲がった先のレストランに行った。駅員風のドレスを着た受付嬢がいて、ボタンをきらきらさせて、にこりと笑いかけた。
「ようこそ、〈イーグルフィールド・ステーション・チョップハウス〉へ」
「ひとりです」殺し屋は言った。「窓に近い席でお願いします。あと新聞を一部」
窓は出窓になっていて、Bストリートの並木道を見ることができた。赤と白の庇を張り出した商店、飴玉の入ったガラス瓶。昼食時で人通りは少なく、警官があくびをしていた。Bストリートに向かって、Aアヴェニューが駅の入り口前に伸びていた。
殺し屋は『イーグルフィールド・タイムズ』を開いてみた。皆殺しにされた列車の話も、ワグナー鱶が泳ぎまわった雨の話も、世界を破壊する巨人たちの話も、そして、いくら歩いても夜の来ることがなかった夏の晴れ空について掲載されていなかった。
そのかわり、広告欄にこんな記事があった。
注意!
あなたのまわりに狂人はいませんか?
狂気は先天性的性質ではなく、感染力のある病気です。
あなたとあなたの大切なひとを狂気から守るためには
〈ラ・テレーヌ博士の狂気防止リング〉をどうぞ!
手首につけるだけであなたを狂気から守ります』
購入希望の方はセントラル通り七七六番地で二ドル九十五セントをお送りください。
〈ラ・テレーヌ博士の狂気防止リング〉を発送いたします(着払い)。
注文したポークチョップとさやいんげんがやってきたので、殺し屋は新聞を置いて、ポークを切って口に運んだ。店は空いていた。カットグラスに入ったソースをやたらとステーキにふりかける男を除けば、店にいるのは、技師の指輪をつけた男とその妻子だけだった。
ポークチョップとさやいんげんを残らず片づけると、外が騒がしくなった。大統領の乗った黒い箱馬車がAアヴェニューからやってきた。馬車は駅の入り口前につけて、大統領が降りてきた。大柄で厚い胸、錨のような肩をしていて、シルクハットの高さと釣り合いを取るかのように赤みがかった黒い顎鬚をたくわえていた。原始時代に生まれていても、立派な大王になれそうな威厳があった。ふたりの荷物持ちが大きなトランクを持って従っていて、大統領の隣には閣僚らしい、老人が何もかもご破算になったように両手のひらを真上にさらして、何かを熱心に話していた。
そして、大統領と閣僚、荷物持ちは駅に入り、見えなくなった。
殺し屋はひとの仕事に口を出さないことにしていた。
もう、大統領はあの男と鉢合わせたはずだ。
だが、何の音もしない。
殺し屋は耳を澄ませた。
いまでは銃声だけが、あの男が現実に存在した証明なのだから。
〈了〉




