第9話:工房の小さな変化
タクミの煤けた工房に、聖女セレスティアナが夜ごと秘密裏に訪れるようになってから、季節は静かに移ろい、ひと月ほどの時が流れていた。最初の頃の、互いに探り合うような、あるいは警戒し合うような張り詰めた空気は、いつの間にか薄れ、二人の間には奇妙で、しかし確かな「日常」のリズムのようなものが生まれつつあった。
セレスティアナにとって、この薄暗く、鉄と石炭の匂いが染み付いた工房は、もはや単なる「呪物」を依頼する場所ではなかった。そこは、白亜の神殿での息苦しい役割や、常に完璧であることを求められる重圧から解放され、ほんのひとときの間だけ、「ただのセレスティアナ」として息をつくことができる、唯一無二の隠れ家となっていた。そして、工房の主であるタクミは、相変わらず口が悪く、ぶっきらぼうではあるものの、自分の言葉に真摯に耳を傾け、その苦悩を(彼なりに)理解しようとしてくれる、唯一心を許せる(かもしれない)相手へと、少しずつ変化していた。
一方のタクミにとっても、夜ごと訪れる聖女の存在は、もはや予期せぬ闖入者や、危険な秘密の共有者というだけではなくなっていた。彼の孤独で単調な日常における、予測可能で、そしてどこか待ち遠しさすら感じさせる出来事へと、その意味合いは静かに、しかし確実に変わってきていたのだ。もちろん、彼はそんな自身の変化を認めたくはなかったが。
変化は、タクミの心の内だけでなく、工房という物理的な空間そのものにも、目に見える形で現れ始めていた。それは主に、セレスティアナが工房を訪れるたびに持ってくる、ささやかな「お土産」によるものだった。
「神殿の庭の隅に、ひっそりと咲いていたのです。とても綺麗だったので、少しだけ摘んできてしまいました」
そう言って彼女が差し出すのは、名も知らぬ素朴な野の花だったりした。あるいは、
「侍女にこっそり頼んで、厨房で焼いてもらったんです。少し形がいびつになってしまいましたけれど…」
と、はにかみながら差し出すのは、素朴な甘さの焼き菓子だったり。またある時は、
「遠い東方の国から、先日献上された珍しいお茶だそうです。とても良い香りなので、タクミさんにもお裾分けしたくて」
と、小さな包みに入った茶葉を持ってきたりもした。
「工房が、少しでも明るくなればと思って…」「これ、タクミさんのお口に合うか分かりませんが…」
彼女の細やかな、そしてどこか健気な気遣いは、これまで殺風景で無機質、ただ鉄と石炭と埃だけが存在していたタクミの工房に、少しずつ柔らかな彩りと、温かな生活感のようなものを持ち込んでいった。
いつしか、工房の隅にある埃をかぶっていた古い木製の棚の上には、タクミが余った金属片を適当に叩いて作った、いびつだが味のある一輪挿しが置かれ、そこにセレスティアナが持ってきた季節の花が、健気に飾られるようになった。作業台の片隅には、彼女が持ってきた茶葉を入れるための、これもタクミが手慰みに作った蓋付きの小さな金属の小箱が、定位置のように置かれている。そして、工房に常に漂っていた鉄と石炭の無骨な匂いに混じって、時折、微かに甘い花の香りや、淹れたての茶の芳しい香りが漂うようにもなった。それは、この工房がもはやタクミ一人の孤独な城ではなく、二人の秘密を共有する隠れ家へと変貌しつつあることの、ささやかな証のようだった。
タクミ自身の変化は、それらの物理的な変化に比べれば、より微細で、彼自身も完全には自覚していない、あるいは認めたくないものだった。相変わらず口数は少なく、聖女に対する態度もぶっきらぼうなままだ。セレスティアナが淹れてくれるお茶を、「…ん」と短く言って無言で受け取り、彼女が話す神殿での出来事や街の様子の報告に、時折「ふーん」「そうか」「勝手にしろ」といった短い相槌を打つだけ。彼女が持ってくる手作りの菓子も、「甘すぎる」「こんなもの食えるか」などと憎まれ口を叩きながら、しかし結局は、彼女が帰った後で一人、こっそりと全部食べてしまっているのだった。
以前は、セレスティアナが少し長居をすると、「用が済んだなら早く帰れ」「長居すると見つかるぞ」などと、ぶっきらぼうに追い返そうとしていた。しかし最近では、彼女が「そろそろお暇しなければ」と立ち上がる時間になると、むしろ内心で、もう少しここにいればいいのに、と思うようになっている自分に気づくことがあった。そして、彼女がいない昼間の時間に、ふと工房に飾られた一輪の花や、作業台の上の茶葉の箱に目をやり、次の夜の彼女の来訪を、無意識のうちに待ち遠しく思っている自分を発見し、その度に激しく動揺し、自己嫌悪に陥るのだった。
「何を考えてるんだ、俺は…相手は聖女だぞ…?住む世界が違いすぎる。馴れ合っていい相手じゃない」
彼は何度も自分にそう言い聞かせる。この関係はあくまで、呪物を作る鍛冶師と、それを必要とする特殊な依頼主。それ以上でも、それ以下でもないはずだ。これ以上深入りしてはいけない。彼女の世界に自分が踏み込むことも、自分の影の世界に彼女を引きずり込むことも、どちらも破滅への道だ。その強い思い込みと恐怖心が、彼の心の中に依然として強固な壁を作り、彼女に対して素直になることを妨げていた。
しかし、そんなタクミの心の壁も、ある雨の夜、ほんの少しだけ、その厚みを減らす出来事があった。その夜は外で激しい雨が降っており、工房の古い屋根を叩く雨音が、まるで単調な音楽のように響いていた。セレスティアナは、いつもより少し早い時間に訪れ、タクミが淹れた(普段は彼女が淹れるのだが、その日は珍しく彼が淹れた)少し苦い茶を飲みながら、二人は珍しく長い時間、とりとめのない言葉を交わしていた。
その時、セレスティアナが、工房の隅に無造作に立てかけられていた、一冊の古びたスケッチブックに気づいたのだ。表紙は汚れ、角は擦り切れている。
「これは…?タクミさんの絵ですか?」
彼女が興味深そうに尋ねると、タクミは一瞬、ためらった。それは、彼が前世で使っていたもので、異世界に来る際に、なぜか彼のわずかな荷物の中に紛れ込んでいたものだった。そこには、彼がデザイナーを目指していた頃に描いた、様々な工業デザインのスケッチが、当時の情熱と共に残されている。流線型の未来的な乗り物、機能美を追求した家具、見たこともないような精密な構造を持つ機械の数々。それは、彼の叶えられなかった夢の残骸であり、同時に、彼の創造力の源泉を示すものでもあった。
タクミは、少し照れたような、しかしどこか懐かしむような複雑な表情で、スケッチブックを手に取ると、セレスティアナの隣に座り、ゆっくりとそのページをめくり始めた。
「……昔、こんなものを作るデザイナーになりたかったんだ」
雨音に紛れるような、小さな、呟くような声で、彼は言った。異世界に来て初めて、自分の過去の夢、そしてそれが叶わなかった挫折の記憶を、他人に打ち明けた瞬間だった。
セレスティアナは、驚きと、そして純粋な感嘆の入り混じった表情で、次々と現れる斬新なデザインのスケッチを、食い入るように見つめた。
「すごい…!なんて独創的で、機能的で、そして…美しいのでしょう!タクミさんの作るものは、やっぱり素晴らしいです。たとえ、それが今、この世界で『呪い』と呼ばれているものだとしても、その根底には、こんなにも豊かで素晴らしい創造力と、美しいものへの憧れがあるのですね」
彼女の曇りのない、心からの素直な称賛の言葉。それは、これまでの誰からも向けられたことのない種類のもので、タクミの心の奥底に、長年突き刺さったままになっていた劣等感と自己否定の棘を、そっと引き抜いてくれるかのような、温かく、そして力強い響きを持っていた。むず痒さと、照れくささと、そしてこれまで感じたことのないような、静かで、しかし確かな喜びが、彼の心の中にじんわりと、そして深く広がっていくのを感じた。
「…別に、大したもんじゃない。ただの落書きだ」彼はぶっきらぼうに言ってスケッチブックを閉じたが、その耳はかすかに赤くなっていた。
秘密の時間を重ねるうちに、二人の間の距離は、確実に縮まっていた。互いの境遇や、人には言えない苦悩に対する理解が深まり、言葉にしなくとも、視線だけで相手の気持ちが伝わるような瞬間も増えてきた。しかし同時に、二人の間には依然として、聖女と呪物鍛冶師という、決して越えてはならないはずの見えない境界線が存在していることも、互いに意識していた。タクミは、聖女である彼女を危険な秘密に深く引きずり込んでしまっていることへの罪悪感を、セレスティアナは、タクミを自身の個人的な問題に巻き込み、彼に精神的に依存し始めていることへの不安と申し訳なさを、それぞれ心の奥底で感じていた。
それでも、この薄暗く、煤けた工房で過ごす、誰にも知られない秘密の時間は、今の二人にとって、かけがえのない安らぎの時となっていた。神殿での息苦しい役割から解放され、年相応の好奇心や感情を取り戻しつつあるセレスティアナ。孤独なモノづくりの中で、初めて得た人間的な繋がりと、自身の存在意義を肯定してくれるかもしれない相手を見出したタクミ。互いが互いにとって、なくてはならない、特別な存在になりつつあることを、二人は薄々、しかし確かな予感として感じ始めていた。
セレスティアナが帰り、工房に再び静寂が戻る。タクミは一人、作業台の前に座り、彼女が置いていった焼き菓子――少し焦げ目が強くついているが、手作りの温かみが感じられる――を一つ、無意識のうちに口に放り込んだ。素朴な、しかし優しい甘さが口の中に広がる。窓辺に飾られた、名前も知らない小さな野の花が、炉の残り火に照らされて、暗闇の中に淡く、しかし健気に浮かび上がっていた。
工房の空気は、ひと月前とは明らかに変わっていた。それは、彼女が持ち込んだ小さな彩りや温かさだけでなく、タクミ自身の心の中に生じた、静かで、しかし無視できない変化の波紋のせいでもあった。彼は、知らず知らずのうちに口元に浮かんでいた、自分でも気づかないほどの微かな笑みを、慌てて無表情に戻すと、明日の作業のために、道具の手入れを始めた。雨はまだ、静かに降り続いていた。