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第8話:護衛騎士の疑念

大神殿の一角、朝陽がさんさんと降り注ぐ広大な訓練場。そこには、鍛え上げられた肉体を持つ騎士たちの、規律正しい、しかし熱気に満ちた声と動きが満ちていた。剣と剣が激しく打ち合わされる甲高い金属音、荒い息遣い、そして時折響き渡る、厳しい号令の声。そこは、神聖な祈りの場である大神殿の中にあって、唯一、武力と鍛錬が支配する空間だった。


その中心で、ひときわ鋭い剣技と威厳をもって部下たちを指導しているのが、聖女付き護衛騎士団長、ライアス・アルフォードだった。彼はまだ若いが、その剣の腕は王国でも五指に入ると言われ、厳格さと公正さ、そして何より主君である聖女セレスティアナへの揺るぎない忠誠心によって、部下たちからの絶大な信頼を集めている。彼の人生、その存在意義は、ただ一つ――いかなる脅威からも聖女セレスティアナを守護し、その御身の安寧を確保すること。その誓いは、彼の魂に深く刻み込まれていた。


しかし、その揺るぎないはずの忠誠心に満ちた心に、最近、微かな、しかし無視できないさざ波が立ち始めていた。それは、主君であるセレスティアナの、ここ最近の顕著な変化に対するものだった。変化そのものは、喜ばしいことのはずだった。だが、その変化の裏に潜む何かに対する、漠然とした、しかし消し去ることのできない疑念が、彼の心を蝕み始めていたのだ。


ライアスは、誰よりも長く、そして誰よりも近くでセレスティアナに仕えてきたという自負がある。彼女がまだ幼い少女だった頃から、その内に秘めた強大すぎる聖性に苦しみ、常に張り詰めた糸の上を歩くような、危ういバランスの中で生きてきたことを、彼は痛いほど理解していた。公務の後の深い疲労、力の制御に苦しむ姿、そして誰にも見せない孤独な涙。それらを傍で見てきたからこそ、彼は彼女を守るという決意を固めてきたのだ。


だが、ここ最近の彼女は、明らかに違っていた。特に、あの建国記念祭の後あたりからだろうか。以前のような、触れれば切れてしまいそうなほどの極度の緊張感が和らぎ、公務の際にも、どこか余裕のようなものが感じられるようになった。あれほど苦労していた力の制御も安定しているようで、祈りの際に放たれる聖なる光は、以前にも増して輝きを増しているようにすら見える。そして何より、侍従たちやライアス自身に対して、ふとした瞬間に見せる穏やかな表情、時には楽しげな、年相応の少女のような微笑み。それは、彼女を肉親の妹のように思い、案じてきたライアスにとって、心から喜ばしい変化のはずだった。間違いなく、そうであるはずだった。


だが、彼の鋭敏な感覚――長年の鍛錬と実戦経験によって磨き上げられた騎士としての勘――は、その喜ばしい変化の中に潜む、微かな「異質さ」をも同時に感じ取っていた。時折、本当にごく僅かな瞬間だけ、彼女の纏う清浄で神聖なオーラの中に、まるで純粋な光の中に一瞬だけ落ちた影のような、あるいは完璧な和音の中に紛れ込んだ不協和音のような、異質な気配が混じるのを感じるのだ。


それは、冷たく、静かで、聖なるものとは明らかに異質な、対極にあるような気配。明確に「邪悪」や「不浄」と断じられるほどのものではない。しかし、清らかな湧き水の中に、一滴だけ色のついたインクが落ちて、僅かに濁りを生じさせているような、あるいは完璧に磨かれた純金の輝きの中に、ほんの僅かな曇りを見つけてしまったような、そんな微細な違和感。その気配は、彼女が身に着けている、あの新しいペンダントから発せられているような気もするが、確信は持てない。


「聖女様、近頃は大変お健やかにお見受けいたします。何か特別なことでもおありでしたか?あるいは、心境の変化など…」


ライアスは、ある日の定例報告のための謁見の際、できるだけさりげなく、しかし探るような意図を込めて尋ねてみた。彼は、聖女のわずかな表情の変化も見逃すまいと、その青い瞳を注意深く見つめた。


セレスティアナは、その問いに一瞬だけ、ほんのわずかに驚いたような表情を見せた。だが、すぐにいつもの穏やかで慈愛に満ちた微笑みを浮かべ、淀みなく答えた。


「ええ、ライアス。いつも心配してくれてありがとう。でも、何も特別なことはありませんよ。ただ、少しだけ、長年悩まされていた力の制御に、慣れてきたのかもしれませんわ。これも日々の祈りと、神々のご加護のおかげでしょう。感謝しなければなりませんね」


その答えは完璧で、非の打ち所がなく、聖女として模範的なものだった。しかし、ライアスには分かった。彼女が何かを隠している。その美しい瞳の奥に、以前には決して見られなかった種類の、深い秘密の色が宿っていることを。そして、その秘密が、彼女の変化と、あの微かな異質な気配に関係していることも、ほぼ間違いなかった。


彼はそれ以上追及することはできなかった。主君の個人的な領域に、臣下である自分が踏み込むことは許されない。それは騎士道に反する行為だ。しかし、聖女を守るという、彼の存在意義そのものである最大の責務が、彼に疑念を抱かせ続ける。もし、彼女の安定が、何か正しくないもの、あるいは危険なものによってもたらされているのだとしたら?あの異質な気配が、万が一にも、彼女の清らかな魂を蝕む毒のようなものだとしたら…?


考えれば考えるほど、不安は黒い靄のように彼の心に広がっていく。彼は聖女を守るための盾であり、剣であるはずだ。あらゆる外からの脅威はもちろん、たとえその脅威が、彼女自身の内側や、彼女が深く信頼するものの中に潜んでいたとしても、それを見抜き、排除しなければならない。それが、彼に課せられた使命なのだから。


その日の午後、ライアスは自室に戻り、黙々と愛剣の手入れを始めた。滑らかな布で刀身を磨きながら、彼の思考は聖女の変化の原因を探ることに集中していた。あの変化は、いつから始まった?きっかけは何だ?新しい聖具か?特別な祈りの秘術か?それとも、誰か特定の人物の影響なのか?


彼の記憶が、建国記念祭の日にフラッシュバックする。あのバルコニーで、彼女が一瞬、明らかに体調を崩したように見えたこと。そしてその後、まるで何事もなかったかのように回復し、完璧な微笑みを取り戻したこと。あの時、一体何があったのだろうか?人混みに紛れていて、詳細は確認できなかったが、何か決定的な出来事が起こったのではないだろうか?そして、その出来事が、今の彼女の変化に繋がっているのではないか?


ライアスは、剣の手入れを終えると、最も信頼の置ける腹心の部下である副団長と、数名の古参の騎士を、人目につかないように自室へと呼び寄せた。


「皆に、極秘裏に調査してもらいたいことがある」


ライアスは低い声で、しかし強い意志を込めて切り出した。


「聖女様の、ここ最近のご様子についてだ。些細なことでも構わない。何か変わった点、気になる点があれば、全て私に報告せよ。特に、夜間のご動静や、外部の者との不審な接触には、細心の注意を払ってほしい。これは最高機密事項とする。決して他言は無用。調査は慎重に、かつ迅速に進めてくれ」


部下たちは、主君のただならぬ様子に緊張した面持ちで頷き、命令を受諾した。


まだ具体的な証拠は何一つない。全ては、自分の過剰な心配、杞憂なのかもしれない。そうであってほしいと、ライアスは心の底から願っていた。しかし、長年、危険と隣り合わせの騎士として生きてきた彼の勘が、何か良くないことが、見えない水面下で進行している可能性を強く告げていた。


彼は再び訓練場へと足を運び、その片隅で、一人黙々と剣を振るい始めた。剣筋は普段と変わらず鋭く、正確無比だが、その眉間には深い皺が刻まれ、表情には普段の厳格さに加え、主君への忠誠心と、抱いてしまった疑念との間で揺れ動く、深い苦悩の色が浮かんでいた。


夕陽が訓練場を長く、物悲しいオレンジ色に染め上げ、騎士たちの影を地面に長く伸ばしていく。ライアスは剣を鞘に収め、大神殿の、聖女の居住区がある方角を、じっと見つめた。その視線は、祈りのようでもあり、また、獲物を探る狩人のようでもあった。


「聖女様……あなたのその安らかな笑顔が、真実のものであることを、心から願っております。しかし、もし万が一、その影に何か……」


彼の心に蒔かれてしまった疑念の種は、もはや無視できない大きさへと育ち始めていた。彼はまだ知らない。その疑念の先に待ち受けている真実が、彼の揺るぎないはずだった忠誠心、騎士としての誇り、そしてこの世界の常識や秩序そのものを、根底から揺るがすほどの衝撃をもたらすことになるということを。


聖女の変化の裏に潜む、見えない影を追う、護衛騎士団長の孤独な戦いが、今、静かに始まろうとしていた。

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