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第7話:最初の「処方箋」

あの日、聖女セレスティアナが初めて工房を訪れてから、タクミの日常は一変した。昼間は相変わらず孤独な呪物制作と、それを売って糊口をしのぐための裏取引。しかし、夜になると、彼の工房は二人だけの秘密の空間へと変わる。セレスティアナはほぼ毎晩、約束通り人目を忍んで工房を訪れ、タクミは黙々とペンダントの制作に打ち込んだ。


彼の心の中では、依然として相反する感情が激しくせめぎ合っていた。聖女に呪物を渡すという行為への根源的な罪悪感。それが露見した際に訪れるであろう、破滅的な未来へのリアルな恐怖。しかし、それらを凌駕するほどに、セレスティアナの苦しみを和らげたいという強い思いが、彼を突き動かしていた。そして、認めたくはないが、夜ごと訪れる彼女とのぎこちない会話や、時折見せる素顔に、心が惹かれ始めている自分自身への戸惑いも、日増しに大きくなっていた。


このペンダントは、彼女にとっての「処方箋」であると同時に、自分にとっては「禁忌」への決定的な第一歩でもある。その重い自覚が、皮肉にも彼を一層、制作へと没頭させた。失敗は許されない。中途半端なものでは、彼女を救うどころか、さらなる危険に晒すことになるかもしれない。


彼は持てる技術の全てを、そして前世で培ったデザインの知識をも総動員した。力を過剰に「抑制」するだけでなく、彼女の聖性と可能な限り「調和」し、外部からの探知を難しくするような、複雑な呪詛の組み合わせを試みた。そして同時に、それが「呪物」であることを極力感じさせず、聖女が日常的に身に着けても不自然に見えないような、洗練されたデザインを追求した。それは、呪われた品しか作れない彼にとって、矛盾に満ちた、極めて困難な挑戦だった。


炉の火を見つめ、槌を振るい、金属を丹念に削り、磨き上げる。来る日も来る日も、彼はまるで祈るかのように、あるいは何かに取り憑かれたかのように、作業に没頭した。この歪んだ「呪い」が、どうか彼女の「救い」となりますように、と。


そして、運命の夜から数えて七日目の夜。ついにペンダントは完成した。


それは、タクミの苦悩と祈り、そして彼の持つ歪んだ才能が奇跡的なバランスで結晶化したかのような、異様なまでに美しい作品となっていた。手のひらに収まるほどの大きさで、全体のフォルムは、夜空に輝く三日月を思わせる優美な曲線を描いている。中央には、あの建国記念祭の日にセレスティアナの力を鎮めた黒曜石よりもさらに深く、吸い込まれるような闇色の光沢を持つ特殊な鉱石――タクミが自身の知識と勘で選び出した「夜涙石ナイトティア」と呼ばれる、魔力や聖力を吸収・安定させる希少な石――が嵌め込まれていた。


その夜涙石を包むように、銀色の金属(最高純度のミスリル銀に、ごく微量の「影鉄」を混ぜ込み、呪詛を練り込んだ特殊合金)で、繊細極まりない、しかしよく見ると鋭い棘を隠し持った、絡み合う茨のような、あるいは古代の守護紋様のような文様が、驚くほど緻密に彫り込まれている。全体として、冷たく、静謐で、それでいて見る者の心を捉えて離さないような、危うい魅力と神秘性を同時に秘めていた。まさに、聖性と呪いが互いを打ち消し合うのではなく、奇妙な緊張感の中で共存しているかのような、タクミにしか生み出すことのできない、唯一無二の「呪物」だった。


「…………できた」


タクミは、完成したばかりのペンダントを革紐に通し、それを自らの煤けた指先でつまみ上げ、炉の赤い光にかざした。夜涙石は光を吸収し、金属部分は鈍く、しかし妖しい輝きを放っている。これが、吉と出るか、凶と出るか……。彼の表情は、達成感よりもむしろ、これから起こるかもしれない事態への不安と緊張で硬くなっていた。



その夜、いつも通り工房を訪れたセレスティアナは、部屋の中に漂ういつもと違う緊張した空気と、炉の前に立つタクミの硬い表情、そして彼の手の中にある完成したペンダントを見て、息を呑んだ。ペンダントは、工房の薄暗がりの中にあってさえ、自ら仄かな光を放っているかのように美しく、しかし同時に、どこか近寄りがたいような、不可思議なオーラを纏っていた。


「……これが、あんたが望んだものだ」


タクミは静かに、しかしその声には隠しきれない重々しさが滲んでいた。彼はセレスティアナに向き直ると、ペンダントを彼女の目の前に差し出した。


「だが、よく聞け。これは、俺がこれまでに作ったどんな呪物よりも強力だ。そして、それゆえに危険でもある。あんたが持つ聖なる力とは、本来、決して交わることのない、水と油、光と影の関係にあるものだ。このペンダントを身に着けた時、具体的に何が起こるか、俺にも正確には予測できない。期待通りに力が抑制されるかもしれないが、逆に暴走を引き起こす可能性だってゼロじゃない。最悪の場合、あんたの聖なる魂そのものを汚し、取り返しのつかないことになる可能性だって否定できないんだ。それでも……本当にこれを望むんだな?今ならまだ、引き返せる」


彼の声には、これが最後の警告であり、そして彼女の真の覚悟を問う、真剣な響きがあった。彼は彼女の青い瞳を真っ直ぐに見つめ、その答えを待った。


セレスティアナは一瞬、息を詰めた。タクミの言葉は、彼女が心の最も深い部分で抱いていた、漠然とした、しかし根深い不安を、容赦なく抉り出すものだったからだ。聖なる存在である自分が、呪われた力に頼る。その行為がもたらすかもしれない、未知のリスク。だが、彼女の迷いは一瞬だった。これまでの苦しみ、力の暴走への恐怖、そして聖女としての重圧。それらから解放される可能性があるのなら、彼女にはもう、この道を選ぶ以外の選択肢はなかった。


彼女は顔を上げ、タクミの視線をしっかりと受け止めた。その瞳には、もはや迷いの色はなく、静かだが揺るぎない決意の光が宿っていた。


「はい。覚悟は、できています。この苦しみから解放されるかもしれないという希望があるのなら、私は、その可能性に賭けます。あなたの力を、信じます」


その真っ直ぐな言葉と瞳に、タクミはしばらく黙って見つめ返していたが、やがて小さく、ほとんど分からないほどに頷くと、ペンダントをそっと彼女の手のひらに乗せた。ひんやりとした金属の感触が、彼女の肌に伝わる。



セレスティアナは、深呼吸を一つすると、震える指先で、ペンダントに通された革紐の留め金を扱った。そして、おそるおそる、しかし確かな手つきで、それを自らの白い首にかけた。夜涙石が、彼女の胸の中心、ちょうど心臓の真上あたりに静かに収まる。


ペンダントが彼女の肌に触れた、その瞬間――。


まるで、長年続いていた激しい嵐が嘘のように突然止み、風一つない、完璧な静寂が訪れたかのように。常に彼女の体内で荒れ狂い、渦巻き、制御不能な奔流となっていた聖なる力が、驚くほど急速に、穏やかで、澄み切った、制御可能な清流へと変わっていくのを、セレスティアナははっきりと、そして全身で感じ取った。


長年にわたって彼女を苛んできた、内側からの強烈な圧迫感が、すぅっと霧が晴れるように消え去っていく。深く、楽に、まるで生まれて初めて本当の呼吸をするかのように、息を吸い込むことができた。視界が、驚くほどクリアになる。これまでぼんやりとしか見えていなかった工房の中の煤けた壁のひび割れや、棚に置かれた工具の細かな形状までが、鮮やかに目に飛び込んでくる。世界が、まるで色を取り戻したかのように感じられた。


「……あぁ……!」


セレスティアナは、安堵と、驚愕と、そしてこれまで感じたことのない深い解放感に満たされた、熱いため息をついた。気づくと、両の目からは自然に涙が溢れ、次々と頬を伝い落ちていた。これは、悲しみの涙ではない。喜びと、感謝と、そして何よりも、生まれて初めて経験する、本当の意味での「心の平穏」に対する感動の涙だった。彼女は胸元で、冷たく、しかし頼もしく輝くペンダントを、まるで祈るかのように、両手でそっと握りしめた。


「すごい……本当に……力が、こんなにも穏やかになるなんて…!信じられない…!」


セレスティアナは、まだ涙に濡れた顔を上げ、信じられないという表情で、目の前に立つタクミを見つめた。そして、心の底から湧き上がる、輝くような笑顔を見せた。それは、これまでのどんな笑顔とも違う、何の翳りもない、純粋な喜びと感謝に満ちた、太陽のような笑顔だった。


「ありがとうございます、タクミさん!本当に、本当に、ありがとうございます!あなたは…私の恩人です!救い主です!」


その穢れのない、あまりにも眩しい感謝の笑顔は、薄暗い工房全体を、まるで一瞬にして明るく照らし出すかのようだった。タクミは、その強烈な光と感情の奔流に目を細め、まるで太陽を直視してしまったかのように、反射的に視線を逸らした。聖女の涙と、そして心からの笑顔。そのあまりにも強いインパクトに、彼はどう反応していいのか分からず、ただ戸惑うばかりだった。


「…礼など、要らん。効果が出たのなら、それでいい」


彼は努めて平静を装い、ぶっきらぼうに、しかし少し掠れた声で答えるのが精一杯だった。


「いいえ!これは私にとって、どんな高価な宝石よりも、どんな強力な聖具よりも価値のある、何物にも代えがたい、最高の贈り物です!」セレスティアナは、まだ涙の跡が残る頬で、幸せそうに微笑みながら言った。「あなたのその力は、決して呪いなんかじゃありません。誰かを…私のような者を、深い苦しみから救うことができる、本当に素晴らしい力です」


その言葉は、まるで鋭い矢のように、タクミの心の最も硬く、そして最も脆い部分に、深く突き刺さった。呪いとしか思えず、忌み嫌ってきた自分の力が、聖女を救った?そして、素晴らしい力だと、心からの感謝を告げられた?信じがたい事実に、彼の心は激しく揺さぶられ、これまでの価値観がガラガラと音を立てて崩れていくような感覚に襲われた。


「……これは、取引だと言ったはずだ」


彼はそれ以上言葉を続けることができず、照れ隠しのように、そして込み上げてくる複雑な感情から逃れるように、くるりと炉の方へと向き直った。しかし、彼の首筋までわずかに赤くなっているのを、セレスティアナは見逃さなかった。


「このペンダントのことは、私の命に代えても、決して誰にも話しません。あなたにご迷惑がかからないように、細心の注意を払います。誓います」セレスティアナは、改めて真剣な表情になり、固い誓いの言葉を述べた。

「……分かってる。俺も、これ以上面倒なことに関わるのはごめんだ」タクミも、背を向けたまま、しかし確かな口調で頷いた。


二人の間に結ばれた、危険で、そしてあまりにも重い秘密の契約。その重みが、炉の熱気と混じり合いながら、工房の空気の中にずしりと漂っていた。



セレスティアナは、名残惜しそうにしながらも、しかし来た時とは比べ物にならないほど晴れやかで、希望に満ちた表情で工房を後にした。彼女の足取りは驚くほど軽く、まるで心にも体にも翼が生えたかのようだった。


一人残されたタクミは、しばらくの間、炉の前に立ち尽くしていた。炉の赤い火が、彼の複雑な表情をゆらゆらと映し出す。聖女に呪物を渡してしまったことへの罪悪感は、消え去りはしない。だが、それ以上に、彼女が見せた涙と、太陽のような笑顔、そして「あなたの力は素晴らしい」という、魂に響くような言葉が、彼の心に深く、そして鮮明に刻み込まれていた。


自分の作った「呪い」が、誰かの「救い」になった。


この揺るぎない事実は、彼のこれまでの絶望的な世界観を、根底から揺るがし始めていた。これから、自分の中で、そしてこの世界で、何かが大きく変わっていくのかもしれない。そんな漠然とした、しかし確かな予感が、暗く煤けた工房の中に、静かに、しかし力強く満ちていた。

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