第6話:煤けた指と純白の手
重い木の扉がギィと音を立てて閉まり、外界の冷たい夜気と月明かりは完全に遮断された。工房の中は、炉の中で揺らめく炎の赤い光だけが頼りの、濃密な薄闇に包まれていた。パチパチと薪のはぜる音、そして壁に掛けられた工具が時折カタ、と微かな音を立てる以外は、緊張した沈黙が支配している。
聖女セレスティアナは、扉のすぐ内側に立ち尽くしたまま、改めて工房の中を見回していた。壁一面に、まるで拷問具のようにも見える、見慣れない形状の槌ややっとこ、鏨などが無数に掛けられている。床には、用途不明の金属塊や、作りかけの部品らしきものが無造作に転がり、隅には石炭や鉄屑が山積みになっている。そして、部屋の中央で轟々と燃え盛り、熱気を放っている巨大な煉瓦造りの炉。その全てが、彼女が神殿で目にし、触れてきた清浄で美しいものとは正反対の、荒々しく、無骨で、しかし同時に、何かを生み出すための力強いエネルギーに満ちた空間だった。
自分が、今、そのような場所にいるという事実が、まだ現実味を帯びてこない。彼女は自分が場違いな存在であることを痛感し、身に着けたマントの裾を固く握りしめ、身を縮こまらせるようにして佇んでいた。
タクミは、そんな彼女を一瞥したが、特に何も言わず、炉の方へと歩み寄った。そして、壁際に置かれていた古びた木製の椅子を、顎でしゃくって示す。
「……そこに座ってろ」
椅子の上には、うっすらと黒い煤の粉が積もっていた。タクミはそれを気にする風もない。彼はすぐに炉に向き直り、ふいご(送風装置)の取っ手を掴むと、力強く動かし始めた。ゴォォ…という音と共に炉の中に空気が送り込まれ、炎は一層勢いを増して燃え上がり、工房全体を不気味な赤い光で照らし出した。
セレスティアナは、示された椅子に近づくと、手袋をした手で座面の埃をそっと払い、浅く腰掛けた。そして、息を詰めるようにして、タクミの背中を見つめ始めた。
炉の熱で汗を滲ませながら、タクミは黙々と作業の準備を進めている。彼の心の中では、依然として激しい葛藤が渦巻いていた。本当に作るのか…?聖女のために、呪物を。神に仕える最も清浄な存在に、穢れた力を与えるというのか?これは、神への冒涜以外の何物でもない。もし、万が一にもこのことが露見すれば、自分は間違いなく異端者として捕らえられ、火炙りにされるか、あるいはもっと惨たらしい末路を辿るだろう。その恐怖は、彼の全身を冷たく締め付ける。
しかし、それ以上に、先ほどのセレスティアナの涙と、魂からの叫びのような懇願が、彼の心を強く捉えて離さなかったのだ。「助けてください」――その言葉が、耳の奥で何度も繰り返される。あの深い苦しみと絶望を、無視することなどできなかった。異質な力に苦しむ者として、彼女の痛みが痛いほど理解できるからこそ。そして、ほんのわずかだが、あの時バルコニーで見た、彼女の安堵したような表情が、自分の力が誰かの救いになるかもしれないという、微かな、しかし抗いがたい希望を抱かせていた。
「……ちっ」
タクミは短く舌打ちすると、迷いを振り払うかのように、長い火箸を手に取り、炉の中に差し込んだ。そして、真っ赤に焼けた手頃な大きさの鉄塊を巧みに掴み出す。ジリジリと熱気を放つ鉄塊を、彼は火花を散らしながら金床の上に乗せた。そして、傍らに置かれた、彼の腕ほどもある重い鉄槌を、両手で力強く振り上げる。
カンッ!!
高く鋭い金属音が、工房の静寂を切り裂いた。それは、彼女のための「処方箋」――聖なる力を抑制するための呪物のペンダント――を作る作業の、始まりの合図だった。
セレスティアナは、その音に肩をびくりと震わせたが、すぐにタクミの動きに視線を集中させた。炉の赤い光に照らされた彼の横顔は真剣そのもので、額には汗が玉のように浮かんでいる。鍛え上げられた逞しい腕の筋肉が、重い槌を正確に振り下ろすたびに、力強く隆起する。飛び散る火花が、彼の集中しきった表情を瞬間的に照らし出す。その姿は、彼女が神殿で見てきたどんな荘厳な儀式よりも、ずっと厳かで、力強く、そしてどこか神聖なもののようにさえ見えた。モノを創り出すという行為の、根源的な力強さがそこにはあった。
ふと、彼女はタクミの手に目を留めた。槌の柄を握りしめるその手は、指の先まで煤で真っ黒に汚れ、節々はゴツゴツと太く、皮膚には無数の小さな切り傷や、火傷の痕が痛々しく刻まれている。まさに、過酷な労働を物語る、職人の手だ。この手が、あの不可思議な力を持つブローチを生み出したのか。セレスティアナは、自分の膝の上で、不安げに固く握りしめられた自身の手を見下ろした。白い絹の手袋に覆われているが、その下にあるのは、何の苦労も知らないかのように滑らかで、繊細なだけの手。聖女として、常に清浄さを保ち、肉体労働などとは無縁の生活を送ってきた結果だ。だが、今、この力強い創造の現場を目の当たりにして、自分の手がどこか頼りなく、虚しいもののように感じられた。煤けたタクミの指と、自分の純白の手。そのあまりにも鮮やかな対比が、二人の間に横たわる、埋めがたい世界の隔たりを象徴しているかのようだった。
しばらくの間、工房にはタクミが振るう槌音だけが、規則的に響き渡っていた。その音にも少し慣れてきた頃、セレスティアナは、勇気を出しておずおずと口を開いた。
「あの…タクミ、様…」
カン!という槌音の後、タクミは顔を向けずに、しかし以前、彼女が工房を訪れた時よりも少しだけ穏やかな、あるいは諦めたような口調で答えた。
「だから、様はやめろと言っただろう」
「…ごめんなさい。タクミ、さん。あなたは、なぜ…そのような、呪われたものしか作ることができないのですか?その…スキル、とおっしゃっていましたけれど…」
その問いに、タクミは一瞬、槌を振るう手を止めた。そして、ふっと自嘲気味な、乾いた息を漏らす。
「知るか。俺に聞くなよ。異世界に来る時に、どこかの偉い女神様だか悪魔だか知らんが、そいつに勝手に押し付けられた、ありがたーい才能さ。『お前の魂の適性だ』なんて、ふざけたこと言いやがってな」
「異世界…?やはり、あなたは、別の世界からいらした方なのですね…」
セレスティアナは驚きに目を見開いた。転生者や異世界人という存在は、ごく稀にだが、古代の伝承や禁断の文献の中に記述が見られる。しかし、実際に目の当たりにするのは、もちろん初めてだった。タクミが纏う、どこかこの世界の人間とは違う雰囲気の理由の一端が、少しだけ理解できた気がした。
「ああ。まあ、色々あってな。元の世界じゃ、しがないサラリーマンだったが」タクミはそれ以上詳しく語ろうとはしなかったが、その短い言葉の中には、彼の抱える複雑な過去と、異世界での境遇に対する深い諦念が滲んでいた。
会話はまだ途切れがちで、ぎこちない。それでも、この秘密の共有と、モノづくりの現場を間近に見るという経験を通して、セレスティアナはタクミという人間に対する印象を少しずつ変えていた。彼は単なる無愛想で危険な呪物鍛冶師ではなく、複雑な過去と深い苦悩を抱え、それでもなお、何かを創り出そうとしている一人の人間なのだ、と。そして、彼の作るものがたとえ「呪い」だとしても、そこには確かな技術と、彼自身の魂のようなものが込められていることも、感じ始めていた。
一方のタクミもまた、聖女セレスティアナに対する見方を少しずつ変えていた。彼女は人々が崇める完璧な偶像ではなく、好奇心旺盛で、他者の痛みに敏感で、そして自身の運命に抗おうと必死にもがいている、一人の悩み多き人間なのだ。その事実は、彼の中にあった聖女への畏れや反発を和らげ、代わりに、奇妙な共感と、そして守ってやりたいという庇護欲のような感情を芽生えさせていた。
【結び:夜明けと新たな関係の始まり】
タクミが作業に没頭し、セレスティアナが静かにそれを見守るうちに、時間はあっという間に過ぎ去っていった。工房の壁にある、煤で汚れた小さな窓から、東の空がわずかに白み始めているのが見える。夜明けが近い。
「……夜が明ける。今日はここまでだ」タクミはようやく槌を置き、額の汗を革のエプロンで拭った。「完成には、まだ数日かかるだろう」
「はい……」セレスティアナは、名残惜しそうに立ち上がった。初めて間近で見た鍛冶の作業は、荒々しくも魅力的で、もっと見ていたいという気持ちがあった。「ありがとうございます、タクミさん。その……また、今夜も、来てもよろしいでしょうか?」彼女は少し不安げに、彼の反応を窺うように尋ねる。
タクミは、彼女に背を向けたまま、炉の火の始末をしながら、ぶっきらぼうに答えた。
「……好きにしろ。ただし、絶対に誰にも見つかるなよ。あんたのためにも、俺のためにもな」
その言葉には、表向きの突き放した響きとは裏腹に、暗黙の許可と、そしてわずかながら相手を気遣う響きが含まれているように、セレスティアナには聞こえた。
「はい、必ず。約束します」彼女は小さく、しかし力強く頷いた。そして、再びフードを目深にかぶり、顔をヴェールで覆うと、工房を後にした。朝日が差し込み始めた裏路地を、彼女は来た時よりも少しだけ軽い、しかし秘密を抱えた者の確かな足取りで歩いていく。
一人残されたタクミは、金床の上に置かれた、まだ熱を帯びている、歪な金属の塊――ペンダントの原型――を、複雑な表情で見つめていた。炉の残り火が、彼の顔に深い陰影を落とす。聖女との秘密の契約。それは、彼の孤独で単調だった日常に、予期せぬ、そしておそらくは危険な変化をもたらし始めていた。この奇妙な関係が、これからどこへ向かうのか、彼にはまだ想像もつかなかった。ただ、もう後戻りはできないということだけは、確かだった。工房の中に漂う鉄と石炭の匂いに、今夜、微かに甘い花の香りが混じっているような気がした。