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第5話:夜陰の訪問者

王都アステリアが深い眠りに包まれ、ほとんどの家々の灯りが消えた深夜。昼間の喧騒が嘘のように、街は静寂に支配されていた。特に、タクミの工房があるような裏路地は、人通りも絶え、物音一つしない。石畳を照らすのは、細く欠けた月が雲間から投げかける、頼りなく冷たい光だけ。時折、吹き抜ける夜風が、道の隅に溜まったゴミをカサリと舞い上げ、どこかの家の軒下で丸くなった野良猫が、暗闇の中で緑色の瞳を鈍く光らせる。そんな、人の気配も、温もりも感じられない時間に、タクミの工房の古びた木の扉が、控えめに、しかし確かな意志をもって叩かれた。


コン、コン。


「……ん?」


炉のそばに置かれた粗末な寝台で、うつらうつらと浅い眠りに落ちかけていたタクミは、その音で不意に意識を覚醒させた。こんな真夜中に誰だ?耳を澄ます。間違いなく、自分の工房の扉を叩く音だ。押し売りか、泥棒か、それとも厄介な借金の取り立て屋か。これまでの経験上、こんな時間に訪ねてくる者に、ろくな相手はいない。


タクミは用心深く寝台から起き上がると、壁に立てかけてあった、護身用にしている重い鉄の棒を音もなく手に取った。そして、足音を忍ばせながら、そっと扉へと近づいていく。扉には、外の様子を窺うための、小さな覗き窓が付いている。タクミは息を殺し、片目をつぶって、その小さな穴から外を覗き込んだ。


月明かりに照らされた扉の前には、一人の人影が立っていた。フードを目深にかぶり、顔の大部分は影になって見えないが、小柄な体格であることがわかる。しかし、その佇まいは、この薄汚れた裏路地の住人とは明らかに異質だった。身に纏っているマントは、質素なデザインながらも、月光を微かに反射する上質な生地で作られていることが窺える。そして何より、その人影からは、場違いなほどの、張り詰めたような、どこか高貴さすら感じさせる気配が漂っていた。


怪しい。非常に怪しい。しかし、ならず者のような荒々しさや殺気は感じられない。一体、何者なんだ?


「何の用だ?こんな夜更けに」


タクミは扉越しに、できるだけ低く、相手を威嚇するような、ぶっきらぼうな声を出した。声には警戒心が滲み出ている。


すると、扉の向こうから、凛とした、しかし微かに震えている、澄んだ女性の声が返ってきた。


「……夜分に、申し訳ありません」


その声。どこかで聞いたことがあるような気がする。いや、まさか…。タクミの脳裏に、数日前の建国記念祭の喧騒と、バルコニーの上に立つ光り輝く姿が、一瞬よぎった。そんなはずはない。だが、無視できない疑念と、抑えきれない好奇心に駆られ、彼は用心深く、しかし重々しく音を立てて扉のかんぬきを外した。そして、鉄の棒を握りしめたまま、扉を鎖一つ分だけ、ゆっくりと開けた。


隙間から差し込む月明かりの中に、訪問者の顔が浮かび上がる。タクミは息を呑み、言葉を失った。


フードの深い影から覗くのは、雪のように白い肌、月光を受けて神秘的な輝きを放つ柔らかな金色の髪、そして強い意志と、隠しきれない不安が複雑に混じり合った色を浮かべた、大きな、吸い込まれそうなほど深い青色の瞳――。


間違いない。聖女セレスティアナその人だった。


彼女は、この煤けた裏路地には、あまりにも不釣り合いな、まるで闇の中に舞い降りた月光の女神のような、神々しいまでの美しさを放っていた。なぜ、聖女がこんな場所に?しかも、護衛もつけずに、たった一人で?タクミの頭の中は、驚愕と混乱で真っ白になった。


「あなたが、これを作った方ですね?」


セレスティアナは、震える手で、懐から取り出した小さな物体を、扉の隙間からタクミの目の前に差し出した。それは、あの日、彼が石畳の上に落として見捨てた、あの黒曜石のブローチだった。やはり、彼女の手に渡っていたのだ。タクミの心臓が、ドクンと大きく嫌な音を立てて跳ねた。


「お願いがあります」


彼女は意を決したように顔を上げ、隙間から見えるタクミの目を、真っ直ぐに見つめた。その瞳には、切実な光が宿っている。


「これと…同じようなものを…どうか、作ってはいただけませんか?私の、この力を…この、私自身を苛む力を、抑えるために」


その声は、普段の公の場で聞くような、聖女としての威厳に満ちたものではなかった。ただただ必死で、切実で、助けを求めるか弱い少女の響きを帯びていた。


タクミは激しく動揺した。聖女自らが、この裏路地の鍛冶師の元へやってきて、あろうことか「呪物」を求めている。こんなことがあっていいはずがない。これは罠か?何かの陰謀か?


「な…何を言ってるんだ!あんた、自分が何を言ってるのか分かってるのか!?これは呪物だぞ!あんたのような、聖女様が、こんな禍々しいものに頼るべきじゃない!」


彼は反射的に、ほとんど叫ぶような強い口調で拒絶した。


「これはあんたのためにならない!不幸になるだけだ!早くお帰りください!ここは、あなたのような方がいらっしゃる場所じゃない!」


恐怖と混乱から、彼は思わず扉を乱暴に閉めようとした。これ以上、関わってはならない。関われば、破滅が待っているだけだ。彼の本能が、けたたましく警鐘を鳴らしていた。


しかし、セレスティアナは、閉められようとする重い扉に、華奢な手をかけ、必死に押しとどめた。彼女の小さな手は、冷たい鉄の感触に震えている。


「お待ちください!お願いです、話を聞いてください!」彼女の声は、悲痛な叫びに変わっていた。「存じています!これが聖なる品ではないことも、危険なものであるかもしれないことも!ですが…ですが、これだけが、今の私にとって、唯一の希望なのです!このブローチだけが、私のこの苦しみを和らげてくれるのです!」


彼女の声は次第に嗚咽に変わり、その美しい瞳からは、抑えきれなくなった大粒の涙が、ぽろぽろとこぼれ落ち始めた。


「このままでは、私は…いつか、この力に飲み込まれてしまうかもしれない…!民を傷つけ、世界を脅かす存在になってしまうかもしれない…!それが怖いのです!どうか…お願いします!私を、助けてください…!」


聖女の仮面は完全に剥がれ落ち、そこには、ただ絶望的な状況に追い詰められ、助けを求める一人の少女の姿があった。その必死な姿、涙に濡れた瞳、そして魂からの叫びのような訴えは、タクミの心の奥深くに突き刺さり、彼の頑なな壁を激しく揺さぶった。


これもまた、自分と同じように、望まぬ異質な力に苦しむ者の姿なのだ。聖女という立場は違えど、その孤独と苦悩の深さは、痛いほど伝わってくる。突き放すことが、どうしてもできなかった。


しばしの沈黙が、冷たい夜の空気の中に重く漂った。裏路地に吹き抜ける風の音だけが、やけに大きく聞こえる。タクミは、扉を押さえるセレスティアナの小さな手に視線を落とした。そして、深く、重く、諦めたようなため息をつくと、扉を押さえつけていた自分の腕の力を、ゆっくりと抜いた。


「……入れ」


短く、ぶっきらぼうに、しかしどこか疲れたような声で告げると、彼は背を向け、工房の中へと無言で歩き出した。鉄の棒は、いつの間にか手から滑り落ち、カラン、と床に乾いた音を立てていた。


セレスティアナは、驚きと、そしてこみ上げてくる安堵が入り混じった複雑な表情で、一瞬ためらった。だが、すぐに意を決し、おそるおそる、しかし確かな足取りで、工房の中へと足を踏み入れた。一歩中に入ると、外のひんやりとした夜気とは違う、炉の持つ独特の熱気と、鉄と石炭、そして油の混じり合った、無骨な匂いが彼女の身体を包んだ。


薄暗く、乱雑で、しかしどこか作り手の執念のようなものが凝縮された異質な空間。それは、彼女がこれまで生きてきた清浄で秩序だった世界とは、あまりにもかけ離れた場所だった。


ギィ……と、古びた蝶番がきしむ音を立てて、工房の扉がゆっくりと閉められる。外界からの光も音も遮断され、そこには二人だけの、秘密の空間が生まれた。


光の世界に生きる聖女と、影の世界に生きる呪物鍛冶師。


決して交わるはずのなかった二つの孤独な運命が、この夜、この煤けた裏路地の片隅で、静かに、しかし決定的に交差した。それは、これから始まる長く、複雑な物語の、危険で、そしてどこか甘美な予感をはらんだ、運命の扉が開かれた瞬間だった。

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