第4話:忘れ得ぬ残滓
建国記念祭の熱狂的な喧騒が過ぎ去り、王都アステリアにはいつもの落ち着いた日常が戻っていた。大神殿もまた、祭りの間の特別な儀式や公務から解放され、静謐な雰囲気に包まれていた。しかし、聖女セレスティアナの内面だけは、あの日以来、静かではなかった。むしろ、以前よりも大きな波が、寄せては返すように彼女の心を揺さぶり続けていた。
彼女は神殿の自室で、窓の外に広がる手入れの行き届いた庭園を眺めながら、ドレスの胸元に隠し持っている小さな物体――あの黒曜石のブローチ――の冷たい感触を、指先で確かめていた。あれは夢ではなかった。あの時感じた、体内で荒れ狂う聖力の奔流が、まるでダムに堰き止められたかのように凪いでいく、あの不思議な安堵感。それは一過性の現象ではなかったのだ。
祭りの後、誰にも気づかれないように、彼女はこのブローチを肌身離さず身に着けてみた。すると、驚くべきことに、以前よりも明らかに聖力の制御が容易になり、常に感じていた内側からの圧迫感や、それに伴う精神的な疲労も、著しく軽減されているのを実感したのだ。もちろん、完全に力が消え去るわけではない。しかし、荒れ狂う暴れ馬が、手綱の利く駿馬へと変わったかのような、劇的な変化だった。
「このブローチは一体…?どうして、こんな力が…?」
セレスティアナの心は、その謎を解き明かしたいという強い欲求と、未知なるものへの微かな恐れとで揺れていた。これが、長年自分を苦しめてきた力の制御問題に対する、初めて見えた希望の光なのかもしれない。だとしたら、何としてでもその正体を突き止めなければならない。
彼女はまず、神殿が誇る膨大な書庫に再び足を踏み入れた。そこには、建国以来の歴史、神学、魔法理論、そして歴代聖女に関する記録まで、あらゆる知識が集積されている。今度は、これまでの調査範囲を広げ、聖なる遺物や祝福に関する文献だけでなく、古代の呪術、禁忌とされた魔道具、異端とされる力の制御法に関する、通常は封印されている領域の文献にも手を伸ばした。
分厚く埃をかぶった古文書のページを、彼女は一心不乱にめくっていく。羊皮紙の乾いた匂いと、古びたインクの香りが漂う静寂の中で、時折聞こえるのはページをめくる音だけ。司書や他の神官たちは、聖女がそのような「怪しげな」文献に興味を示すことを訝しみ、遠巻きに心配そうな、あるいは非難めいた視線を送ってくる。だが、セレスティアナはそれに構わず、必死に手がかりを探し続けた。
しかし、関連する記述を見つけ出すのは困難を極めた。神殿の公式な教義において、「聖なる力」を抑制したり、打ち消したりするような存在は、悪魔や異端の業として厳しく排斥されている。関連する記録は、意図的に抹消されているか、あるいは発見されても解読不能なように、極めて難解な古代語や、複雑な暗号を用いて記されている可能性が高かった。
「やはり、神殿の知識だけでは限界があるのかもしれない…」
数日間の調査の末、セレスティアナは焦燥感を募らせながら、一つの結論に至った。このブローチは、神殿の常識や知識体系の外側にある、未知の力が作用しているものなのだ、と。ならば、答えは神殿の外に求めるしかない。
文献での調査が行き詰まりを見せる中、セレスティアナは別の角度から情報を集めることにした。最も信頼の置ける、口の堅い年配の侍女を呼び寄せ、それとなく市井の噂を探らせるよう命じたのだ。
「街で、何か変わった品物や、不思議な力を持つ道具に関する噂を聞いたことはありませんか?例えば、黒い金属や石を使ったもの、あるいは、それを持つと奇妙な出来事が起こると言われているような…」
侍女は、聖女の意外な問いに驚きつつも、忠実にその命に従った。数日後、彼女が集めてきた情報は、他愛のない迷信や作り話が大半だったが、その中に一つ、セレスティアナの注意を強く引くものがあった。
「王都の裏路地、陽も差さぬような煤けた一角に、人付き合いを嫌う、奇妙な鍛冶師が住んでいる、と…もっぱらの噂でございます」「何でも、その男は腕は確からしいのですが、作る品はどれも呪われているとかで、関わると不幸に見舞われる、と…街の者たちは皆、気味悪がって近寄らないそうで」「黒い金属や、見たこともない奇妙な石を好んで使う、とも申しておりました」
呪われた品を作る鍛冶師。黒い金属と石。セレスティアナは眉をひそめた。あの日、バルコニーの下で見た黒髪の青年。彼が落とした(と思われる)あのブローチも、確かに聖なるものではなく、むしろ禍々しい、不吉な気配を放っていた。もし、あの青年が、噂の呪物鍛冶師だとしたら…?そして、このブローチを作ったのだとしたら…?
それは、危険な賭けかもしれない。呪われた鍛冶師などという存在に、聖女である自分が接触するなど、本来あってはならないことだ。しかし、他に手がかりはない。このブローチの力を解明し、安定して手に入れることができるなら、それは長年の苦しみからの解放に繋がるかもしれないのだ。
「その鍛冶師の工房の場所を、もっと詳しく調べてちょうだい。そして、その男の人となりについても、できる限り」
セレスティアナは侍女に命じた。彼女の声には、不安を押し殺した、強い決意が籠っていた。直接、その鍛冶師に会いに行ってみるしかない。彼女の中で、その覚悟が固まりつつあった。
◇
一方、その頃、王都の裏路地の薄暗い工房で、タクミは落ち着かない、苛立ちに満ちた日々を送っていた。あの建国記念祭の日以来、妙な胸騒ぎが消えないのだ。まさかとは思うが、あの時、石畳の上に落として放置してきた黒曜石のブローチが、本当に聖女の手に渡ってしまったのではないだろうか?もしそうだとしたら…自分の作った呪物が、あの聖女に、一体どんな影響を与えているというのか?
考えただけで、背筋が凍るような思いだった。呪いが発動して、彼女の身に何か不幸が起きていたら?あるいは、彼女の聖なる力を汚し、蝕んでいたら?そうなれば、原因を作った自分は、間違いなく神殿や王国から追われ、最も重い罰を受けることになるだろう。
「いや、ありえない。考えすぎだ。きっと、誰かが拾って気味悪がって捨てたか、あるいは運良く神殿の誰かが見つけて、浄化されたに違いない」
タクミは必死に自分に言い聞かせ、不吉な想像を頭から追い払おうとした。厄介ごとには、絶対に関わりたくない。聖女のような、自分とは住む世界の違う存在と関われば、ろくなことにならないのは目に見えている。彼は以前にも増して工房の奥深くに引きこもり、できるだけ人目につかないように、息を潜めるようにして過ごしていた。
しかし、どうしても心の隅から離れない光景があった。あのバルコニーで一瞬だけ見た、聖女セレスティアナの表情。苦悶に歪んでいたはずの顔が、何かを見つけた瞬間、ふっと和らいだように見えたのは、本当に気のせいだったのだろうか?
「まさか、俺の呪物が、聖女の力を…抑制した、なんて…?いやいや、そんな馬鹿な話があるはずがない。俺の作るものは、ただの呪いだ。人を不幸にするだけの、忌まわしい代物だ」
彼は自分の突飛な考えを打ち消すように、力任せに金床に置いた鉄塊を槌で打った。カン!カン!カン!いつもよりも荒々しく、不規則なリズムで響く槌音が、彼の混乱し、揺れ動く心を映し出しているかのようだった。
光の世界に住まう聖女と、影の世界に生きる呪物鍛冶師。二人の思いは、互いを朧げながらも意識しつつ、しかし全く異なる方向を向いていた。セレスティアナは、自身の救済の可能性を信じて、危険を承知で影の世界へと足を踏み入れようとしていた。タクミは、過去のトラウマと現在の境遇への絶望から、光の世界とのいかなる関わりをも、必死に避けようとしていた。
それでも、見えない運命の糸は、確実に二人を引き寄せようとしていた。セレスティアナは、侍女が集めてきた情報をもとに、タクミの工房の場所を特定し、夜陰に紛れてそこを訪れるための、具体的な計画を練り始めていた。彼女の胸には、拭いきれない不安と共に、長年の苦しみから解放されるかもしれないという、かつてないほど強い希望の光が灯っていたのだ。
◇
その夜、神殿の自室の窓から、セレスティアナは静かに輝く月を見上げていた。雲一つない夜空に浮かぶ月は、まるで彼女の決意を後押しするかのように、地上を明るく照らしている。
明日、決行しよう。
彼女は決意を固めると、侍女に用意させた、人目を忍ぶための質素だが上質な生地で作られたフード付きのマントを手に取った。顔を隠すための、薄い黒いヴェールも準備した。胸元で、あの黒曜石のブローチが、彼女の心臓の鼓動に合わせて、冷たく、しかし確かな存在感を放っている。まるで、これから始まる未知への旅の、道標となるかのように。
同じ月を、タクミもまた、工房の煤けた窓ガラス越しに見上げていた。彼は先ほど、悪夢にうなされて飛び起きたところだった。聖女が自分の作った呪物によって苦しみ、その咎で自分が神殿の兵士たちに捕らえられ、火刑に処せられる――そんな生々しい夢。額に浮かんだ冷や汗を、彼は汚れた手の甲で乱暴に拭った。
「…くだらない夢だ」
彼は炉に薪をくべ、火力を強めた。パチパチと音を立てて燃え上がる炎の揺らめきが、彼の不安げな心を映し出す。「…早く忘れよう。俺には、関係のないことだ」そう自分に言い聞かせるように呟くが、胸の奥で鳴り続ける警鐘のようなざわめきは、どうしても消えてはくれなかった。
工房の外では、静かな夜の闇が、まるで運命の訪問者を迎え入れる準備をしているかのように、深く、どこまでも深く、広がっていた。