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第3話:運命の欠片、あるいは呪い

王都アステリアが建国されて以来、最大級の祝祭の日が訪れた。建国記念祭。街はその日、まるで別世界のような賑わいと色彩に包まれる。大通りには色とりどりの旗が万国旗のように連なり、建物の窓辺は瑞々しい花々で飾られる。陽気な楽隊の奏でる音楽と、吟遊詩人の物語を語る歌声が、街のあちこちから聞こえてくる。広場には所狭しと露店が立ち並び、香ばしい食べ物の匂いや、子供たちのはしゃぐ声、そして人々の楽しげな笑い声が、祝祭の熱気を否応なく高めていた。


この喧騒の中、タクミは人混みを掻き分けるようにして歩いていた。普段なら工房に引きこもっている彼が、わざわざ外に出てきたのには理由がある。祭りの日は、普段よりも物価が上がり、手持ちの乏しい資金では日々の食料を確保するのも難しくなる。それに、これだけ多くの人間が集まるのだ。普段は日の当たらない裏社会でしか取引できない自作の「呪物」も、祭りの狂騒に紛れれば、物好きな酔狂人や、あるいは悪事を企む者に売りつけられる機会があるかもしれないと考えたのだ。


彼は工房で作り溜めた呪物のいくつか――歪んだ形状の鉄の指輪、奇妙な蛇の文様が彫り込まれたナイフ、そして先日完成したばかりの、鈍い黒光りを放つ黒曜石のブローチ――を、古びた革袋に詰め込み、腰に提げていた。できるだけ目立たないように、フードを目深にかぶり、建物の壁際を選んで歩く。人々の熱気に当てられ、少し気分が悪くなり始めていた。


その時だった。前方から、やけに威圧的な雰囲気の一団が大股で歩いてくるのが見えた。立派な銀の装飾が施された鎧を身に着け、腰には見事な長剣を帯びている。大神殿に仕える、聖女付きの護衛騎士団だ。彼らは何か任務で急いでいるのか、周囲の人々を気にする風もなく、道を塞ぐ者を乱暴に押しのけながら進んでくる。


「どけ、どけ!道を空けろ!」


一人の、特に体格の良い騎士が、杖をついた老人を怒鳴りつけ、肩で突き飛ばした。老人はよろめき、危うく転倒しそうになる。タクミも慌てて避けようとしたが、人波に押されて間に合わなかった。騎士の一人と、強く肩がぶつかる。


「ぐっ…!」

「ちっ、邪魔だ、平民風情が!」


騎士は忌々しげにタクミを睨みつけ、さらに肘で彼の胸を強く突いた。タクミは数歩よろめき、背中を石造りの壁に強く打ち付けた。


「いってぇ…!なんなんだ、あいつら…!」


思わず悪態が口をついて出る。だが、騎士たちは気にも留めず、まるで何もなかったかのように足早にその場を去っていく。彼らが向かう先は、どうやら大神殿が祭りのために借り上げている、貴族の壮麗な館の方向のようだった。


タクミは壁にもたれたまま、痛む背中をさすった。その時、突き飛ばされた衝撃で、腰に提げていた革袋の口が開き、中に入れていた黒曜石のブローチが滑り落ちたのが見えた。カラン、コロコロ…と乾いた音を立てて、ブローチは近くの石畳の上を数回転がった。


「あ…」


タクミはそれを拾おうと、一瞬手を伸ばしかけた。だが、すぐにその手を引っ込めた。


「…どうせ売れそうもない呪物だ。それに、あんな横暴な奴らにぶつかったせいで落ちたなんて、縁起でもない」


彼は舌打ちすると、ブローチをそのまま放置して、さっさとその場を立ち去ることに決めた。騎士たちへの腹立たしさと、自分の無力さ、惨めさが入り混じった不快な感情で、胸の中はむかむかしていた。


しかし、タクミは気づいていなかった。彼が見捨てた黒曜石のブローチが、石畳のわずかな傾斜を転がり続け、ちょうど騎士団が入っていった貴族の館の――正確には、その二階にある豪奢なバルコニーの――真下あたりまで到達していたことを。



そのバルコニーには、まさに今、聖女セレスティアナが、民衆の熱狂的な歓声に応えるために姿を現そうとしていた。純白のドレスは陽光を受けて眩しく輝き、金色の髪には宝石がきらめいている。彼女が穏やかな微笑みを浮かべてバルコニーに進み出ると、下の広場を埋め尽くした人々から、割れんばかりの歓声が沸き起こった。


「聖女様だ!」

「おお、セレスティアナ様!我らに祝福を!」

「聖女様、万歳!」


人々の熱狂的な視線、期待、そして祈り。それらが、まるで目に見えないエネルギーの奔流となって、バルコニー上のセレスティアナへと集中する。普段なら、彼女はそのエネルギーを受け止め、聖なる力へと昇華させることができる。だが、今日は違った。祭りの異常な熱気と、あまりにも多くの人々の感情が渦巻くこの状況が、彼女の内なる聖性を、危険なレベルまで過剰に刺激してしまったのだ。


まずい…!


セレスティアナは内心で叫んだ。急激な目眩と、呼吸困難感。胸が強く締め付けられるように苦しい。体内で荒れ狂う聖力の奔流が、もはや彼女の意思による制御の限界を超え始めている。ここで暴走すれば、この祝祭は一瞬にして地獄絵図と化すだろう。


必死に平静を装い、民衆に向かって優雅に手を振る。だが、その指先は微かに震え、額には脂汗が滲み始めていた。隣に控える侍従長や護衛騎士たちも、彼女の異変に気づき始めている。しかし、大衆の面前で、彼らも迂闊に動くことはできない。セレスティアナは、孤立無援の状態で、迫りくる力の暴走と必死に戦っていた。


視界が霞み、耳鳴りがひどくなる。もう、限界かもしれない――そう思った、その時だった。


バルコニーの手すりのすぐ下、床の大理石の上に、何か黒いものが落ちているのが、霞む視界の端にぼんやりと映った。金属のような鈍い光沢と、中央にはめ込まれた黒い石。それは先ほど、階下で護衛騎士が何かとぶつかった際に、偶然ここまで飛んできたものだろうか?


意識が朦朧とする中、セレスティアナは、ほとんど本能的な衝動に突き動かされるように、ふらつきながら身を屈め、その黒い物体へと手を伸ばした。白いレースの手袋に包まれた指先が、冷たいそれに触れた、瞬間――。


まるで、耳をつんざくような激しい雷鳴が突然止み、世界に完全な静寂が訪れたかのように。あれほど激しく彼女の内で荒れ狂っていた聖力の奔流が、嘘のように急速に凪いでいくのを、セレスティアナははっきりと感じた。


「……え?」


ひんやりとした、硬質な石の感触が、手袋越しにも心地よく手のひらに伝わってくる。先ほどまでの息苦しさや目眩が、まるで幻だったかのように消え去り、深く、楽に呼吸ができるようになった。驚きと、そして何よりも、生まれて初めて感じるような、深い安堵感。


何が起こったのか、すぐには理解できなかった。彼女は、拾い上げた黒いブローチを強く握りしめたまま、呆然と顔を上げた。視線の先、人混みの中に消えていく、見慣れない黒髪の青年の後ろ姿が、一瞬だけ見えたような気がした。あの人が、これを落としたのだろうか…?


疑問は尽きない。だが、今は民衆に応えなければならない。セレスティアナは一度深く呼吸をし、乱れた心を整えた。そして、先ほどまでの苦悶が嘘のように、再び完璧な、穏やかで慈愛に満ちた微笑みを浮かべると、バルコニーから広場の人々に向かって、優雅に手を振り始めた。


「おお!聖女様の微笑みが戻られたぞ!」

「やはり、我々の祈りが通じたのだ!」

「聖女様、素晴らしいお力をありがとうございます!」


民衆は、彼女の回復(彼らにとっては奇跡の顕現)に、再び熱狂的な歓声を上げる。しかし、その歓声を聞きながらも、セレスティアナの心は、今しがた手にしたばかりの小さな「呪物」と、その謎めいた落とし主(かもしれない青年)のことで一杯だった。


彼女はまだ知らない。この小さな黒い石の欠片が、これから彼女自身の運命を、そしてこの世界の在り方をも、大きく変えていくことになるということを。



一方、あの黒髪の青年――タクミは、祭りの喧騒から逃れるように、再び薄暗い裏路地へと戻っていた。結局、呪物は一つも売れずじまい。騎士に突き飛ばされた背中はまだ痛むし、気分は最悪だった。「ついてないにも程がある日だ」彼は空腹を抱え、すっかり冷え切った心で、自分の工房への道を急いでいた。もちろん、自分が落としたあの黒曜石のブローチが、今まさに聖女セレスティアナの手にあり、彼女の窮地を救ったことなど、知る由もなかった。


馬車に乗って神殿へと戻る道すがら、セレスティアナは窓の外の喧騒をぼんやりと眺めていた。そして、ドレスの下に隠し持った黒いブローチを、誰にも気づかれないように、そっと握りしめる。あの時の、嵐が過ぎ去った後のような静けさと安堵感は、まだ手のひらに生々しく残っているようだった。


「あの黒髪の人…そして、この不思議な力を持つブローチ…」


彼女の心に、一つの強い探求心が、確かな輪郭をもって芽生え始めていた。この謎を解き明かさなければならない。それが、長年自分を苦しめてきた、この忌まわしい力の枷から解放されるための、唯一の手がかりなのかもしれないのだから。


光の世界に生きる聖女と、影の世界に生きる呪物鍛冶師。二人の道はまだ遠く離れたままだったが、見えない運命の糸は、この日、この瞬間、確かに結ばれ始めていた。それは、これから始まる、光と影、聖性と呪いが複雑に交錯する、新たな物語の静かな序章だった。

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