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第2話:白亜の牢獄、暁の祈り

朝陽が王都アステリアの街並みを黄金色に染め上げ始めると、その中心に聳え立つ大神殿は、まばゆいばかりの輝きを放ち始める。白亜の大理石で精緻に築き上げられた壮麗な建造物は、この国の信仰と権威の象徴であり、その威容は見る者を圧倒し、敬虔な祈りへと誘う。人々はこの神殿を、神々の住まう天上の宮殿にも等しい聖域として崇めている。しかし、その最も奥深く、陽光が豊かに降り注ぐ美しい一室で目覚めた一人の少女――聖女セレスティアナにとって、この壮麗な神殿は、時として黄金の鳥籠、あるいは白亜の牢獄のようにも感じられるのだった。


「聖女様、おはようございます」


静かに扉が開き、数人の侍女たちが恭しく入室してくる。セレスティアナは寝台から身を起こし、彼女たちの手によって、朝の身支度が始められた。滑らかな純白の絹で幾重にも重ねて織られた豪奢なドレス。梳られた艶やかな金色の髪には、朝露のように輝く真珠と、小さな宝石が丁寧に編み込まれていく。首には、代々の聖女に受け継がれてきた、聖印が刻まれた白金のペンダントがかけられた。


鏡に映し出された自分の姿は、人々が絵画や物語で語り継ぐ「暁の聖女」そのものだった。清らかで、慈愛に満ち、神々の寵愛を受けた存在。しかし、その完璧なまでに整えられた外見の下で、セレスティアナの心は、穏やかさとは程遠い、静かな嵐に常に苛まれていた。


「……今日も、演じなければならないのね」


彼女は小さく、誰にも聞こえないほどの声で呟き、鏡の中の自分に、努めて穏やかな微笑みを向けた。侍女たちが支度完了の礼を取ると、彼女は背筋を伸ばし、朝の祈りの儀式が行われる大祭壇へと、静かに歩みを進めた。


大神殿の内部は、荘厳という言葉が生ぬるく感じられるほどの空間だった。磨き上げられた大理石の床は、彼女の絹の靴音を微かに、しかし厳かに反響させる。高い、高い天井を支えるのは、神話の巨人をも思わせる巨大な円柱の列で、その表面には歴代の聖女の功績や神々の伝説が精緻なレリーフとして刻まれている。壁一面にはめ込まれた巨大なステンドグラスは、差し込む朝陽を七色の光の帯に変え、神殿内に幻想的な光景を描き出していた。空気は常に、清浄な香草が焚かれた香で満たされ、どこか遠くからは、天使の歌声にも似た敬虔な聖歌隊の歌声が微かに響いてくる。


全てが完璧に計算され、調和し、神の威光と聖女の神聖さを示すために作り上げられている。だが、その完璧すぎる美しさと、果てしないかのように感じられる広大さ、そして張り詰めた静寂は、時に人の心を圧迫する。少なくとも、セレスティアナにとってはそうだった。この壮麗な空間は、彼女自身の孤独と、背負わされた重すぎる役割を、ただただ際立たせる巨大な舞台装置のように感じられてならなかった。


大祭壇の前には、既に多くの人々が集まっていた。病にその身を蝕まれた老人、戦場で傷を負った兵士、愛する者を失い悲嘆に暮れる女性、そしてただ心の平穏を求めて祈る市民たち。彼らは皆、聖女の起こす奇跡に一縷の望みを託し、すがるような、熱っぽい眼差しでセレスティアナの登場を待ちわびていた。


セレスティアナは、祭壇の中央に進み出ると、集まった人々に向けて、慈愛に満ちた、完璧な微笑みを浮かべた。そして、静かに、しかし神殿の隅々にまで響き渡るような、清らかな声で祈りの言葉を紡ぎ始めた。彼女の声は、まるで楽器のように美しく調律され、聞く者の心を穏やかに鎮める不思議な力を持っている。やがて、彼女が両手をゆっくりと前方にかざすと、その指先から淡い、温かな金色の光が溢れ出し、波紋のように周囲へと広がっていった。


「おお…!痛みが…和らいでいく…!」

「聖女様、ありがとうございます!この御恩は決して忘れませぬ!」

「ああ、神よ…聖女様…!」


光に触れた人々の間から、驚きと、歓喜と、そして深い感謝の声が次々と上がる。苦痛に歪んでいた顔は安堵に緩み、絶望に沈んでいた瞳には希望の色が戻る。傷口は塞がり、病の苦しみは軽減され、人々の心には温かな光が灯っていく。それはまさに、神の御業としか言いようのない、奇跡の光景だった。


しかし、その輝かしい奇跡の裏側で、セレスティアナの内面では、常に激しいせめぎ合いが起こっていた。彼女の内に宿る聖なる力――聖性ホーリネスは、歴代の聖女の中でも類を見ないほど強大だった。それは祝福であると同時に、彼女の意思を超えて奔流となり、制御することが極めて困難な、荒ぶるエネルギーでもあったのだ。祈りによって力を解放すれば、一時的に内なる圧力が軽減され楽になる。だが、それは同時に、自身の魂そのものを削り取るかのような、激しい消耗を伴う行為でもあった。


そして何より恐ろしいのは、力の暴走への恐怖だった。もし、この場で、人々の眼前で、この聖性が制御不能な濁流となって溢れ出してしまったら…?癒しをもたらすはずの光が、破壊の奔流へと変わってしまったら…?その想像は、彼女の背筋を凍らせる。彼女は、常に薄氷を踏むような緊張感の中で、奇跡を演じ続けなければならなかった。


祈りの儀式が終わり、侍従たちに囲まれながら自室へと戻るセレスティアナ。人々の前から姿を消した瞬間、彼女の顔からは穏やかな微笑みが消え去り、深い疲労の色が浮かび上がった。足取りは重く、まるで全身に鉛が詰められているかのようだ。ふと、手にしていた聖杖に目をやる。それは、神聖な力を宿すという世界樹の枝と、最高純度の魔力を帯びた月光石で作られた、特別な聖具のはずだった。だが、その滑らかな杖の表面に、髪の毛ほどの細さだが、確かな亀裂が入っているのを、彼女は見つけてしまった。


「また…」


セレスティアナは小さく、諦めたように呟き、そっと目を伏せた。彼女の強大すぎる聖性は、通常の、いや、いかに特別な聖具であっても、完全には受け止めきれないのだ。壊れた聖具は、まるで彼女自身の力の異常さと、それを御しきれない自身の不完全さを突きつける、痛々しい証のようだった。


「聖女様、ご無理なさらないでくださいませ。代わりの聖杖は、すぐにご用意いたしますので」


背後から、侍従長の老婆が、心配そうな、しかしどこか事務的な、聞き慣れた口調で声をかけた。その言葉に、セレスティアナは感謝しつつも、心の奥底で冷たい壁のようなものを感じる。心配してくれているのは分かる。だが、彼女たちは、この力の本当の恐ろしさを知らない。壊れた聖杖を交換すれば済む問題ではないのだ。誰も、本当の意味で自分を理解してはくれない。この制御不能な力への恐怖も、聖女という仮面の下にある孤独も、完璧を演じ続けることへの疲弊も。人々はただ「暁の聖女」という役割と、彼女がもたらす奇跡だけを求め、その重圧に押し潰されそうになっている、か弱い一人の少女の存在には、誰も気づいてはくれないのだ。


広々とした自室は、王侯貴族の居室にも劣らないほど、最高級の調度品で美しく飾られている。だが、彼女にとってはただ空虚で、冷たい空間にしか感じられなかった。大きな窓の外には、手入れの行き届いた美しい庭園が広がり、その向こうには活気あふれる王都の街並みが見渡せる。だが、それはまるで手の届かない、遠い世界の風景のように感じられた。自分は、この美しい牢獄から、いつか出られる日が来るのだろうか?


「私は、いつまで…この白亜の牢獄にいなければならないの…?」


セレスティアナの聖性は、なぜこれほどまでに強大で、制御が難しいのか。その秘密は、神殿の最も古い古文書の中に、曖昧な記述として残されているのみだった。それは、はるか古の時代に結ばれた何らかの契約と、彼女の持つ特別な血筋、そして彼女が生まれた時に起こったという、千年周期の稀有な星々の配置に関係するという。祝福であるはずのその力は、しかし同時に、一歩間違えば世界を揺るがしかねないほどの危険な力でもあったのだ。彼女は常に力の均衡を保つために神経をすり減らし、完璧な聖女を演じ続ける毎日を送っていた。


誰にも知られず、彼女は密かに、自身の力の根源と、それを制御する方法について調べていた。夜、侍従たちが寝静まった後、神殿の奥深くにある禁書庫に忍び込み、埃をかぶった古代の言語で書かれた文献を紐解く。しかし、答えは容易には見つからない。むしろ、知れば知るほど、自分の力が常軌を逸した、異質で危険なものであることを思い知らされるばかりだった。希望よりも、絶望が深まる日々。



その夜も、セレスティアナは自室のバルコニーに出て、煌々と輝く満月を見上げていた。銀色の月光が、彼女の純白のドレスと、風に揺れる金色の髪を柔らかく照らし出し、まるで物語の中に登場する月の女神のように、神秘的で儚げな美しさを醸し出している。しかし、その美しい横顔には深い憂いの色が浮かび、大きな瞳は、どこか遠くを見つめているかのようだった。


「この苦しみから、本当に解放される日は来るのだろうか…」


彼女は胸元で、白金の聖印のペンダントを、祈るように強く握りしめた。それは聖女としての誇りの証であり、同時に彼女をこの場所に縛り付ける、重い枷でもあった。


彼女はまだ知らない。すぐ近く、同じ王都の片隅で、自分と同じように、与えられた異質な力と、深い孤独に苦悩している一人の青年がいることを。そして、その青年の生み出す、忌まわしいとされる「呪い」こそが、皮肉にも彼女の長年の苦しみを終わらせる、唯一の「救い」となる可能性を秘めていることを。


ただ、静かに輝く月だけが、王都に生きる二つの孤独な魂を、分け隔てなく、その優しい光で照らし続けていた。

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