第1話:煤けた街の異邦人
意識が、深く冷たい水の底からゆっくりと浮上してくるような感覚があった。瞼の裏で、ちらちらと頼りない光が明滅している。最初に感じたのは、後頭部に纏わりつく鈍い痛みと、鼻腔を突く埃っぽい、金属が錆びたような匂い。そして、背中から伝わる石畳のような硬質で冷たい感触。全身が鉛のように重く、まるで他人の体のように自由が利かない。
「……ここ、は…?」
掠れた声が、自分の喉から出たものとは思えないほど弱々しく、乾いた空気に溶けた。ゆっくりと瞼を押し上げる。視界に飛び込んできたのは、煤けて黒ずんだ木材が梁のように渡された、見慣れない石造りの天井だった。薄暗い。窓があるのかないのか、外の光はほとんど届いていないようだった。
どこだ、ここは。俺は、何をしていた?
混濁した思考を必死に手繰り寄せる。最後に覚えているのは……そうだ。夜の横断歩道。けたたましく鳴り響いた大型トラックのクラクション。眩いヘッドライトの光が視界を白く染め上げ、そして、全身を打ち砕くような、凄まじい衝撃――。
「……死んだ、のか…俺は…」
呟きは、確信に変わっていく。あの状況で助かるはずがない。なら、ここは死後の世界か?あるいは、ただの夢か?混乱する思考の最中、不意に、どこからともなく声が響いた。感情の起伏を一切感じさせない、平坦で、無機質な声。
「――目が覚めましたか、相馬巧」
びくり、と体が強張る。見回しても誰もいない。声はまるで、頭の中に直接語りかけてくるかのようだ。
「あなたは先ほど、元の世界で死亡が確認されました。享年28。幸運にも、魂の損傷は軽微。よって、厳正なる選定の結果、新たな世界で第二の生を歩む機会が与えられることとなりました」
死んだ。やはりそうなのか。そして、転生?出来の悪い三文小説のような展開に、巧は眩暈を覚えた。冗談じゃない。信じられるわけがない。しかし、声はそんな彼の混乱など意にも介さず、淡々と続けた。
「新たな世界『アステリア』での生活を円滑に開始できるよう、あなたには一つの特別なスキルを付与します。あなたの魂の根源的な適性に基づき選ばれたのは――【呪物創成】です」
じゅぶつ、そうせい…?その不吉な響きに、巧は眉をひそめた。声は、彼の疑問を待たずに説明を加える。
「所有者に不運や災厄をもたらす物品…すなわち『呪物』を作り出す能力。あなたの前世における『創造』への強い渇望と、叶えられなかった夢への執着が、この世界で歪んだ形で顕現した結果と言えるでしょう。活動に必要な最低限の資金と住居は、こちらで用意しました。あとは、そのスキルを有効に活用し、自力で生きていくのです。では、健闘を祈ります」
待て、どういう意味だ!呪物を作る能力だと?俺が望んだのはそんなものじゃない!人の役に立ち、人を喜ばせる、美しいものを創りたかったんだ!前世で工業デザイナーになる夢に破れ、平凡な会社員として無気力な日々を送り、挙句の果てに事故死。そして与えられたのが、人を不幸にする呪いを生み出す能力だと?これは、何の罰だ?悪質な嫌がらせか?
「ふざけるな…!ふざけるなぁっ!」
叫びは声にならなかった。声帯が震えるだけで、意味のある音は紡げない。やり場のない怒りと絶望が胸の内で渦巻き、彼は力なく石の床に拳を打ち付けた。ゴツリ、という鈍い音と、骨に響く硬質な痛み。その確かな感触だけが、これが夢ではない、冷徹な現実であることを突きつけてくる。これが、俺の第二の人生だというのか。呪われた、創造者としての。
◇
それから、どれほどの時が流れただろうか。体感では数ヶ月、あるいはもっと経っているのかもしれない。巧――今はタクミと名乗り、髪も少し伸ばして異世界人らしい風貌を装っている――は、声が言った通り用意された住居兼工房に引きこもるように暮らしていた。
そこは、王都アステリアの、太陽の光すら満足に届かないような、迷宮のように入り組んだ裏路地に立つ、古びた石造りの二階建ての建物だった。一階が工房で、二階が粗末な居住スペース。女神(あるいは悪魔か)が与えたというわずかな初期資金は、日々の食費と、工房を稼働させるための石炭や最低限の材料費であっという間に底をつきかけた。生きるためには、働くしかない。そして、タクミに与えられた唯一のスキルは、あの忌まわしい【呪物創成】だけだった。
工房の中は、タクミの心象風景をそのまま映し出したかのように、薄暗く、乱雑だった。ひび割れた石壁には、錆びついた用途不明の奇妙な工具がいくつも無造作に掛けられている。床には鉄屑や石炭の燃え滓が散らばり、隅には埃をかぶった木箱や樽が積み上げられていた。空気は常に埃っぽく、鉄と石炭、そして油の焼けるような匂いが混じり合い、壁や天井に深く染み付いている。
この荒廃した空間の中で、唯一、異様な存在感を放っているのが、中央に鎮座する古びた煉瓦造りの炉と、その隣に置かれた巨大な金床だった。これだけはタクミが念入りに手入れし、彼の「仕事」のために、ほぼ常に炉には赤い火が熾され、鈍い熱気を放っている。
カン、コン、カン……。
今日もまた、工房には単調な槌音が響き渡る。まるで、孤独な男の心臓の鼓動のように、規則的で、しかしどこか物悲しいリズムを刻んでいた。
炉の前で、タクミは上半身裸になり、汗を滲ませながら一心不乱に槌を振るっていた。革のエプロンだけが、飛び散る火花から身を守っている。炉の中で真っ赤に熱せられた鉄塊を、太い火箸で巧みに掴み出し、金床の上に乗せる。狙いを定め、重い鉄槌を振り下ろす。カン!甲高い金属音が響き、火花が勢いよく飛び散る。熱された鉄は、まるで粘土のように形を変えていく。
タクミが形作っているのは、一振りの短剣だった。前世で培ったデザインの知識と美的感覚が、無意識のうちに彼の腕を導く。機能性を追求した無駄のないフォルム、握りやすさを考慮した柄の曲線、全体のバランス。彼の脳裏には、本来であれば人を魅了するであろう、美しい短剣の姿があった。
だが、完成が近づくにつれて、タクミの表情は苦渋に歪んでいく。彼の意思とは関係なく、スキル【呪物創成】が強制的に発動し、鍛え上げられた鋼に禍々しいオーラが纏わりつき始めるのだ。まるで、美しい旋律に不協和音が混じるように、彼の創造物に「呪い」という名の不純物が染み込んでいく。
やがて槌音が止み、タクミは完成した短剣を冷却水に浸した。ジュッという音と共に白い水蒸気が立ち昇る。水から引き上げられた短剣は、しかし、彼が思い描いていたものとは似ても似つかない、異様な代物へと変貌していた。
刀身は、まるで夜の闇をそのまま固めたような、黒曜石のような冷たく鈍い光を放っていた。研ぎ澄まされているはずの刃は、光を吸い込むかのようで、鋭さよりも不気味さが際立つ。よく見ると、刀身の表面には、まるで血管が浮き出たかのような、あるいは古代の呪詛文字のような、奇妙な文様が薄っすらと浮かび上がっている。黒檀で作られた柄は手に吸い付くような形状をしているが、握ると指先から生命力が吸い取られるような、嫌な冷たさが伝わってきた。それは紛れもなく、所有者に不幸や破滅をもたらすであろう「呪物」だった。
「……また、これか」
タクミは吐き捨てるように呟き、完成したばかりの呪いの短剣を、工房の床に無造作に放り投げた。カラン、と乾いた虚しい音が響く。床には、同じようにして打ち捨てられた失敗作――あるいは呪物としては成功作――がいくつも転がっていた。
デザイナーになりたかった。人々の生活を豊かに彩る、機能的で美しいものを創りたかった。前世でその夢を諦めた無念さは、今も彼の胸の奥で燻り続けている。なのに、今、この異世界で自分の手から生まれるのは、人を傷つけ、不幸にする呪われた道具ばかり。このスキルは、まるで前世の夢への、神による悪質な当てつけ、あるいは冒涜のように感じられた。
自己嫌悪が、胃液のように込み上げてくる。しかし同時に、モノを創り出すという行為そのものへの、抗いがたい渇望もまた、彼の中に存在していた。炉の火を見つめ、鉄を打ち、形を与えていく。そのプロセスは、苦痛であると同時に、彼の存在をかろうじて繋ぎ止めている唯一の行為でもあったのだ。この矛盾した感情の狭間で、彼の心は常に引き裂かれそうだった。
「こんなもの、誰が欲しがる?ただの鉄屑以下だ…いや、存在しない方がよほど世のため人のためになる代物だ」
それでも、彼は作らなければならなかった。生きるために。作り上げた呪物は、人目を忍んで裏通りの屑鉄屋に持ち込むか、あるいは物好きな闇市場の商人や、悪事を企むゴロツキに、足元を見られて二束三文で買い叩かれる。そうして得たわずかな銅貨で、最低限の黒パンと干し肉、そして次の呪物を生み出すための石炭と鉄屑を買う。終わりのない、呪われた円環。それが、異世界アステリアにおける、タクミの日常だった。
◇
時折、タクミは工房の煤けた窓ガラスから、外の様子を漫然と眺めることがあった。行き交う人々の服装は、革や麻で作られた、中世ヨーロッパを思わせる素朴なものが多いが、中には見たこともない光沢のある生地や、奇妙な意匠が施された装飾品を身に着けている者もいる。言葉も違う。時折聞こえてくる会話の断片は、彼には理解できない異国の響きを持っていた。ここは間違いなく、彼の知る世界ではないのだと、改めて思い知らされる。
裏路地では、薄汚れた身なりの子供たちが、奇妙な節回しの土着の歌を歌いながら駆け回り、共同の井戸端では、女たちが洗濯物を叩きつけながら、大声で噂話に花を咲かせている。最近、彼女たちの会話で頻繁に耳にするのは、この王都の特別な存在――「暁の聖女」セレスティアナに関する話題だった。
「聞いたかい?聖女様の祈りで、長年寝たきりだった隣村の爺さんが、すっかり元気になったんだってよ!」
「まあ、本当かい!さすがは聖女様だねぇ…」
「先日のお祭りで、聖女様の御姿を遠くから拝見したんだけどさ、本当に光り輝いておられたよ…まるで、天から降りてきた女神様みたいだったわ」
「ああ、あの方こそ、この王都の、いや、この世界の希望の光だ。あの方がいらっしゃる限り、アステリアは安泰だよ」
聖女。光。希望。タクミにとって、それはあまりにも眩しく、そして縁遠い世界の言葉だった。彼の工房に差し込むのは、建物の隙間から漏れる、頼りない薄明かりだけ。彼の手から生まれるのは、忌まわしい闇を纏った呪物ばかり。「光…か。俺とは、何もかもが真逆だな」自嘲気味な、乾いた笑いが漏れる。聖女の存在は、彼の孤独と、どうしようもない自身の境遇の惨めさを、ただただ際立たせるだけだった。
◇
夕暮れ時、西の空が燃えるような茜色に染まる頃、タクミは昼間に作り上げた呪いの短剣を、汚れた厚手の布に丁寧に包み、革袋に仕舞い込んだ。これをどこかの好事家に売りつけなければ、明日のパンを買う金もない。重い腰を上げ、古びた木の扉を開けて、工房の外に出る。ひんやりとした夕暮れの空気が、火照った肌に心地よかった。
人通りの少ない裏路地を選んで、彼は足早に歩き始めた。目指すは、ならず者や怪しげな商人が集まるという、街のさらに奥まった一角だ。ふと顔を上げると、建物の隙間から、遠くに聳え立つ巨大な白い建造物の一部が見えた。複雑な尖塔を持ち、夕陽を受けて淡いピンク色に染まっている。あれが、噂に聞く大神殿だろうか。あの場所に、人々が希望の光と崇める「暁の聖女」がいるのだろうか。
自分とは決して交わることのない、光の世界の住人。
黄昏の美しい空の下で、タクミの心は鉛のように重く沈んでいた。明日もまた、この忌まわしいスキルで呪物を生み出し、それを売って糊口をしのぐのだろう。そんな絶望的な未来しか、彼には見えなかった。
しかし、彼はまだ知らない。その呪われた創造の力が、皮肉にも、あの光の世界に住まう聖女にとって、唯一無二の救いとなる可能性を秘めていることを。そして、光と影のように対照的な二つの孤独な魂が、間もなく、まるで引き寄せられるかのように出会う運命にあることを。
工房に残してきた炉の残り火が、まるで彼の知らない未来を暗示するかのように、迫り来る夜の闇の中で、静かに、しかし確かに揺らめいていた。