ネションベこぞうとおばあちゃんのハルジオン
ツトムくんはトイレに行きたくてベッドを出た。
でもいつもの場所にトイレがないんだ。
長い廊下が奥の方にずうっと続いていて、でもトイレはない。
ツトムくんはわかっちゃった。これは夢の中だ。
夢の中でオシッコしたくなると、トイレになかなかたどりつけないよね。
君もそうじゃない?
「ふふん、ボクはいつまでもネションベこぞうじゃないよ」
『ネションベこぞう』はついこの間死んだおばあちゃんがツトムくんを茶化して呼ぶときの言い方だ。
大好きなおばあちゃんとはいえ、ひどい呼び方もあったもんだ。
さて、これは11月、縁側での一場面だ。
「ツトム、元気ねえなあ。どうした」
庭いじりを終えたおばあちゃんが手を拭きながら隣に座った。
秋も終わりだけど陽射しはポカポカ暖かい。
おばあちゃんもいっつも日向の匂いがする人だった。
ところがツトムくんの胸はブルーなんだな。
「ミヨちゃんが転校するんだって」
ミヨちゃんは幼稚園で最初に仲良くなって、それから6年間ずっと同じクラスで帰り道も一緒だ。
ツトムくんはミヨちゃんのニコニコ笑顔やふたつに結んだ髪の毛が揺れるとこが大好きで、手をつないだときのあったかい感じも大好きさ。
そのミヨちゃんがお父さんの転勤で4月に隣の大きな街に引っ越しをすることになった。
「そっかあ。それはつれえな。ツトムはミヨぢゃんに恋してっからな。ムフフ」
おばあちゃんがそんなこと言うんで、ツトムくんはふくれちゃった。
「違うよ。ただの友達だよ」
ホントは内心『しょうらいはお嫁さんにしよう』って思っていたんだけど。
君もそうだろうけど、そんなの小学生は口にはできないよね、フツー。
「このちくらっぽが」
おばあちゃんはツトムくんのほっぺたを優しくつついた。
それからふふんと腕まくりをして庭の花を見、ハルジオンの話をしてくれたんだ。
おばあちゃんが体調を崩して入院したのは1週間後のことだった。
…ツトムくんはおばあちゃんのことを思い出すと悲しくなる。死んじゃったから寂しいというのはもちろんあるけれど、もっと別の心残りがあるんだ。
でも今はそれどころじゃない。わかるよね。オシッコが漏れそうだ。
「うーん、起きてトイレに行かないとホントにネションベこぞうになっちゃう」
ツトムくんはひとりごとを言って、目をさまそうと手足をバタバタさせた。
「ほら眼がさめた」
ベッドから出たツトムくんはホッとしてトイレのドアを開ける。
「あれれ」
トイレのドアだと思ったのに、これはおばあちゃんの部屋にある仏壇の扉だ。
ギギイッと音を立てて仏壇の扉が開いた。
ツトムくんの友達は仏壇とかお墓とかお寺があんまり好きじゃないみたいだけど、君はどう?
ツトムくんは嫌いじゃない…っていうかどっちかっていうと好きな方だ。
お線香の香りっていいよなとか思ってる。変わってるよね。
ツトムくんはいつの間にかおばあちゃんのお葬式でお線香をあげていた。
どうやっていいのかわからないから、パパが横で手伝ってくれてる。
おばあちゃんが優しい顔で眠っている。違った…眠っているように見えたんだ。
「おばあちゃん、おばあちゃん。もう一度、一緒にあやとりやりたかったな」
ツトムくんがそう呟くと、おばあちゃんはパッチリ眼を開けた。
「わっ」
さすがの(仏壇好きの)ツトムくんも驚いた。
いつの間にかツトムくんとおばあちゃんはあの日当たりのいい縁側であやとりをしていた。
春の庭にはおばあちゃんが育てた花がたくさん咲いている。
金木犀が庭にちょうどいい木漏れ日の模様を作ってた。
「はい、はしご」
こうとって、こうすれば。
「東京タワーだ」
不格好なタワーの形にツトムくんとおばあちゃんが顔を見合わせて笑う。
お隣さんの庭との境にある小さな花の群れがおばあちゃんのお気に入りだった。
真ん中の黄色いところから細くて白い花びらが何本も出ている。
可愛くて優しくて、恥ずかしがりなミヨちゃんみたいな花。
それがハルジオンという花だ。
「おばあちゃん、ボクはおばあちゃんに謝りたいことがあるんだ」
ツトムくんはあやとりをいったんやめて、思いきって言ってみた。
おばあちゃんは何のことかな?って顔でツトムの顔をのぞきこんでニッコリ笑った。
「ツトムは優しい子だがらいろいろ気にするなあ」
「あのね、お見舞いに行かなかった日があるでしょ」
ツトムくんは言いかけたけれど、おばあちゃんは自分のしわしわ口に人差し指を当てた。
「わがってるって。あの日はミヨぢゃんの引っ越しの日だっぺ」
それからツトムくんのほっぺたをそっと人差し指でつついたんだ
「ミヨぢゃんはどうしてもツトムに見送りに来てほしいって言ったじゃねえが。ツトムは男前だな」
ツトムくんはちょっとホッとしたけれど、やっぱり気が晴れなかった。
「でもあれが最後のお見舞いになるなんてボクは思わなかったんだ。ごめんね、おばあちゃん」
ツトムくんの目から涙が三粒、四粒、おばあちゃんの膝に落ちた。
おばあちゃんは困った顔になって、しわしわ両手でツトムくんのほっぺたを包んだ。
「そーたごどは何でもねえよ。…それよりなあ」
それから細い眼を少しだけ開いて言ったんだ。
「ツトム、お布団入る前にちゃんとオシッコ行げって言ったべ」
おばあちゃん何で急にオシッコの話…
ツトムくんはハッとした。
そういえばおばあちゃんはもういないよ。これは夢だ。まだボクは夢の中なんだ。
「ネションベこぞうだがらな。ツトムは」
おばあちゃんは笑って、庭の物干しにあるお布団を指さした。
ツトムくんのお布団には出来損ないの世界地図みたいなシミができている。
ツトムくんは思わず顔を赤くした。
「オネショは小学校に入ってからはしてないよ」
それから小さい声で付け足す。
「…二回しか」
そうだった。早くトイレに行かないとホントにネションベこぞうになっちゃう。
「おばあちゃん、また会える?」
「いづでもばあちゃはツトムのそばにいるよ。な、ツトム」
縁側でニコニコと微笑むおばあちゃんの眼が一本の線くらいに細くなった。
あやとりしていたおばあちゃんの手を見ながらツトムくんは立ち上がる。
ツトムくんはあのしわしわの温かい手が大好きだったんだ。
…トイレに行かなくちゃ。
ツトムくんはベッドの中で眼を醒ました。
「よかった。もうピンチだったんだ。トイレに行こう」
春になっても、暖かい布団の中から出るのはひと苦労だ。
夢の中でだけど大好きだったおばあちゃんに会えた。
気になっていたことを謝ることもできた。
…でも夢の中だもんなあ。
ほんのしばらく布団の中で芋虫のように丸まってから、モゾモゾとツトムくんは起き上がる。
「ヤバいかもしれない。いそごう。もらしちゃう」
そう思ったらツトムくんはトイレの中で座っていた。
「間にあってよかったな」
ホッとしたけどなかなかオシッコが出ない。何だか出せない。
「アレ…何かおかしいな。さっきボクはどうやってベッドから出たっけ」
そうか、お布団の中でウトウトして、また眠っちゃったんだな。
あのさ、夢の中でのオシッコって簡単には出せないって思わない?
危ないところだった。これも夢だ。ふふん、だまされるもんか。
ツトムくんは夢の中でドヤ顔だ。ツトムくん、誰もだまそうなんてしてないぞ。
急にクラクションが鳴った。危ない。はずみでもらすところだった。
「見送りに来てくれてありがとう」
ミヨちゃんが言った。ああ、ミヨちゃんの引っ越しの日だったんだ。
ミヨちゃんはデニムのオーバーオールとピンク色の長袖シャツ、両方の耳の横で結んだ髪の毛がいつものように揺れている。
いつもと違うのは泣きそうなその顔だ。ツトムくんをじっと見つめてる。
ツトムくんは庭のハルジオンを束にして持っていた。
青いトラックの横でミヨちゃんとお別れの握手をする。
ミヨちゃんの手のひらは少しだけ汗ばんでて、やっぱり温かかった。
ツトムくんはその手を離すのがつらくて泣きたくなったさ。
でも無理に笑顔を作りながら、持ってきた花束をミヨちゃんに渡す。
「ボクのおばあちゃんが庭の隅っこで育ててたハルジオンていう花だよ」
ツトムくんはすごく恥ずかしくて迷ったけど、(おばあちゃんに教えられたとおり)思い切って付け加えた。
「おばあちゃんが花言葉っていうのを教えてくれたんだ」
ミヨちゃんは眼を潤ませてハルジオンの花束を受け取った。
「…花言葉?」
「『ずっとずっと大好き』っていうんだって」
ツトムくんは真っ赤だ。
ずっと笑い顔を作っていようと頑張っていたけど、涙がポロリとこぼれた。
我慢しようとしていても、大事なとこで涙がこぼれちゃうのがツトムくんだ。
みんなそうだよ。全然恥ずかしくないよ、ツトムくん。
「ツトムくん…。私も大好き」
ハルジオンを手に、ミヨちゃんがもっともっと大粒の涙をポロポロ流した。
ツトムくんにはその涙の一粒一粒が宝石みたいに思えた。
「ツトムやあ、いいどごろだげど大丈夫がい?」
またおばあちゃんの声が聞こえて、オシッコを我慢していることを思い出した。
せっかくのいいムードが台無しだよね。
ツトムくんはビックリしておばあちゃんに文句を言った。
「おばあちゃん、いくら夢の中でもカッコ悪いよ。ミヨちゃんの前だよ」
「そりゃ悪がったな。でも漏らすなや」
そう言っている間にトラックが出発し、ミヨちゃんの声が遠ざかる。
「ツトムくん、素敵な花をありがとう。また会えるよね」
「ミヨちゃん!」
青いトラックは夕焼けの空へ昇っていく。
ツトムくんはいつまでも見送って…いる場合じゃなかった!
涙とオシッコはだいたい同じ成分だってパパが言って、ママに『汚いこと言わないでよ』って怒られていたのを思い出した。
パパはツトムくんの方を見て、ペロリと舌を出してたね。
翌朝、ツトムくんは本当の本当に失敗ギリギリでトイレに駆け込んでセーフだった。
いやはや、よかったね、ツトムくん。
でもママは朝食のテーブルでおかんむりだ。
「寝る前にトイレに行きなさいって言ったでしょう」
間に合ったんだからいいじゃんとは思うけどね。
ツトムくんも反省はしているんだ。
「夕べおばあちゃんにも言われたよ…」
ママが眼を瞬かせた。
「夕べ?」
「うん。夢の中でママと同じこと言ってた」
ママは思わず吹きだした。
「そうかあ。おばあちゃんはツトムのことがずっとずっと大好きなのね」
(『ずっとずっと大好き』って…)
ツトムくんには伝わったのかな?
花言葉はおばあちゃんからのメッセージでもあったんだ。
おばあちゃん、ママ、ミヨちゃん、それからパパも…ツトムくんの周りは『大好き』であふれてる。
きっと君だってそうなんだよ。
庭の片隅のハルジオンをちらりと見てからママがツトムくんのほっぺたを両手で包む。
「そう言えば…」
もう一度ママはハルジオンとツトムくんを交互に見つめる。
「最後のお見舞いの日におばあちゃん、薄く眼を開けて言ったわ。『ツトムはうまぐやったがな?』って」
「…おばあちゃんが?」
「男前のツトムは彼女にいいところ見せられたの?」
ママがいたずらっぽく笑ったのでツトムくんはちょっとむくれた。
「彼女じゃないよ。ただの、ただの……大切な友達!」
ママは優しくツトムくんのほっぺたをつついた。
「フフフ、このちくらっぽ」
読んでいただきありがとうございました。
童話は昨年に引き続き2回目の挑戦です。ばあちゃんが物語に出てくると書きながら泣けてきます。
なぜかはよくわかりません。