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愛らしさとは何か? 〜恐怖と親和の哲学〜

作者: 今津 晃

 私は、14歳のころ、重度の強迫性障害をわずらい、精神衛生法改正前の、京大病院の隔離病棟に入院し、

中学校の卒業式も出られませんでした。

そのため、中卒浪人も経験し、人生につまづきましたが、捨てる神あれば拾う神ありで、18歳のころ、

三木 清の人生論ノートに偶然出会い、哲学に目覚めました。

私は、思春期に、重度の精神疾患をわずらった経験と、人生論ノートを熟読したことなどの影響により、気がつけば、相手の感情の動向を、手に取るように理解する能力を、備えるようになっていました。

ある日、笑いや愛らしいと思う感情について、思慮していたところ、実は、すべて恐怖心によって裏打ちされているということを、天から降りてくるように、思い付いたのです。

真理の発見でした。

これを世の中に広めない手はないと思い、執筆しました。

「真理は単純で率直である。しかるにその裏は千の相貌を具えている。」と三木 清は言いました。

私は、この論文の千の相貌の深い理解、多角的理解を切に願います。

   (あらすじ)

  愛らしさ、という感情とは何か?

  その周辺に位置する、感情の解説も交えつつ、

  実存哲学を用いて、その実像に迫ります。



           「喜び」

 まず、愛らしさうんぬんを論ずる前に、愛らしいと感じる感情の、周辺に位置する感情のことを、先に述べなくてはなりません。

人は、そこにある対象物を愛らしいと捉えるとき、微笑ましいと思っている、実際に微笑んでいることが多いと思います。

ということは、愛らしいと感じるときには、喜びや、はたまた笑いに似た感情を、喚起させると考えていいと思います。

ですので、愛らしさという感情を理解しようと思えば、喜びや笑いの感情が、いかにして生じるのかを、理解しなければならないのではないでしょうか?

 では早速、喜びとはどういう感情でしょうか?

どういった状況で、生じる感情でしょうか?

まず、喜びとはまさに、欲望達成時の感情であると言えますよねぇ。

言いかえれば、喜びの感情とは、まるでその主体が欲求を解消させたことを示し合わせるように、表現されるものだと言えます。

そこで前述の通り、愛らしいと感じたとき、怒り出す人なんていませんよねぇ。

人は愛らしいと感じたとき、ご満悦だと思います。

満悦とは?、欲求を解消させたときに生じるものですよねぇ。

ですので、愛らしさを感じるということは、喜びでもあるのです。

言いかえれば、愛らしさの感情は、喜びの範疇に含まれると言っていいと思います。

 では、笑いについてはいかがでしょうか?

人は愛らしいと感じたとき、笑うでしょうか?

うーん、笑うときもありますが、少しニュアンスが違うと言うのが適当ではないでしょうか?

次の章では、笑いの仕組みや実体について、じっくりと考察してみたいと思います。


           「笑い」

 「ドッキリ○メラ」という、芸能人や素人を、手の込んだ手法でダマす番組が、過去にありました。

その番組の中で、コメディアンがヤクザの組事務所に行って、コメディーを披露する、というものがありました。

内容は割愛しますが、ヤクザに脅されたコメディアンが、実は脅しているのは本物のヤクザではなくて、偽物の役者であると知ったとき、今まで、おえつを繰り返しながら、自らの過ぎたる行いを反省し、否定していたのにもかかわらず、

ほっと胸をなでおろし、安心し、にわかに笑い出したのを、ずいぶん前にテレビで目撃しました。

その笑いには、今まで完全に役者にだまされていたという、自分の真剣な行いに対する「照れ笑い」などとは違う、真の安心の笑いが含まれていたように、私は感じました。

「真の笑い」のことを追求しようとするとき、私はこの事柄をふと思い出します。

 そう、人はなぜ笑うのでしょうか?

桂 ○雀さんの、緊張と緩和が昨今の定説ですが…。

この命題を、哲学的に考察する。

物事の存在している意義を追求し、考察するという意味の「存在論的」に説明すると、笑いとは「恐怖心の襲来からの、脱出時に生じる感情。」であるというのが、私が到達した結論であり、すなわち「真理」であるのではないか?と、

信じて疑わない訳であります。

まさに、恐怖心をあおる状態から脱却し、安定到達時の合図として、表情に表される、表現されるものだと考えています。

この事柄を、様々な視点で具体的な例を使って、まず明らかにしてみようと思います。

 派手なメイクや、奇抜な衣装、はたまた奇怪な言動でおなじみの(?)「吉○新喜劇」というものがありますが、喜劇役者がしゃかりきになって、観客を笑いに導引しようと表現することには、いったいどんな意味合いがあるのでしょうか?

それは実は、存在論的(意義の追求)には、先程述べたように「恐怖心をあおる行為」であろうと、私は思うのです。

喜劇役者の奇抜な表現が、恐怖に値するとは果たして、どういうことなのでしょうか?

しかしそれは、舞台上で行われている、演技表現であるという前提を、観客はすでに承知している訳ですから、真に恐怖しないで笑うことが出来ると、私は考えます。

でも、まだ笑ってるだけで、恐怖なんて感じていないよ。

と思われる方には、こんな例えはいかがでしょうか?

もし、あなたが街なかで、変な風貌、格好をして、訳の分からないことを言いながら、不特定な人に対して、ステッキを振りかざす、おじいさんを目撃したとしたら、面白いと感じて笑うことが出来るでしょうか?

そう、ハザ○ カン○イさんの、大人気なキャラクターのおじいさんですが、このおじいさんが実際にいるとして、街なかで出会ったとしたら、あなたはどう思うでしょうか?

まぁ、たとえ面白いと感じたと仮定しても、今度はあなたの頭上に、おじいさんのステッキが振りかざされたとしたら、あなたはまだ、平然と笑っていられるでしょうか?

 話は変わりますが、私は「四条河原町」という、京都で一番の繁華街とされる交差点付近で、衝撃の体験を、ずいぶん前にしました。

何と、緑のボディコンシャスのレディース服を着た、立派なヒゲをたくわえた、オジサンに出くわしたのです。

その時私は、あまりの衝撃の遭遇に、一切笑うことなど出来ませんでした。

逆に、あ然と凝視する私を見て、何食わぬ顔をして歩いていたオジサンの方が、ニヤリとしました。

この事柄が実は、テレビの収録であったと、あるいは何かの罰ゲームであったと私が知ったならば、私は大爆笑していたかもしれません。

しかし、皆様のご期待を裏切りますが、この時はテレビの収録でも、何でもなかったように思われます。

そうです。恐怖心が真に達してしまって、余裕をなくし、その滑けいさを、笑うことが出来なかったのです。

私は、目の前で展開されていた現象を、あり得ないと思う一心で、その事実を面白がるといった「ゆとり」など、持ち合わせていなかったのでした。

先の、ハザ○ カン○イさん扮する、乱暴なおじいさんのような、ふざけた人物においてでも、実際にあなたが出会って、そのステッキで叩かれるといった、ヒドい目にあったとしたならば、いくら人のいいあなたでも、憤慨し、笑ってなどいられなくなることでしょう。

笑いと恐怖心の関係、お分かりでしょうか?

 私は先ほどから「真の笑い」という、この論文にとって重要な語句を、強調していますが、コメディアンが披露するような表現的な笑い、すなわち、存在論的に言いかえると「表現的な恐怖心への先導」というものは、いわゆる愉快のごときものであって、決して、真の笑いに系統されるものではないと、私は考えます。

真の笑いとは、おそらく先のドッキリ○メラがそうであったように、お互いの恐怖心が打ち解けて、親和を築く際に交わされる、あいさつのようなものなのでしょう。

真の笑いとは、私の提唱する「恐怖と親和の哲学」の、根幹をなすテーマであります。

 そう「人類○世」という映画において、ホモサピエンスの女が、主人公である、ネアンデルタール人の男の頭に、岩がぶつかったのを面白いと感じて、初めて笑ったのを、ネアンデルタール人の男たちが、戸惑いを感じながらも、最終的には一緒になって笑うという、印象的なシーン。

あの日から、人類の「真の笑い」というものの歴史が、始まったのでしょうかねぇ。


           「嘲笑」

次のテーマは、嘲笑について話します。

「笑い」と、一口に言っても、様々な笑いがありますね。

嘲笑は、愛らしさの感情を語る上で、とても重要で、はずすことの出来ないテーマです。

まず、嘲笑とはどんな笑いでしょうか?

嘲笑するというのは、軽く侮りながら笑う。

「軽蔑をともなう、支配的な笑い。」のことです。

そのため、嘲笑は相手を自分より下に、見下さないと発生しません。

それがたとえ、自分より格が上だと認識している、例えば憧れている人物に対してでも、同様の生じ方をします。

ちょっとした欠点を、見つけ出したりして、相手より自分は優位となり、支配欲を満たすために笑うのです。

自分が憧れている人物をも、見下す感情ということになります。

ですので、嘲笑をされると、相手は快く思いません。

自分が見下されていると、感じるからです。

嘲笑されて、軽蔑されているのが分かるのに、平気な人は、よほど自分に自身がある人か、貫く信念をお持ちの方なのでしょう。

憧れの存在の話をしていて、例えが悪いですが、友人のペットの犬が、飼い主の足にしがみついて、腰を振っている様子を見てケタケタと笑う。

これは愛らしいと感じて、微笑ましいと感じて笑っているのとは、微妙に違います。

軽蔑して、嘲笑しているのです。

また「面白ホームビデオカメラ大賞」なる、よくありそうな番組における、ズッコケシーン。

チ〜ン(軽妙な効果音)とともに、男の大事な部分を強打して、のたうち回る映像を見て、爆笑する。

これは、人の不幸が快感で、好んで笑っているのでは、必ずしもないのです。

もちろん、人の不幸は蜜の味。ですが、この場合、そのあまりのドジっぷりを、嘲笑していると認められるのです。

そんな、ドジな彼らのことを、司会者は決まって「おバカな奴ら」と呼称します。

そこには、どんな構成の意図が、含まれているのでしょうか?

それは「嘲笑一辺倒」になってしまう見方を防ぎ、彼らに親しみの感情を、かもし出す狙いがあるのでしょう。

それにより、視聴者とドジな彼らとの間に、親和性が築かれ、彼らが愛おしく思えてくるという、効果があると思われます。

 さて、ここで分析に入ります。

嘲笑がどのように存在しているのか?

「笑い」ということなので、私はまたここで「恐怖心」というキーワードを用いて、絡めます。

嘲笑の存在論的意義とは?

対人間あるいは対象(犬の例もあったので)への親和を欠く、こちらが支配的ではあるものの、違和感の恐怖心が、当然見下しているので、全幅の恐怖には至らない結果生じる、笑いの感情であるということ。

長い説明になりましたが、これが真理なのではないか?

と私は思います。

人は嘲笑するとき、当然嘲っているので、完全には対象に恐怖心を抱かないにしても、いくらかの恐怖は感じている。

しかし「支配的な境地」なので、恐怖には達せず、その違和感から笑いが生じると、言いたいのです。

例えば先の「面白ホームビデオカメラ大賞」における例で言うと、そのズッコケっぷりが、ちょうど良い恐怖心を刺激するように、構成がなされていて、痛い思いをしている様子だが、至って大丈夫だと、視聴者に分からせることが、安心して嘲笑出来ることの、条件なのであります。

なぜなら、ズッコケのあと、後遺症の残るケガや大ケガ、はたまた、彼らが死亡してしまうような展開があれば、たちまち笑えない現象、つまりは、恐怖心の度合いが過ぎてしまう事態に、陥ってしまうからです。

たとえ、何らかの方法で恐怖心が、取り除かれたとしても、対象があまりにも不びんでは、嘲笑しようにも込み上げてくる感情は、哀れみの感情しか浮かんでこない訳ですね。

人には「良心」という、安寧に至る心の働きが、ありますからねぇ。

 また、話はガラリと変わりますが「性的衝動の話」が、普段の会話において、嘲笑に値する事柄であるという理由は(なんて難しいことは言わずに、下ネタは、何であんなに嘲笑できるかって話です。)

性的衝動の話が「理性」を忘却させようと配慮するのを、避けるために、快楽への先導、没入することへの恐怖心から逃れるために、平常心へ戻すために、嘲って笑い飛ばそうとする(下ネタで、興奮するのはおかしなこと、それより笑い飛ばそう、ということです。)

心理的作用が働いた結果なのではないか?と、推察するのですが、いかがでしょうか?

 最後に「コメディアンは、笑われるより、お客さんを笑わせてこそ一流。」という、教訓を聞いたことがあります。

この「笑われる」というのは、まさしく嘲笑されることであり、反対に「お客さんを笑わせる」というのは、表現的な笑いへの先導、ということになります。

嘲笑されるということは、お客さんに下に見られている。

見下されているということになりますので、それよりは、

エンターテイナーたる表現者として、笑いに誘導する方が、笑いの先導者となることの方が、より知的で、高等であると諭している言葉なのでしょう。


          「愛らしさ」

 愛らしさという感情の、周辺に位置する感情について、その存在論的意義などを、色々と考察してきましたが、いよいよ本題の、愛らしさについてであります。

人は、ある対象を愛らしいと認識するとき、多くの場合、笑みを浮かべています。

「笑う」とまで、笑っていると認められるくらいの、感情の揺動がなくても、笑いがその範疇に入る「喜びの表情」として、愛らしさを感じるときの表情は「喜びの笑顔」であると、認められることでしょう。

 愛らしさとは、いったいどんな感情でしょうか?

愛らしいと感じる感情の、実像とは?

どんなものでしょうか?

愛らしさの存在論的意義について、思いを巡らせますと、

読者の皆さんは、薄々お気付きかとは思いますが、ここでも私は「恐怖心」という、キーワードを登場させます。

結論から申しますと、それは「軽蔑には至らない、優位だがいくらかの恐怖心を感受する、親和性。」であろうと私は考えます。

人が、対象物を愛らしいと受け取る感情とは、まず支配的である、受け取り手が上の立場であることが、条件の感情で、しかも、嘲笑の際に生じた感情とは、どこが違うのか?と、問われれば「親和性」が築かれているか否かに、差異があると私は思うのです。 

例えば、先の例である、友人が飼っている犬を、愛でる場合においてでも、足にしがみついて、腰を振っているところを目撃して嘲笑したり、また無類の愛らしさを享受したりして、複雑に感情が入り交じった、ご経験をお持ちではないでしょうか?

これは、嘲りと寵愛が、近いところにある感情であるからこそ、生じる事象ではないか?と、私は考えます。

 ところで、子供の特徴を表す言葉で「子供は、無邪気である。」と、よく言います。

無邪気とは、一体何でしょうか?

「子供には邪気がない?」そんなことは、決してないと思いませんか?

よく考えないで、深い思慮に基づかずに、行動することを無邪気と言うらしいですが、それを的確に表現しようとするならば「無邪心」と、言うべきではないでしょうか?

確かに、子供の率直な行動の背後には、邪心はないように思われます。

ですので、子供は、自らの欲求や好奇心を、素直に表し示すいわば「邪気のかたまり」であると思いませんか?

子供はその「有邪気」な行動を、何によって、どのようにして許されているのでしょうか?

容姿、形から。あるいは能力の稚拙さから…。

それは、自然に容認される「愛らしさ」をともなっているからに、他ならないでしょう。

では「自然の愛らしさ」とは、一体何なのでしょうか?

断っておきますが、愛らしいと感じる感情とは、例えば、子供っぽさを捉えたり、少女趣味的な要素を捉えたから感じるという風な、自然の愛らしさがすべてではないのです。

あとで説明しますが「不自然な愛らしさ」というのも、存在します。

それは、愛らしいと感じる感情が、恐怖心を触発されるが、恐怖には至らない及ばないでいて、さらに親しみを感じるから愛らしく感じるという、幼さや稚拙なものだけに反応する訳ではない、メカニズムを内包しているからこその、特性なのです。

では人は、何に基づいて「これは愛らしい。」「これは愛らしくない。」と判断し、判別しているのでしょうか?

自然のオートマティズムは、本能、本性に忠実であり、なかなか解読、理解しがたい事象であります。

私は逆説的に「不自然な愛らしさ」にこそ、愛らしさという感情の秘密を解くカギが、隠されているのではないか?

不自然な愛らしさからなら、解読可能な糸口が、発見できるのではないか?と、考えました。

 次の章では、そんな、不自然な愛らしさを備えた、例題たちを集めてみました。

そこでも、具代的な例を使って、愛らしさについて検証、解明をしてみたいと思います。


         「不自然な愛らしさ」

最初の例は、ブルドッグが擬人化されて、ソフト帽をかぶり、葉巻をくわえて、オッサンのマネをしている様子です。

(ブルドッグ ソフト帽 葉巻 画像で検索)

その様子は、一見するとふてぶてしく、謙虚さがみじんも感じられず、また少しも、少女趣味的傾向でもなければ、赤ちゃんっぽくも、子供っぽくも感じさせない訳ですが、なぜか全体の印象として、愛らしさを感じさせます。

不思議だと、思いませんか?

不自然と言えば不自然に、愛らしさを感じさせる、印象的な画像ではないでしょうか?

では、解読に入ります。

この、ブルドッグという存在に対する、難解な思念、感情の存在論的意義は?というと、ブルドッグの容姿が、まるでこわもてのオッサンのようでいて、一瞬ひるむのですが(つまり、恐怖を感じるのですが…。)オッサンと似て非なる、自分より下等な動物なので、また楽しい画像なので、親しみを持ち、好感を持ってして結果、愛らしさを感じさせるという、仕組みと解釈しました。

いや、そのあまりのふてぶてしい態度、堂々たる姿勢をまじまじと見るや、ついには嘲笑してしまう人も、中にはいるかもしれません。

人の心理の動向の、複雑さを垣間見る思いです。

 しかしその直後、思わぬ事態が生じ、急展開します。

あなたはこのブルドッグに、手をガブリとかまれてしまうということが起きます。

そうなると、先ほどまで存在していた、ブルドッグに対する親しみや好感はどこかへと消え去り、恐怖心が全面的に、あなたの心を支配することと、なってしまいました。

だって、このブルドッグにかまれているのですよ。

恐いでしょう?

こちら側が支配的に、そして好意的に観ていたのに、今では獣の恐ろしさを知るばかりとなり、愛らしさな何ぞ、感じるどころでは、なくなってしまいました。

この状況でもまだ、あなたはこのブルドッグに対して、積極的に関与することが、出来ますか?

また、支配的に接することが出来るでしょうか?

そういった意味合いで、思い当たる人物がいます。

いくら、動物にしいたげられても、向かって行き、積極的に、動物とコミュニケーションをとろうとする人物。

そう、ムツゴ○ウさんですね。

ムツゴ○ウさんなら、自ら、かまれたブルドッグの口の奥に手を突っ込んで「オー、ヨシヨシ。」って言うでしょうね。

彼なら、ブルドッグに、手をガブリとかまれたにもかかわらず、未だ親しみを持って、このブルドッグに積極的に関与して、愛らしいと感じ続けられるはずです。

どこまでも、動物に対し親しみを持ち、また愛らしいと感じることが可能なムツゴ○ウさんには、到底かないませんよねぇ?

我々の、彼の姿勢に対する感銘は、そういったところからも来ているのかもしれません。

話がそれまして、申し訳ありません…。

 次の例は、カンガルーが、これまたふてぶてしく寝転んでいます。(カンガルー ゴロ寝 画像で検索)

ブルドッグの例と同様に、少しも子供っぽくもなければ、少女趣味的な愛らしさも、ありません。

まるで、日曜日にお父さんが、ゴロ寝をしている様子を見ているようです。

本当にゴロ寝している、人間のお父さんなら、別に愛らしくはありませんが(しかし、時折り存在する、手足が短いなどの影響により、逆に動物的に見えて、かわいらしいお父さんは除く。)それに似ているようで実は、カンガルーという、人より下等な動物なので、また楽しい画像なので、親しみを持ち、その連関が違和感となって誘われ、恐怖心を生じさせるのです。

でも、その恐怖心が真に達しないことから初めて「愛らしい」という感情を、抱かせるのです。

野生生物の生態を追う、ドキュメンタリー映像などで、様々なシーンが、時折り人間の姿とオーバーラップして見え「キモかわいい」、私の提唱する言い方に変えるならば「コワかわいい」と、感じられる経験は、よくご存知でしょう?

その、哲学的解釈を今回、解明してみました。

いかが、お考えでしょうか?

 さて、話はガラリと変わりますが、次の例は、ヤク○ト

スワ○ーズ時代のノ厶○ カ○ヤ監督が、若い女性の間で「カワイイ」と言われたことがあったという、事実です。

あの、ノムさんがですよ。

「あぁ、確かに。カワイイと言われても無理はなかった。」

と思った方は、感性がお若い!

彼はご存知の通り、現役のプロ野球選手からしてみれば、恐れおののくような、震え上がるような存在ですが、一部の若い女性からすると、恐怖する対象とはならずに、小太りな体型に、昔かたぎな頑固者のありさまが、何となく愛らしく見えたのではないでしょうか?

以前、音楽に合わせて、神宮球場のダグアウト前で「謎のスイングダンス」を披露したことも、ありましたねぇ。

懐かしい…。

あぁいった行動も、カワイイ評価に、つながっているのでしょうが…。

まったく、日本の若い女性の、芸術的とも思える感性、ものの捉え方にはつくづく感心させられます。

あのノム○監督に、愛らしさを感じるなんて、若い女性の感性以外では、あり得ないでしょう?

 ある年配の男性で、ベテランの国語学者が「先生、カワイイよねぇ。」と、女子の受講生に、自ら投げかけられた体験から「愛らしさは、目上の者が、目下の者に抱く感情なのに、どうして?」と、思い悩んだという経験が、テレビで紹介されていました。

この思いを、言いかえるに「目下の者がどうして、目上の者に支配的な感情を抱くのだろう?」という、素朴な疑問であったに違いありません。

そう、彼女たち若い女性は、先のノム○監督の例でもあったように、目上の、特に権威のある「お偉いさん」に対してでも、まったく恐縮していないのです。

そればかりか、何やら珍しい小動物でも観察しているような目線で注視し、愉快に楽しんでいるのです。

つまり、哲学的に説明すると、恐怖心を矮小化させている、ということになります。

それは、若い女性目線の男性像、異性であるということも関係していますが、私は女性特有の「欲望的な気質」が作用して、及んでいるのではないか?と、考えます。

欲望的な気質とは、女性が子供を宿す性であることの、何でも取り込もうとする性質のことで、私が勝手に定義づけしました。

バーゲンにて、お値打ちな商品を奪い合う…、

オバチャン特有の図々しさも、それに起因しているのではないか?

当てはまるのではないかと、考えます。

いわゆる「カワイイ文化」が、世界的に受け入れられてきているのも、はたから見ればただのオッチャンに、愛らしさを見いだすなどという、高度な感性があってこそなのでしょう。

日本のkawaii文化には、一見かわいらしく見えないものにも、かわいらしさを発掘するという、独特の要素が含まれていますからねぇ。

そのオリジナリティが、流行、波及していく原動力になることは、充分に考えられます。

何も、ファンシーグッズのような、少女趣味的要素のいっぱいつまった、見るからに愛らしい容姿を備えていなくても、人は、愛らしさを享受可能だという、この三例は、よい例えとなるのではないでしょうか?


       「これも不自然な愛らしさ」

 さぁ、次はちょっと趣向は変化しますが、まだまだ不自然な愛らしさを携えた、例題たちが出て参ります。

次は「怒る赤ちゃん」の画像です。

(怒る赤ちゃん 面白 画像で検索)

この、怒る赤ちゃんが、対照的である「笑顔の赤ちゃん」に勝るとも劣らない愛らしさを、なぜ発揮するのでしょうか?

正反対の感情表現ですが、なぜでしょうか?

こう、考えるのはいかがでしょう?

分析に入ります。

拒絶し、あるいは不快感を表し、泣き叫ぶといった感情は、赤ちゃんにあるものの、この画像のように物事の事情を理解し、分別をつけた上での怒りという感情は、赤ちゃんにはなく、ある程度、発育してからでないと生じない、感情であるからこそ、赤ちゃんの表情としてはふさわしくなく、ゆえに違和感を覚え、恐怖心を抱かせます。

しかし赤ちゃんなので、当然恐怖心が真に達せず、立ちどころに愛らしさを感じるという寸法です。

でも、恐怖には至らず、愛らしさを感じるというより、どちらかと言えば、笑ってしまいますね。

それは、現実的にはあり得ない表情をしている、赤ちゃんの性格に対する、違和感からの「嘲笑」だと考えられます。

「ギャングのボス」をも、連想してしまうような激昂ぶりの表情ですが、おぼつかない赤ちゃんなので、そのあまりの激烈さに親和性を失い、思わず笑ってしまうのです。

愛らしさ半分、嘲笑半分、といったところの感情でしょうか?

 今度の例は、これは見事なカップ猫です。

(カップ猫 画像で検索)

ただ、赤ちゃん猫であるだけで、充分にかわいらしいのですが、マグカップという、少量の飲み物を入れるくらいの、わずかなスペースに、体がすっぽりと入ってしまうような、小さな体格であることに違和感を覚え、恐怖するのてすが、もちろん仔猫なので、恐怖には至らない結果、さらに愛らしさが増幅されるのです。

相対して、成猫による「どんぶり猫」では、カップ猫より愛らしさが、半減してしまう訳ですね。

ちょっと待てよ。まぁ、どんぶり猫もそれはそれで、実際に見てみると、充分にかわいらしいと思いますが…。

 次の画像は、場所の設定、周りの雰囲気を取り入れた構成である点が、先ほどまでの画像とは相違します。

僧侶と従順な犬が並んで、お寺で拝んでいます。

(ヤ○ーで 拝むチワワと僧侶 画像で検索)

そばにいる犬自身は、拝んでいるという自覚は、あるのでしょうか?

はたまた、人のマネをしているだけなのでしょうか?

それとも、何も考えていないのか!?

いずれにせよ、愛らしさを感じさせる一枚です。

お寺という、荘厳、厳粛なる場所において、明らかに違和感を覚える、人間より下等な動物が、人間のマネをして「拝む」という表現を、我々に認識させることによって、ちょうど、先に出てきた「オッサンブルドッグ」と同じような触発の仕方で、愛らしさを感じさせるのです。

そこで、この画像で色々と、想像を巡らせます。

例えばこの犬が、隣にお座りになっている、僧侶が飼っているペットであるとするならば、僧侶を含めて、双方に愛らしさを感じないでしょうか?

まさしく、僧侶という「畏敬の念」を抱く人物に対して、親和性がまるで、浸透していくかのように構築され、作用します。

それでは、もっと難解な設定を。

この従順であるはずの犬が、実は由緒正しい、神仏の使い「聖獣」であったとするならば、あなたはどう感じるでしょうか?

あなたは急に緊張を強いられ、また真剣になり、たちまちのうちに、愛らしさを感じるどころではなくなります。

「はぁーっ。」と感嘆の声をあげて、感心し、ありがたさを享受することでしょう。

つまり、この犬が荘厳、厳粛なる場所と一体化して、感じられるようになるのです。

「イワシの頭も、信心から。」

 若くて、かわいらしい女の子が、最近「変顔」という、パフォーマンスをしているのを、テレビで見かけるようになりました。

彼女たちが文字通り、変な顔、滑けいな顔を表現してもなお、愛らしいと思えるのは、彼女たちが元々美しく、整った顔立ちをしているからに、他ならないでしょう。

分析に入ります。

この、変顔という「派手な主張」。

この行動を、取ることの意義。

つまり、変顔の存在論的意義はというと、先のコメディアンが、しゃかりきになって、風変わりなことをするのと同じく、恐怖心をあおっている表現であると、私は考えます。

変顔という表現は、その多くの表情が、いかにも、恐怖心や笑いをほうふつとさせる表情で、その存在論的意義が分かりやすい表現であると、お感じになりませんか?

ただ、彼女たちは前述の通り、元来美しいので、恐怖に至ることはもちろんのこと、「美人の徳」によって、軽蔑に至る心配もなく、変な顔をしても親しみを持って、彼女たちは愛らしいと、認識されるのです。

それでは反対に「不細工な女の子」、整っていない顔立ちの子が、変顔をするならば、どういった事態が起きるのでしょうか?

不細工であるというのは、悲しいかな、それだけの理由で、支配的に見下される原因と、なってしまいます。

(ヒドい言い方、ゴメン。)

ですので、おそらく変顔をすれば、たちまち嘲笑されるに至るか、あるいは「嫌悪感」を抱かれるといった結果を、まねいてしまうこととなるでしょうね。

テレビに出演されている、女性タレントの中で、面と向かってブサイクと言っていい「徳」をお持ちの方で、「日本国万民公認ブサイク」と言えば、すぐに思いつくのはやはり「オア○ズ」のお二人だと思いますが、このお二人が、変顔する様子を、どうぞ思い浮かべて見てください。

それは、人気者のお二人なので、初見で軽く「ハハハッ。」と笑いますが(嘲笑)。

じっくり見てみると、んーっ!やっぱりムカつきますねぇ(嫌悪感)。

 舌っ足らずな歌い方や、微妙に音程をはずす歌唱法が、愛らしさを感じさせる理由は「幼児の歌う姿」を、連想させるからです。

滑けいさをあしらった、表現方法であると言えます。

 ある日、足元がおぼつかないのか、手押し車を押して歩くおばあさんが、横断歩道で、律儀に手を上げて渡るところを目撃しました。

その様子は、幼児や児童のそれに負けないくらい、愛らしさを感じました。

年寄りは敬うもの、尊敬されるべきものと習いましたが、私は、このおばあさんに、愛らしさを感じたということは、自分より立場を、下に見ていたのてすね。

だって、愛らしかったんですもん。


           「嫌悪感」

 ちなみに、愛らしさの感情とは、密接には関わりはないですが、「嫌悪感」についても、少しふれます。

嫌悪感の存在論的意義とは、恐怖心の支配的束縛から、逃れる手段として用いられる、利己的配慮による、心の作用なのではないか?と私は思います。

人は、恐怖する対象を拒絶しようとするとき、嫌悪感という「反感」を用いて、それを利己的に発して「心の均衡」(恐怖や不安に至らないための、心の平安。)を保とうとするのです。

例えば、若い女性の若い男性に対する、恋愛対象としての嫌悪感は、その辺にいる「不潔なオジサン」に対して抱く、嫌悪感とは、明確に区別されることでしょう。

それは、異性の対象として、明瞭に「親和性を築こうとして、迫る配慮。」に対する反発、反感であるのです。

また、恋愛対象である異性への、恐怖心や嫌悪感と、その反対の好感や愛着は、表裏一体の関係でありまして、それゆえに、異性として意識する者からの「束縛の恐怖」は、より想像力を増した形で、彼女に降りかかります。

いわゆる「恋の甘美」というものも、この恐怖心によって裏打ちされ、ときには嫌悪感を抱いたり、また好感を持ったりして、より渇望へと移ろいで、受動していくこととなるのでしょう。


          「ゆるキャラ」

 さて、次の章では、皆が知りたいであろうアレについて、いよいよ話すときが、やって参りました。

昨今の、愛らしさというキーワードが関連する、ブームの中で、はずすことが出来ない、愛らしさを語る上で、避けて通れない話題と言えば、やはり「ゆるキャラブーム問題」で、ありましょう。

「ゆるい」という、ゆとり世代向き?な、若者言葉の中に込められた意図とは?

そして、ゆるキャラの骨格を形成する、概念とは?

何を持って、ゆるキャラと称するんで、ありましょうか?

私の想像する見解では、「間延びしている」や「間抜けな感じ」のキャラクター、ということになりますが、それがなぜ、愛らしさを感じさせるのでしょうか?

 それを考察していく前に一つ、問題提起を。

1988年に、京都国体が開催されるのにともない、考案されたキャラクター「未○くん」(未○くん 京都国体 画像で検索)は果たして、ゆるキャラであると、認められるのでしょうか?

もちろん、2004年にみう○ じゅ○氏が、ゆるキャラという単語を商標登録する、16年も前のキャラクターですから、当時、ゆるキャラという概念は、存在しなかったはずです。

未○くんに対する、姿、形から見受けられる印象は、漫画チックにはなっていますが、しっかりと書き込み、作り込みがされており、確かに顔はデカいですが、ゆるキャラ特有の、間延びしたような部位は、見られないように感じます。

昨今のゆるキャラより、凝ったデザインである、というのが

全体的な印象です。

元来、漫画チックなキャラクターというものは、ゆるキャラブームが起こる以前は、考え方、方針も含め、圧倒的に「未○くん型志向」が多かったのではないでしょうか?

ゆるキャラという概念が確立された、近年になって、各地の公共団体のキャラクターを中心として、間延びした間抜けなキャラクターたちが、出没し始めたのです。

これが、2009年に、同じく京都で誕生したキャラクターの「まゆ○ろ」です。(まゆ○ろ 画像で検索)

未○くん登場から、はや21年が経過して、画力が大幅に進化を遂げ、向上しているのか?と思いきや、未○くんよりずいぶんと、単純化されたデザインで、のっぺりとしていて、やはり、間が抜けた感じがしませんか?

未○くんより明らかに、ゆるキャラという概念の、影響を受けていますよねぇ。

そんな、ゆるキャラ旋風の、洗礼を受けていない未○くんも、充分に愛らしいのですが(中には、黒目がちな顔立ちが、ちょっと恐いと、言っていた人もいたようですが…。)

まゆ○ろを含む、依然として隆盛を極めている、これらのゆるキャラたちが、どうして、一様に愛らしいのでしょうか?

分析に入ります。

 例えば、鏡を上下に曲げて縮めて、凸型にゆがんだものに自分自身を写すと、間延びして写り、間抜けな感じがします。

ところが反対に、同じく鏡を上下に縮めて、今度は凹型にゆがんだものに、自分自身を写しても、間縮み(そんな言葉はありませんが…。)して、まるで小動物か、小人の妖精のように見え、これまた間抜けな感じに写ります。

デカい図体であるのに対し、短い腕や短い足、目は黒丸の点だけなどという、一般的なゆるキャラの特徴。

ある部分は間延びし、ある部分は間縮みさせることの、効果というものを探求すると、私はやはり、恐怖心をあおっている狙い、意図が感じられると、考えざるを得ませんでした。

誤解しないでください。

私は決して「ベビースキーマ」について論じて、記述している訳ではありません。

一般的な幼体の特徴を、備えていない、ゆるキャラやファンシーな対象物であっても、人は目が点だけ、や、デカい図体であるなどの影響によって、恐怖心を触発されてしまい、しかし、それらが着ぐるみやフィギュアなどの、表現物であると認識しているところから、恐怖心が真に及ばすに、愛らしさを感じることが出来ると、言いたい訳であります。

私は幼いころ、今はなき「奈良ドリームランド」という、遊園地にて、初めて着ぐるみというものに遭遇し「ほら、来よった。」「ほら、恐い。」という、兄や姉の挑発も手伝ってか、案の定、恐れおののいて泣いていまいました。

当時は、それら着ぐるみが、表現物(人が入っている。)であると理解する余裕を、持ち合わせていなかったのです。

ちょっと待って、そんな、余裕たっぷりのそこのあなたでも、ゆるキャラのような生物が、実際に「ヒマラヤの奥地」で発見されたとするならば、ただちに愛らしさを感じることが出来るよ。という訳には、いかないはずでしょう?

 ここで、様々なゆるキャラたちの、愛らしいポイントの個別分析を。

「たれ○ンダ」は、パンダがダラリと、垂れていることによって、恐怖心をあおっています。

「ねばー○君」は突然、あり得ない高さまで、伸びることによって、恐怖心をあおっています。

「ふなっ○ー」は、着ぐるみに従来なかった、素早い動きと、ファンキーな口調を取り入れて、恐怖心をあおっています。(んー、分析苦しいかな?説得力ないよねぇ。あんまりかわいいとか…、どうなのかなぁ?)

「ひこ○ゃん」は傑出した、愛らしい容姿に加えて、彦根城の石段すら、満足に上がれない短い足で、恐怖心をあおり、さらに、愛らしさを増幅させています。

「ゾン○アー」は、クマのぬいぐるみなのに、ゾンビの姿をして、恐怖心をあおっています。

「オカザ○もん」は顔なのに、漢字をもじって、恐怖心をあおっています。

「テ○ド」は、テディベアなのに、スケベな中年のオッサンのような、言動や仕草で、恐怖心をあおっています。

(テ○ドは、ゆるキャラじゃないかな?)

などなど、枚挙にいとまがないですね。

 「ゆるキャラの章」の最後に、これは不自然な上に、極めて特殊な例えですが、もし愛らしい着ぐるみの姿、形をした宇宙人(ぬいぐるみ 宇宙人 かわいい 画像で検索)が、

UFOに乗ってやって来て、あなたの目の前に、現れたとしたならば、先の動物とは違って、あなたより下等な生物ではないので、あなたはその宇宙人に対して、愛らしいという感情を、抱くことが出来るでしょうか?

頭脳が、混乱をきたしそうな例えではありますが…。

こういった例えで、真っ先に思い浮かぶのは、スティー○ン スピル○ーグ監督のE.○.ですが、E.○.は高等生物というより、E.○.自身は、やや下等な生物的に、描かれていたという印象が私には強いです。

だから、初見では奇妙で驚いた(恐怖心)という人も、やがては、愛らしいと感じることが出来たのです。

E.○.がもし、独特のたどたどしい喋り方ではなくて、スタート○ック ネク○トジェネレーションの、登場人物である、アンドロイドのデ○タのように、難しい科学的知識を、早口でまくし立てるように話していたとしたら…。

はたまた、E.○.がもし、指先から「親愛の情」を放つのではなく、代わりに怪光線を放って、エリ○ット少年に対して、危害を加えていたとしたら…。

たちまち、愛らしかったE.○.が、威力ある、人類より進歩した高等生物、あるいは凶暴な怪物に変容して、立ちはだかり、押し並べて、感動の物語であったはずの映画が、構想からかけ離れた、つまらない展開の映画になっていたことでしょうね。

スティー○ン スピル○ーグ監督も、真っ青な、B級映画の誕生です。

以上、ゆるキャラの章でした。


        「色っぽさと滑けいさ」

 実存哲学とは、とりあえず、いま分かっていること、いま「配慮」出来ていることから、考え始めて、世の中の仕組みを、解き明かしていこうではないか、という学問です。

実は、色っぽさの章に関しては、未だ分からないことが多く、未完です。

私としましては、愛らしさを感じる感情に「性的欲求」を加味するだけで、色っぽさを感じるという、色っぽさは、愛らしさの延長線上にあるという、結論に導き出したい訳ですが、未だ確たる証拠、具体的で分かりやすい例がなく、証明出来ていません。

(エル○ィス・プレ○リーの、エ○・サリ○ァン・ショーにおける、ダンスの腰つき事件や、モン○ーウォークなどを検討。)

(いま分かっていること)愛らしさの感情と、色っぽさの感情とは、近いところにある感情だということは、間違いないようです。

人は、ある程度成長してから、色っぽさを感じる感情を、獲得する訳ですが、その「基盤」となるものが、愛らしさの感情なのではないでしょうか?

(これからの課題)その答えのヒント、いや鍵となるであろう性格的傾向に「小児愛」というものがあります。

小児愛は、通常の人なら性的衝動を帯びないでいて、愛らしさを感じるに過ぎない少年、少女という対象であっても、

色っぽさを感じるという、皆が愛らしさを感じるだけの対象に、必ずしも性的衝動が伴わない訳ではないという、性格的傾向があります。

そこに、小児愛の特異性が見て取れます。

その特徴がきっと、愛らしさと色っぽさの秘密を探る鍵になるであろうと、私は思います。


 愛らしさの感情について、理解を深めてもらうために、色々と考えを述べて参りましたが、よく分かっていただけたでしょうか?

ここではまた、愛らしさの周辺にある感情に、観点を戻し、「色っぽさ」の感情について、取り上げてみたいと思います。

唐突ではありますが、人が、好ましいと思っている対象について、愛らしいと感じる興味と、同じく色っぽいと感じる興味とは、魅了されたり、夢中になったりする「執着の仕方」や、興奮したり、笑顔になったりする「反応の態度」が、やや似ているとは、思いませんか?

 愛らしさを感じさせる表現のうち、カウボーイ姿(カウボーイ 子供 コスプレ 画像で検索)やエル○ィス・プレ○リー

風のファッション(エル○ィス・プレ○リー 子供 コスプレ 画像で検索)などの、大人っぽい服装を、年端も行かない子どもたちに着せて、コンテストなどで披露する「大人を模倣して扮装する子供」という、滑けいさをあしらった、表現方法があります。

これは文字通り、大人の格好をまねてはいますが、全体の容姿や顔つきは、子供なので、「似て非なるもの」として、愛らしさを感じさせるという、手法です。

実は、愛らしさの親戚の感情である、色っぽさにも、色っぽい表現として発せられるときに、滑けいさをともなうことがあります。

ですが、子供のケースにおいてでは「愛らしさの源」であった滑けいさが、大人のセクシーな表現においてでは「嘲りの源泉」となり得る可能性が、大いにあるのです。

「コケットリー」に代表されるように、大人の性の表現であっても、滑けいさをはらむセクシーな表現は、あるにはあるのですが、当の本人が真剣であれはあるほど、セクシーな性の表現というものは、滑けいさを宿すことによって、容易に嘲りへと変ぼうする、危険性があります。

そう、色っぽさと嘲りは、表裏一体の関係性であるのてす。

 かの有名なシーンである、マディソン・スクエア・ガーデンにて行われた、ジョン・エフ・ケネディ大統領の誕生祝賀会に、舞台の壇上からマリ○ン・モン○ーが「ハッピーバースデー ミスター・プレジデント」を歌った際、歌い始めに、わずかに笑いが起こったのを、私は聞き逃しませんでした。

その笑いの意味するところは「マリ○ンの歌い方に、ユーモアを感じた。」や、「マリ○ンに、愛らしさを感じた。」といったたぐいの笑いなどではなくて、嘲りから来る、さげすんだ笑い、つまり嘲笑でした。

マリ○ン・モン○ーのなまめかしい歌声を、聞いたその瞬時に「何だ、その下品な歌い方は!」と見下して、マリ○ンの意図とはあらぬ方向で解釈して、嘲笑した人が、少数ではありましたが、確実にいたのです。

しかし、そのあとはご存知の通り、すばらしい演出だとして皆が認めるところとなり、最後は「拍手喝采」となった訳ですが、色っぽさと滑けいさとは「紙一重の違い」でしかないということの、よい例えなのではないでしょうか?

 また、昔に流行した、当時のセクシーで奇抜なファッションが、時代遅れに感じて、ときに嘲笑に値するのは、現在のファッション感覚とのズレが、古臭さを伴わせ、滑けいさや違和感を露呈させて、色気をおおい隠し、感じさせまいとするからでしょう。

嘲笑に「興じている」際は、色っぽさなど決して感じていないはずですからねぇ。

それから、直木賞受賞作品の小説「火垂○の墓」で知られる、作家のノサ○ アキ○キ氏が、テレビのトーク番組に出演の際に、めったに歯を磨かないことについてふれられ「口の臭さもセクシーのうち」と答えて、すばらしい名言を残しましたが、これは百パーセント滑けい以外の何ものでもない提言ですよねぇ?

格好悪いですよねぇ。いかがでしょうか?

以上、オチがつきましたところで「愛らしさとは何か?」

終了でございます。


喫緊の課題である、AIに感情をどのようにして教え込ませるか?ですが、私は恐怖心という感情をAIに何とか植え付けることさえ出来れば、近い将来「笑うコンピュータ」や「愛でるコンピュータ」が誕生すると思います。

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