長袖のブラウス(三十と一夜の短篇第76回)
父が純子さんと再婚したのが三年前の夏の日。純子さんには前夫とのあいだに美恵さんという娘がいた。彼女はわたしより一学年上の中学二年生で、転校してきたことでわたしには突然、姉ができることになった。
「おい、三島。お前のねーちゃん、すっげー美人だな」
美恵さんは吃音を患っていて、人前では話そうとしなかった。それがミステリアスに見えるということで男子のあいだでちょっとした評判になった。
美人で吃音。幸い、美恵さんはいじめの対象にならなかった。
こんなことを言うのは恥ずかしいが、わたしたちがいた三年間、中学は道徳の教科書を丸写ししたみたいにお行儀がよかった。いじめはなかったし、あったとしても、堂々と止めに入る熱血漢がわたしのクラスだけでも三人はいたから芽の段階で摘み取れた。
わたしたちの日々は平穏だった。
八月初日の午後五時。
わたしは部活から帰ってきたのだが、縁側にスイカを入れた水桶があり、蚊帳のなかでブラウス姿の美恵さんが静かに寝息を立てていた。水桶はすっかり温くなっていたので、スイカを縁側に置いて、台所まで水桶を運び、蛇口をひねった。温い水が出尽くすまで流し続けて、水が冷えたら、水桶に水を貯めた。
縁側のある部屋に帰ると、美恵さんが起きていて、スイカをじっと見ていた。
「ごめん。起こした?」
美恵さんは首をふった。
わたしはスイカを水桶に入れて、縁側に寝転んだ。運動部ではなかったが、それでも朝からいろいろ作業をこなして、おにぎり三つで午後を乗り切った。考えなければいけないことは特になかったので、自分を空っぽにして、休んだ。空っぽの休息は効率よく体力を回復してくれるのだが、空っぽのわたしはときどき白目を剥いて、痙攣みたいな動き方をするので、事情を知らない人間の前でこれをやると、いろいろ誤解を招く。父は純子さんにこのことを教えるのをさっぱり忘れていたので、わたしが空っぽになって寝ているのを見て、救急車を呼ぼうとしたが、父が放っておけばいいと言ったとかで、本気で児童相談所に駆け込もうかと思ったと、あとで笑い話になった。
家での美恵さんはかなり笑う。こんな、ちょっとしたお話で笑い出すと止まらなくなる。
空っぽのわたしが目を覚ましたのは夕立の音だった。
美恵さんはいない。見れば、干しっぱなしになっていた洗濯物を慌てて、籠に入れていた。
わたしも手伝い、何とか洗濯物の半分を救い出した。
美恵さんは少し落ち込んだようだったので、わたしは彼女に「大丈夫。洗濯物を取り込むのが遅れたからって殺された話はきいたことがない。たとえ、殺されるとしても洗濯物の半分は救ったんだから、半殺しで済む」と言ってみた。
美恵さんは最初にしゃっくりみたいに声を出し、それから、ア、ハ、ハ、ハ、と途切れがちに笑う。その後、その笑い声は一本につながり、笑い過ぎた目に浮かぶ涙をぬぐいながら、しゃっくりをして、また、ア、ハ、ハ、ハ、と途切れがちに笑う。このサイクルを繰り返す。
笑いが落ち着くと、美恵さんは父と純子さんが帰ってくる前にスイカを切ってしまおうと言った。
「その前に服を変えるか、乾かしたほうがいいよ。夏風邪になるから」
「う、う、うん。そう、だね」
夕立で長袖のブラウスはぴったりと肌にくっついている。
腕に小さな丸い模様がいくつか浮かんでいる。
それが美恵さんが本当の父親について何一つ語ろうとしない理由、一日に二箱もピースを吸っていた父が煙草をやめた理由、美恵さんがどんなに暑い日でも長袖のブラウスを着る理由だった。
だから、どうした?
彼女は替えのブラウスを持っている。スイカを切るのに使ってと床の間の竹光を持ってきたら、「や、めて、やめ、て」とお腹を抱えて笑う。そして、ちょっとぶきっちょにスイカを切る。
わたしたちの日々は平穏だ。