第十六章 遠い約束(2)
「謝る必要はない。それよりも帰ってこないか、惺夜」
「兄上?」
驚いて見上げてくる幼さのある瞳。
いつもよりずっと無防備な樹だと、今の彼をよく知らない衛にもわかった。
この少年の今の暮らしがどうであろうと、その本質は惺夜なのだから。
「この星では辛いことがありすぎた。それに水樹の奥方の件もある。このままでは紫苑はまた苦しむだろう。そしてそなたも。わたしはこれ以上そなたたちを苦しめたくない。帰ってきなさい、惺夜。紫苑と一緒に。この星のしがらみのすべてを捨てて」
優しい、優しい兄の言葉。
そうできたらどんなにいいだろう。
なにもかもなかったことにして、昔の惺夜と紫苑の関係に戻れたら。
この星で知った幾つもの苦しみ、哀しみ、嘆き。
すべてなかったことにできるなら、きっと楽に生きられる。
けれど、それは……。
「紫苑の記憶が自覚がない今、それは決断できません」
「惺夜」
「当事者は他ならぬ紫苑ですから。ぼくは今度こそ、彼の望みを優先してやりたい。馬鹿な独占欲なんかで苦しめたくない。だから……」
「仕方がないな。本当に」
ため息交じりの兄の科白に、また謝罪の言葉を投げた。
そこへちょうどノックの音がして、衛が許可を出すと海里が顔を出した。
「お食事の用意ができました。お口に合うとよろしいのですが」
といっても自分で作った料理ではないのだが。
衛が答えようとするとすっかり元気になった遠夜が、ひょこっと顔を出した。
衛がハッとして息を詰める。
「なんだか知らないけど、樹の知り合いがきてるんだろ? 一応、朝飯の準備したけど。どうするんだ、樹?」
なんと答えるべきか迷い、樹は一度ため息をついた。
「遠夜」
「なに?」
「食事の後できみに大事な話があるから」
「大事な話?」
首を傾げながら遠夜は何故か思い詰めた眼差しで、自分を見る衛に戸惑ったような顔をしていた。
その手は樹の肩にあるのに、視線は遠夜に固定されている。
どこかで逢ったような気もしたが、気のせいだろうと打ち消した。
「きみが知りたがっていたきみが抱えてる出生の秘密」
「……」
「そしてぼくらのあいだに隠されたもうひとつの秘密」
「えっと?」
「ここにいる者は海里も大地も含めて、地球の人間ではないよ?」
ギョッとした顔になる遠夜に樹はやるせなく微笑んだ。
こんな形で彼に伝えることになろうとは思わなかった。
「惺夜。だが、急ぎすぎては壊してしまうぞ?」
衛が自然な態度でそう樹に話しかけて、遠夜がハッとした顔になる。
聞き覚えのある名前。
そうだ。
隼人の夢に出てくる少年の名前だ。
どういうことなんだ?
「でも、昨夜からのお話でぼくにも大体のことが掴めてきました。兄上。紫苑にすべてを伏せたままでは、彼はきっと覚醒しません」
「だが」
「過ちは過ちとして認めて、ぼくらはやり直さなければなりません。ぼくはもう二度と紫苑を傷つけたくないんです」
「惺夜」
抱き締めてくれる衛の腕の中で、樹はまたさっきの痛みを感じていた。
このぬくもりは紫苑が水樹から受けるべきだったぬくもりと愛情なのだと。
それを奪ったのは惺夜の嫉妬や独占欲だった。
本当に大切ならあの頃の判断は大きい誤っていたことになる。
大切だから隠されていたら辛い。
それを紫苑にもわかってもらいたかった。
「紫苑って、それ、おれのこと?」
愕然とした声だった。
戻ってくるのが遅いため、食卓で待っていた翠や大地も顔を出している。
「どうして? どうして樹がその名でおれを呼ぶんだ? あれは夢じゃなかったのか?」
「遠夜? きみ……夢って一体どんな夢を?」
「よく覚えてないよ。ただ漠然と色んなイメージが流れて、そこで色んな声が聞こえて」
ここまで言ってから遠夜がハッとしたように衛を見た。
そのまま踵を返してしまう。
突拍子もない行動にすべての者が彼の後を追った。
「遠夜?」
遠夜は自室へと駆け戻ったようだった。
もどかしそうに机の引き出しを開けている。
そうして小さな小箱を取り出して、中から如何にも骨董品といった趣のロケットを取り出した。
それを見て今度は衛が顔色を変えた。
「紫苑。それは」
「兄上?」
「憶えていないか、惺夜? あれは紫苑の誕生日に、わたしが贈ったロケットだ」
「あっ」
思い出した。
たしか紫苑が出生の秘密を知る前の話だった。
紫苑の誕生日は衛にとっては父親の命日。
それだけに贈り物はいらないと突っぱねていた紫苑だったが、ある日、不意打ちみたいにして贈られて不承不承受け取ったのが、あのロケットだった。
どうしてそれが遠夜の手元にあったのだろう?
振り向いた遠夜が唖然とした顔で、頻りにロケットの中身と衛を見比べている。
怪訝そうに首を傾げた衛が、そんな世継ぎに問いかけた。
「どうかしたのか、紫苑? わたしの顔になにかついているか?」
「これ」
おずおずと差し出す遠夜に衛がロケットを受け取った。
掌で開いてみて唖然とした。
そこにあったのは衛の肖像画だったのだから。
「紫苑……」
「まだ樹に逢う前だよ。胡散臭そうな骨董品店で、それを見つけてどうしても欲しくなって父さんに無理を言って買ってもらったんだ。それ、すごく古い物なのにどうして」
本当はロケットは開かなくなっていた。
あまりにも古すぎて、正常に動かなくなっていたのだ。
だから、中になにがあるのかは、遠夜が自力で手入れし直すまでわからなかった。
そうして見つけたのは古い、古い肖像画。
初めて見たときに泣いたことを昨日のことのように憶えている。
「涙の跡?」
肖像画隅がすこし変色していて、衛がふしぎそうに呟いた。
「それ初めて見たとき、どういうわけか泣けてきて」
「……紫苑」
「なんで」
また泣き出しそうな顔をする遠夜に近付いていって衛がそっと抱き締めた。
「わたしはそなたの義父だ。紫苑」
「……」
「そなたはわたしの親友の弟で、わたしが引き取った世継ぎの君だ。このロケットはそなたが故郷を捨てる前に、わたしが贈った物だ。
中の肖像画については知らないが、これはわたしからそなたに贈った物だ。まさかこちらに持ってきているとはな。想像しなかった」
死ぬまで大事に持ってくれていて、転生してそれでもなお大切にしてくれていた。
それだけで報われた気がした。
ロケットが再び紫苑の手に戻ったように、絆が強ければいいと衛はそう願った。
強い、強い気持ちで。
「すこしずつ話し合おう。紫苑。これからもう泣かなくて済むように。悲しい時代はもう終わったから」
そうであってほしいと願いつつそう言った。
腕の中の少年は頷いてくれたけれど。
それを樹を含む4人が、すこしホッとしたように見ていた。
紫苑が思いがけず衛を大切に思っていたという証拠が出てきて、だれもがホッと安堵したのだ。
衛の努力が報われたのだと知って。
「翠?」
衛の感傷を邪魔しないように翠に呼ばれた惺夜(樹)は、リビングに足を踏み入れて先代の名を呼んだ。
「わたしは今になって惺夜の意見に同意したくなってきたよ」
「え?」
「すべての発端は水樹の選択の誤りにある。あのとき水樹が故郷を捨てなければ、こんな悲劇は起きなかった。紫苑が心を閉じて成長することもなかった。衛が……これほど永く自分を責めることも」
同じ守護者として惺夜=樹にはよくわかった。
翠の怒りの正体が。
それは継承者を傷つけられた守護者の怒り。
束縛や独占欲にも通じるもの。
守護者は常に継承者の幸福を願うから。
「それでも翠。兄上も紫苑も水樹を愛しています。ふたりが彼を必要だと思うなら認めるべきではないですか? ぼくはもうあんな紫苑は見たくない」
1番大切な者の苦しむ姿を見るくらいなら、どんなことにも耐えられる。
今ほど強くそう思ったことはなかった。
「正直に言うならわたしは水樹がキライだ」
「……そうですか」
他に相槌など打てなかった。
本音を言えば樹も好きではなかったが、今は以前ほどはっきりキライだとも言えない。
水樹の人柄を知ったからだろうか。
「本当にどうして衛も紫苑も、あれほど水樹に拘りを持つのか、理不尽だ」
「ヤキモチ?」
クスクス笑う後継者に翠は気まずい顔で睨んだ。
「水樹はたぶん聖域なんでしょう。彼を包む空気はとても清らかで澄んでいるから、傍にいるだけで暖かい。そうでなければ魔物たちの王になどなれなかったでしょう。ささくれだった魔物の心を癒すことのできる人。それが水樹なんです。きっと」
「わたしは水樹がそれほど聖人らしい人物だとは思えないな」
「聖人とは言ってませんよ。ただ傍にいると暖かい人。そう言っただけです。ぼくは」
言い返してみたものの、わかりきった指摘を受けたので、翠はそのまま口を閉じた。
言われなくてもわかっている。
水樹は周囲の人々の心まで軽くしてくれる。
そんな生来の暖かさをもっていた。
衛がその優しさを大切だと感じたように。
だからこそ、彼を裏切った事実に自分を責めて苦しむ。
それもまた水樹の持つ特徴だ。
かつて救ってくれた暖かさが、裏切った事実に自分を責めて苦しむ。
かつて救ってくれた暖かさが、裏切ったときには鋭い毒となって自身に跳ね返ってくる。
わかってはいた。
慕われるのは水樹のせいではないと。
それだけの価値が水樹にあるからだと。
それでもこの泥沼をなんとかしたいと思うのは、守護者の身勝手な想いだろうか。
水樹がすべての元凶であるなら、彼のいない今、切り捨てたいと望むのは。
水樹を切り捨てることで、紫苑も惺夜もそして衛も、振り切れない過去を忘れられるなら、それでいい。
どんなに望んでも、どんなに悔やんでも、水樹はもういないのだから。
そう望むことも罪悪だというのだろうか。
守護者故の傲慢だと。
そう言われてもいい。
糾弾されてもいい。
水樹を許せない。
それは翠の中で変えられないことだったから。
それからの生活は、かなり奇妙な同居生活だった。
どのていど滞在するかは気分次第とのたまった衛は、翠とともにマンションに居ついてしまったのである。
遠夜にはまだ自覚はなかったが、紫苑にとって衛は正式な義父であり、現実的な保護者である。
惺夜にとっても父親代わりの兄は立派に保護者だ。
皇帝陛下の衛はさほど厳しく監視するタイプではないが、とにかく規則に厳しい。
それまでのように大雑把な生活など言語道断であり、夜に子供同士で外に出ようものなら、後でこっぴどく叱られる。
それまでは樹がこの家の大黒柱だったのだが、衛の登場ですっかりお株を奪われてしまっていた。
保護者のいる生活といない生活の落差に、ふたりが辟易したのは言うまでもない。
ただそれまでと大きく環境が違ったのは、なにも遠夜や樹だけではなかった。
守るべき人数が増えた海里と大地もかなり多忙で、また複雑な境遇に立たされていた。
それぞれに護衛するべき者はいるのだが、まさか皇帝陛下をひとりにするわけにもいかず、どう動くべきかで悩んだのだ。
それにここには翠がいて、事実上の軍関係に顔を出さないが、こういった非常時には優秀に指揮官となる。
そういう意味だと惺夜もそうなので、ふたりはすっかり困ってしまっていた。
同時に街中で鬼女王を見掛けたこともあり、このメンバーの中で唯一の臣下に当たるふたりは今とても多忙であった。
一方では守護するべき人々の守護をこなしつつ、鬼女王についての情報も集めて、更には皇帝陛下やその守護者の護衛もある。
身体が幾つあっても足りないというのが、ふたりの正直な感想だった。
そんなこんなで多忙な日々が過ぎて、樹が紫と連絡を取れたのは、問題の日から2日が過ぎてからだった。
今リビングには紫と蓮の姿があり、樹の隣には遠夜、その両側にふたりの美青年がいる。
そのふたりに紫は見覚えがあって顔を見るなり目を丸くした。
「わたしの顔がどうかしたか?」
「街中で一度見かけたもので驚いただけです。不躾な真似を」
優雅な所作で頭を下げる紫に、衛は感歎の眼差しを向ける。
「その一度というのは、紫。きみが綾乃と一緒だったときかな? 濃厚なラブシーンを演じていたよね、きみは」
「樹」
にっこり笑って嫌味をくれる相変わらずの天敵振りに、さすがの紫も閉口している。
これが挨拶代わりなのだから、らしいというか、なんというか。
「どうしてきみが知っているのか、訊ねてもいいかい?」
「おれと惺夜も目撃者のひとりだから、かな」
サラリと禁句に口にした遠夜に、紫と蓮が驚愕の眼差しを注ぐ。
よく考えてみればこのふたりには、まだ教えていなかったと気がついた。
「ああ。悪い。もう教えたつもりになってたよ、おれ」
「なにを?」
「おれが紫苑だってことを……だよ、紫、蓮」
いきなりそんなことを言われても、話についていけるはずもない。
半信半疑と顔に書いたふたりに、遠夜は柔らかく苦笑する。
「おれは本当に紫苑だよ。といっても樹や、つまり惺夜や義父に当たる皇帝にそう言われて、そうなのかなって思ってる程度だけど」
「「皇帝?」」
意外そうに言った後でふたりは顔を見合わせた。
「……これはいったい?」
遠慮がちな声に樹が失笑を返した。
それからの生活は、かなり奇妙な同居生活だった。
どのていど滞在するかは気分次第とのたまった衛は、翠とともにマンションに居ついてしまったのである。
遠夜にはまだ自覚はなかったが、紫苑にとって衛は正式な義父であり、現実的な保護者である。
惺夜にとっても父親代わりの兄は立派に保護者だ。
皇帝陛下の衛はさほど厳しく監視するタイプではないが、とにかく規則に厳しい。
それまでのように大雑把な生活など言語道断であり、夜に子供同士で外に出ようものなら、後でこっぴどく叱られる。
それまでは樹がこの家の大黒柱だったのだが、衛の登場ですっかりお株を奪われてしまっていた。
保護者のいる生活といない生活の落差に、ふたりが辟易したのは言うまでもない。
ただそれまでと大きく環境が違ったのは、なにも遠夜や樹だけではなかった。
守るべき人数が増えた海里と大地もかなり多忙で、また複雑な境遇に立たされていた。
それぞれに護衛するべき者はいるのだが、まさか皇帝陛下をひとりにするわけにもいかず、どう動くべきかで悩んだのだ。
それにここには翠がいて、事実上の軍関係に顔を出さないが、こういった非常時には優秀に指揮官となる。
そういう意味だと惺夜もそうなので、ふたりはすっかり困ってしまっていた。
同時に街中で鬼女王を見掛けたこともあり、このメンバーの中で唯一の臣下に当たるふたりは今とても多忙であった。
一方では守護するべき人々の守護をこなしつつ、鬼女王についての情報も集めて、更には皇帝陛下やその守護者の護衛もある。
身体が幾つあっても足りないというのが、ふたりの正直な感想だった。
そんなこんなで多忙な日々が過ぎて、樹が紫と連絡を取れたのは、問題の日から2日が過ぎてからだった。
今リビングには紫と蓮の姿があり、樹の隣には遠夜、その両側にふたりの美青年がいる。
そのふたりに紫は見覚えがあって顔を見るなり目を丸くした。
「わたしの顔がどうかしたか?」
「街中で一度見かけたもので驚いただけです。不躾な真似を」
優雅な所作で頭を下げる紫に、衛は感歎の眼差しを向ける。
「その一度というのは、紫。きみが綾乃と一緒だったときかな? 濃厚なラブシーンを演じていたよね、きみは」
「樹」
にっこり笑って嫌味をくれる相変わらずの天敵振りに、さすがの紫も閉口している。
これが挨拶代わりなのだから、らしいというか、なんというか。
「どうしてきみが知っているのか、訊ねてもいいかい?」
「おれと惺夜も目撃者のひとりだから、かな」
サラリと禁句に口にした遠夜に、紫と蓮が驚愕の眼差しを注ぐ。
よく考えてみればこのふたりには、まだ教えていなかったと気がついた。
「ああ。悪い。もう教えたつもりになってたよ、おれ」
「なにを?」
「おれが紫苑だってことを……だよ、紫、蓮」
いきなりそんなことを言われても、話についていけるはずもない。
半信半疑と顔に書いたふたりに、遠夜は柔らかく苦笑する。
「おれは本当に紫苑だよ。といっても樹や、つまり惺夜や義父に当たる皇帝にそう言われて、そうなのかなって思ってる程度だけど」
「「皇帝?」」
意外そうに言った後でふたりは顔を見合わせた。
「……これはいったい?」
遠慮がちな声に樹が失笑を返した。
「紹介が遅れたね。紫苑の隣にいるのが、ぼくの、惺夜の兄上で紫苑の養父だった衛。一言だけ注釈すると皇帝陛下だから、呼び捨てはしないように」
「皇帝?」
「こいつが?」
蓮には決して悪気はないのだが、つい普段どおり乱暴な言い方をした。
その不注意な一言すら聞き逃さず、翠が絶対零度より冷たい視線を投げる。
さすがの幻将も背筋に冷たいものを感じた。
「蓮。できればこいつ呼ばわりもやめてほしいな。守護者がいるからね。皇帝にそんな口の聞き方をしたら殺されるよ」
「守護者?」
いつも惺夜が自分を形容するときに用いた単語に、蓮と紫が怪訝そうに彼らを見回した。
「簡単に言うとさ、おれが義父上の守護者が翠。おれの守護者が惺夜なんだって。皇帝には代々個人的な守護神がつくらしいよ。
そういう意味でおれたちは先代と後継の間柄なわけ。つまり守るべき継承者は違うけど、惺夜も翠もふたりとも守護者だってこと」
自分だってよくわかっていないくせに、遠夜はさも当然と言いたげに説明した。
生前は衛のことは名前で呼んでいたのだが、今の遠夜は「義父上」と呼んでいた。
これは彼が自発的に呼んでいるわけではない。
どこから見てもすこし年齢の離れた兄、が限度の外見をした衛をどう呼べばいいのかと悩んでいると、これ幸いとばかりに翠がよけいな入れ知恵をしたのである。
義理でも親子なのだから「義父上」と呼べばいい、と。
素直な遠夜はそれを信じ込み、衛に確認を取った。
本当にそう呼んでいたのかと。
このとき衛は答えられなかったのだが、その沈黙を肯定と取ったのか、それ以来、遠夜は彼のことは「義父上」と呼んでいる。
素直すぎる世継ぎにそう呼ばれる度に、未だに照れる衛であった。
内心で記憶が戻ったら翠を責めるんだろうなと思いつつ。
内情を知っている残りの者も、翠が叶えようとした衛の夢だと知っていたので、特に茶々は入れていない。
おかげですっかり習慣となっていた。
遠夜の説明で納得はできたものの、凄まじい境遇に、ふたりは改めて紫苑と惺夜が、人間ではないのだと痛感した。
皇帝の皇子だったとすれば、個人的な守護神がついていても不思議はないのかもしれない。
考えてみればとんでもない守護神を、人間側は持っていたものだ。
「やっぱり紫苑も惺夜も、わたしたちよりよほど長命みたいだね。どうみても皇帝陛下は22、3だよ。あの頃から生きていて、この姿なのかい?」
「さあ? おれに言われても困るって。おれには自覚も記憶もないし」
「だったらどうして疑わないんだ? そんな非常識なことを言われて」
蓮の怪訝そうな問いに遠夜は困った顔になる。
「なんでって言われると困るなあ。なんでだろ?」
「おまえな、遠夜。自分のことだろう? もうちょっとしっかりしろ」
「だって自覚もなにもないのに、なにをしっかりしろっていうんだ?」
ムッとしたらしい遠夜に、蓮は呆れた顔でため息をついた。
「それに事実関係を聞いたから言えることかもしれないけれど、皇帝陛下と惺夜は似ているね。さすがに実の兄弟だ」
「どういう意味だい、紫?」
怪訝そうに問う樹は紫は失笑を投げた。
惺夜は衛に似ていると言われたことがなかったので不思議だったのだ。
「街角で見かけたときの第一印象が、どこかで逢ったような気がするという既視感だったんだよ。それも今思えば納得できるけれどね。惺夜に似ていたから、どこかで逢ったような気がしたんだね、わたしは」
「魔将は相変わらずそういうことを見抜くのが上手いね。呆れるよ、ぼくは」
「いや。これは遠目に見たときの印象だから、わたしの直感のようなもので別に魔将としての力は使っていないよ」
否定する紫に樹は衛と顔を見合わせた。
どこか照れくさそうに。
「それにしてもわたしたちのように魔物ではない。それはわかるけれど」
こちらで過ごした時間と衛の外見が合わなくて、紫と蓮は不思議そうな顔をして彼を見ている。
「まあ異世界というか異星というか、そういう境遇にいるからね。地球の時差は関係ないから」
ここまで言ってから樹は本題を切り出した。
「まあ地球の自転とは関係のない兄上たちのことは放っておいて。紫。ぼくたちはきみに訊ねたいことがあるんだよ」
「綾乃のことかい?」
「そう。彼女とはなにを話したんだい、紫? 紫苑のためにも知っておきたいんだ。答えてくれないかな?」
遠夜が紫苑だと知った今、紫にも隠すつもりはなかった。
「要するにわたしと蓮に中立を守れと迫ってきたんだよ、惺夜」
「中立を?」
「つまり俺たちが綾乃たちと袂を別った以上、戦力としてはアテにしない。だが、惺夜に仕掛けるときに邪魔をするなということだ。いくら袂を別ったとはいえ、元々は仲間だったのだから中立の立場をとれ、と」
苦々しい表情で蓮はぼやく。
どうやら誘われたのは紫だけではなかったらしい。
おそらく別口で蓮も誘われたのだ。
「ぼくを名指しできたわけ、綾乃は?」
「そう。どうもあのときの様子では、紫苑の転生にまで気付いていないようだよ。ただ」
「ただ?」
「綾乃がそこまでして、わたしと蓮を牽制したのは他に理由があるような気がしてね。すこし調べてみたんだよ」
「それで?」
難しい顔で促せば答えを返してくれたのは蓮だった。
「鬼女王はどうやら戦線を拡大したくないらしい」
「戦いを拡大したくない? だから、二大勢力の将軍ふたりが関わらないように牽制した?」
「俺たちが向こうに加わることに関して問題はないんだ。だが、綾乃も俺たちが味方しないことは知ってる。味方にならないからといって、惺夜たちに加担すれば、あちらに対する被害が多くなるだろう? 綾乃にはそうなると都合が悪くなる事情があるんだ」
「事情?」
ぼんやり呟く遠夜に複雑な視線を投げて、蓮は何故か視線を逸らした。
「綾乃は復讐を諦めていないけれど、失いたくない者もいる。そういう意味だよ、紫苑」
「失いたくない者?」
「向こうの事情は俺たちもよく知らないんだが、綾乃の陣営にひとり謎の少女がいる」
「……」
「瑞稀という名前で、とても清らかで大人しい少女らしい。鬼族の少女には見えないんだが、何故か綾乃はこの少女をとても大切に守っている。
戦域を拡大したくない本当の理由は、間違って瑞稀が被害を受けないようにするためだ。惺夜と紫苑を相手にするだけなら、瑞稀の身に危険が及ぶとは考えにくいが、俺たちが動き他の一族が絡んだ場合、安全は保証できない。そのために削ろうとしているらしい」
淡々とした蓮の説明を受けて、遠夜と樹は難しい顔を見合わせる。
内容は見えてきたが、その動機がなにに由来しているのか、その辺りは謎だった。
「あるいは綾乃は余計な犠牲は出さずに、昔の決着をつけたいのかもしれないね」
「そっか。そういう解釈もあるよな。紫先輩はそう思うのか?」
自分が紫苑でこの地球の人間でもない、ある意味で人外の者だと知らされても、まだ認識までは動いていないのか、遠夜は今までどおりの呼び方をしていた。
変わらない彼のあどけなさに、紫が柔らかく微笑む。
「はっきりいえば彼女は自分が死ぬか、紫苑が死ぬか、どちらかの答えで満足なんじゃないかな? 当事者の自分たち以外が絡むことを、綾乃は喜ばないと思うから」
「自分の手でおれを殺すか、それともおれに殺されるか。どちらかしか望まない、か。おれってそんなに憎まれてるわけ?」
うんざりした素振りで呟くが、内心で傷ついていることは、だれの眼にも明らかだった。
労るような眼差しを横顔に感じ、遠夜はニコッと微笑む。
「で。条件を呑んだの、きみたちは」
話を本筋に戻した樹に、紫と蓮は姿勢を改めてゆっくり頷いた。
「手は貸したいところだが、たしかに俺たちが手を出しても、余計な介入だからな。向こうが卑怯な手に出ないかぎり、中立にさせてもらう」
「わたしも同じ意見だね。ただ紫苑の身に危険が迫るなら例外だと、初めから綾乃にクギは刺しておいたけれどね。そのときはあくまでも個人で動くと言い置いて。わたし自身の駒は動かさない。それは約束したよ、綾乃と」
元々彼女と同じ位置にいたふたりには、これが精一杯の言葉なのだと言われなくても気づいた。
最終的には味方すると、どちらもが暗示したのだ。
ふたりの気遣いに遠夜は嬉しそうに微笑んだ。
翠と大地を護衛に遠夜が紫たちと遊びに行ってしまい、マンションに残った衛が、おもむろに背後に佇んでいる近衛士官を振り向いた。
「海里」
「はい?」
「先程の話、どう思う?」
「瑞稀という名の少女の話でございますね?」
「そうだ。その名は偶然だろうか?」
首を捻る衛に樹が口を挟んだ。
「同じ疑問はぼくも持ちました。でも、兄上。鬼族は常識として子供を産めば、近い将来、死んでしまいます。
あのときの綾乃の様子からは、それが感じられませんでした。力の受け継ぎはなされていない。綾乃の娘とは思えませんが」
「答えを出すのは早計だろう。海里」
「はい」
「至急調べてくれないか? 水樹の問題で動きだす前に、この疑惑に答えが欲しい」
「承知致しました」
一礼して出ていく海里に樹は苦い表情だった。
疑いが事実なら紫苑にとって、遠夜にとって実の姪である。
それが敵対することになったら彼がどれほど傷つくか。
「兄上はどちらであればよいと思っていらっしゃるんですか?」
「そうだな。当人に逢ってみなければどちらがよいとは言えないな。様々なパターンが考えられる。その中で最適の答えであれば、別に問題にはならないだろう」
「最適の答え」
兄がなにを言いたいのか、このときの樹にはわからなかった。
瑞稀。
耳慣れた響きの名前を名乗る謎めいた少女。
これから先になにが待っているのだろうと樹は深々とため息をつく。
もう二度と紫苑を傷付けまいと、それだけを心に刻んで。




