第十六章 遠い約束(1)
第十六章 遠い約束
窓辺に佇んで樹はやるせないため息をつく。
時刻はそろそろ3時を過ぎようとしている。
今日はこのまま眠れそうにない。
遠夜の目も覚めないまま衛と翠のふたりも、今日はこの家に泊まっている。
故郷を出ると生じる問題について、樹も気にしていたが、あれは100年単位で故郷を離れる必要があり、短期間では意味がないと言っていた。
だから海里と大地も影響されていないのだろう。
ふたりが100年も地球に滞在する事態を、衛はそもそも認める気もなかったのだと言っていた。
海里と大地がやってきたのは、紫苑と惺夜を連れ戻すためなので、衛はおおよその期限を定めていたのだという。
突然現れた実の兄から、紫苑の兄の名を聞いたとき、樹はそのまま動けなかった。
わからなかった幾つもの矛盾の意味を知って。
衛からは何度か声をかけられたし、とても気遣われていたことも知っている。
でも、今はなにも考えたくなかった。
今はなにも知りたくなかった。
あの水樹が紫苑の兄上だったなんて。
では紫苑は実の兄をその手にかけたというのだろうか?
なんのために?
信じられない、信じたくない。
そんな事実でも、これを信じるなら符号は合う。
何故、紫苑が綾乃に対して負い目を抱くのかも。
ただの敵対者ではなく、彼女は紫苑の義理の姉なのだ。
だから、反撃ひとつできないのだろう。
―――兄殺し。
その負い目が紫苑を無抵抗にさせる。
あれほど焦がれた兄を前にして、何故紫苑は戦闘に及んだ?
再会が叶ったのは、たぶんあのときだ。
惺夜の目の前で初対面のはずのふたりが奇妙な戦いを展開したあのとき。
水樹があれほど焦がれた実の兄だったとしたら、紫苑は何故、彼を攻撃した?
何故事実を胸に秘めたまま、それ以後も攻撃を重ねた?
とても矛盾した事実だけれど、ふたりが兄弟だったとするなら、何故、水樹が無抵抗だったのか、その動機もわかる。
弟を捨てた形になった水樹には、どうしても反撃できなかったのだろう。
それが身を守るための防御であろうと、弟に刃を向けることはできなかったのだ。
それがあの一方的な戦いの理由だったに違いない。
水樹の話題になると冷静さを失った紫苑。
血の繋がりとは、これほどに人を縛るのだろうか。
時々感じた突き刺さるような水樹の視線。
戦闘の最中、振り向けばすぐに逸らされる。
不可解だった、あの視線。
彼はきっと紫苑の傍にいる惺夜を羨んでいた。
昔に戻りたくても戻れない自分の代わりのように、今弟の傍にいる守護者を。
だから、水樹は惺夜には近づこうとしなかったのだろう。
水樹は水樹で惺夜に複雑な気持ちを抱いていた。
すべてを知った今、それがわかる。
水樹の話題で惺夜が爆発するたび、苦しげに黙り込んでいた紫苑。
彼を追い詰めたのは惺夜なのかもしれない。
少なくとも衛に言われたことを、惺夜はすでに実行した後だった。
知らなかったとはいえ、実の兄の水樹と、自分のどちらかを選べと、紫苑に強いたも同じなのだ。
水樹のことで惺夜が取り乱し、紫苑が消えてしまうと脅えたとき、いつも返された言葉。
『おれはどこにも行かないよ。ずっとずっと惺夜の傍にいるから。おれの心の半分は、いつだって惺夜のものだから、怖がるなよ。おれはずっとここにいるから。惺夜の傍に』
どんな気分であの言葉を言ったのだろう。
諭すように言い聞かせるように、何度も繰り返された儀式。
でも、それは紫苑に水樹を見捨てると言わせたも同じだ。
そんなつもりじゃなかった。
ただ紫苑が死んでしまうような、そんな予感に縛られて怖かっただけだった。
でも、水樹が実の兄だと知る紫苑にとっては、兄を切り捨てる言葉と同じ。
水樹が敵対する陣の王である以上、兄弟の絆を切り捨てる宣言に他ならない。
あのとき水樹を兄だと認め、彼を求めることは惺夜を、そして故郷にいた衛を切り捨てることだったから。
水樹が地球にいる以上、両方は選べない。
紫苑にとってはその現実を再確認する言葉。
「もしぼくが……もっと寛い心で紫苑を愛せたら、彼をこんなに苦しめなかったんだろうか」
悔やんでも、時はやり直せないと知っているのに。
水樹はもういないのに。
紫苑に水樹を殺させたのは、惺夜なのかもしれない。
―――どちらかひとりなんて選べない。
ずっと紫苑は瞳で、そう訴えていたかもしれないのに、惺夜は気づいてやれなかった。
紫苑が抱いていた苦しみに。
「どうして……。せめてぼくに言ってくれたら……紫苑」
閉じた瞳から涙が頬を伝う。
ずっと忘れていた。泣き方なんて忘れていた。
紫苑を失ってから、どうすれば泣けるのかなんてわからなかったから。
真っ暗な部屋の中で肩を震わせて声を殺す。
後ろから肩を抱かれ、樹は驚いて振り仰いだ。
心配そうに見詰めていたのは、やはり衛だった。
「そんなふうに泣くのはよくない。泣くのなら声を出しなさい。抱え込んでも辛いだけだ。わたしが傍にいるときぐらい、ひとりで泣かなくてもいいだろう? わたしは惺夜の兄なのだから」
何気ない優しい言葉が胸を切り裂いて、涙は止まらなくなった。
嗚咽さえ堪え、肩を震わせて泣く樹を、衛は痛む眼差しで見詰め、無言で抱きしめた。
小さな頃に何度もそうやって慰めてきたように。
傷つけることは知っていた。
それでもセイヤの心を動かすために、現実を受け入れてもらう必要があった。
後悔してこんなにも傷ついている。
最愛の継承者を追い詰めたのは自分かもしれないと。
だれのせいだとか、そんなことは言ってもはじまらない。
それこそ原因を問えば、すべて衛に起因することになるのだから。
「兄上。水樹……は、両耳に象嵌細工のイヤリングをしていましたか?」
泣くだけ泣いて落ちついた樹をベッドに座らせて、どのくらい過ぎたのか。
不意にそんな声を投げられて、衛はゆっくり頷いた。
「していたよ。両親が事故に遭う直前に贈られた最後の誕生日の贈り物だ。彼と紫苑は偶然だろうが、一月違いで生まれているから。だから、紫苑が生まれる一カ月前のことだ」
「じゃあ……両親の形見?」
消えかかりそうな声に、衛は悼む表情で首肯した。
「右耳は月を象った物。左耳は紫苑の花を象った物ではありませんでしたか」
「……水樹はずっとそれを身につけていたのか?」
静かな兄の問いかけにハッとした。
どうして? と思った後に気づく。
兄は海里と大地を派遣していたのだ。
あのふたりが持つ力は特殊なもので、特に守護者と同質の力を持つ海里になら、過去視もそう難しいことではなかっただろう。
衛は始めから知っていたのだ。
知っていて惺夜に過ちを気づかせるために、ああ言った。
そのことに初めて気づいた。
「水樹は綺麗な眼をした人ですね。澄んだ湖のように穏やかな。ぼくとは違う」
「……惺夜」
気遣うように名を呼ぶ兄に笑ってみせる。
それは自分を責めているような嘲笑だったが。
「今、思えば水樹はいつも紫苑のことばかり考えて、彼のことばかり優先していた。ぼくのように独占欲で彼を困らせたこともなかった」
「そんなに自分を責めるな、惺夜。仕方がなかったんだ。そなたは水樹がだれなのかすら知らなかったのだから」
「水樹は兄上よりほっそりした外見でしたよ。あの頃のぼくのように髪が長くて、月のように凛とした静けさを身に纏っていて、とても綺麗な眼をしていました」
「水樹は髪を伸ばしていたのか」
驚いて呟けば肩を抱いている弟が、小さく笑うのが聞こえた。
「地球にきて関わるようになって、半年もしないあいだに切りましたけど。もしかしたら願掛けでもしていたのかもしれませんね。
兄上はぼくと水樹が似ているとおっしゃいましたけど、ぼくには彼の方が穏やかな人柄だったと思えます。
いつもいつも周囲のことを気づかって、自分を犠牲にしても、なにかをなそうとする毅さがあって。彼にはぼくのような傲慢さはなかった」
「これはそなたには言っていなかったが、わたしにとって水樹はとても大切な親友なんだ」
「兄上」
過去形を遣わず現在進行形を遣った兄の切ないまでの友情が伝わってきて胸が痛かった。
「わたしも世継ぎ。外のことなどなにも知らず、世界を統治するということがどういうことか、すこしも理解していなかった。
そんな頃に水樹と出逢って、水樹は私利私欲なくわたしと接してくれた。わたしが世継ぎでも間違っているときは正面から責めてくる。そんな芯の毅さもあった。
わたしが統治とはなにか、民を理解するとはどういうことか、それを知ることができたのは、すべて水樹のおかげだ。彼がいなければ、わたしはこれほど支持される皇帝にはなれなかっただろう」
名君と呼ばれた皇帝、衛を築き上げたのは水樹だなんて、不思議な関わりだった。
「だから、紫苑の問題が起きたとき、とても辛かった」
悔やんでいるのは惺夜だけではないのだと知った。
紫苑の境遇を左右できたのは衛ひとり。
衛以外には彼が継承者だと見抜けないのだから、衛がもっと早く真実に気づいていれば、公爵家の人々は殺されずに済んだ。
それが衛の心の中でしこりになっているのだと初めて知った。
「できれば夢であってくれればよかったと、今でも思う。こんな悲劇を招かずに済むのなら」
兄の切ない口調にまた涙が溢れたてきた。
握りしめた拳は震え漏らす嗚咽が慟哭だった。
「ぼくは知らなかったんです。まさか水樹が紫苑の兄上だったなんて。たぶん再会したときに、紫苑は水樹が兄だと気づいたんです。自分を見失ったみたいに水樹ひとりを攻撃して」
「信じられない。紫苑が水樹を……?」
「一方的な攻撃でした。水樹はかわすばかりで、反撃どころか防御もしない。許してくれと何度も紫苑に叫んで。それでも紫苑は水樹を許さなかった」
その場面を思い描き、衛は何度もかぶりを振る。
それは信じがたい光景だった。
あれほど大切に思い合っていた兄弟が、まさか。
そこから先の説明を衛は何度も唇を噛み、拳を握りしめ、爪で拳を傷つけながら聞いた。
水樹の最期までを。
樹はまた泣きだして、自分で自分の肩を抱いている。
激しい自責の念に駆られる弟の姿がそこにあった。
「惺夜が自分を責めるようなことではない。たしかに間違った価値観は直してほしかった。だから、わざと告げた真実だ。だが、これは同時にわたしの罪でもある」
「兄上?」
不思議そうに見上げれば衛は苦い笑みを見せた。
「故郷を出る前だな。紫苑が出生の秘密を知ってそなたに説明したときだ。あのとき、わたしが水樹の名前を教えておけば、この悲劇は防げたのかもしれない。
少なくとも同行した惺夜がこの事態を避けようと努力することはできたはずだ。それができなかったのは、すべて最初の部分で選択を誤ったわたしのせいだ」
「兄上のせいではありません。結局はぼくが愚かだったから。ぼくは知らなかったとはいえ、水樹の問題で何度も紫苑とぶつかったんですっ。紫苑が消えてしまいそうで、死に急いでいるように見えて怖くて。ぼくが紫苑を束縛したから……だから……」
こんなふうに泣きじゃくる弟を見るのは、衛も初めてだった。
守護者として生まれ、必要以上に誇り高い惺夜は、滅多に涙を見せなかった。
意地っ張りなところもあって、物心ついてからは絶対に泣かなかったのだ。
外見とは裏腹に男気の強い弟を、衛は少しばかりの感心と呆れを含んで見ていた。
男としての矜持を捨てない弟を誇りにも思い、同時に片意地を張って生きるのが、すこしばかり可哀相でもあって。
それでも自分で自分を責めて、こんなふうに泣く姿は、できれば見たくなかった。
「惺夜のせいではない。そんなに自分を責めるな」
頭ごと抱き寄せて慰めてくれる衛に樹はただ首を振る。
言葉にはできない思いを、その否定に込めて。
泣きじゃくる度に背中を叩いてくれる衛の優しさが、胸に痛かった。
このぬくもりを紫苑から奪ったのは、自分だと思い知らされるようで。
泣いて泣いて一晩中自分を責めて、樹がようやく落ちついたころには、夜が明けはじめていた。
徹夜して弟に付き添っていた衛は、樹が落ちついてきたのを見て疲労も忘れ、ほっと安堵した。
転生してなにもかも変わったとはいえ、今も最愛の弟である少年の髪に、指を絡ませる。
その感触もすっかり指に馴染んだ。
「落ち着いたな」
「ごめんなさい、兄上。こんなに取り乱して」
小さい頃のように「ごめん」と言ってくれる樹に、衛は口許を綻ばせる。
大きくなってからは、礼儀正しく謝罪していたのだ。
惺夜に言ったことはなかったが、こんなふうに兄弟として接してくれる方が嬉しい。
礼儀正しさとは裏返せば他人行儀に通じるものだから。
どうでしたか?
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