第十五章 皇帝、来訪す(5)
「変わった香りだな、なんだ、それは?」
「地球の飲み物で珈琲と言います。すこし苦いですが、その苦みが慣れてくると、とても美味しい物に感じられる飲み物です。こちらにいるあいだに陛下に味わって頂こうと素材も厳選しましたのでご安心ください」
目の前に置かれたカップを見て衛は「ふむ」と呟いた。
「このまま飲むのか?」
「いえ。なにしろ初めてですから、ミルクと砂糖を入れられた方が無難かと」
「こうか?」
言われるままに樹の真似をして飲もうとした衛は、すぐに悲鳴をあげた。
「なんだ、これはっ!? ものすごく熱いぞっ!?」
舌を火傷しそうになったのか、衛は飛び上がって驚いた。
深刻そうに黙っていた樹も、つい笑ってしまった。
「兄上。熱い物はゆっくり冷ましつつ飲むのがコツですよ」
「そうなのか?」
しきりに驚く衛に海里と樹は顔を見合わせて笑い合う。
「海里もそんなに熱い物を出さなくてもいいだろう? 衛の身に……」
言いかけた翠を樹が振り向いた。
「ですが翠、飲み物も食べ物も熱い方が美味しいですよ? ぼくも転生して紫苑と同居するようになってから、そういう料理にも慣れましたけど、熱い方が美味しいですから」
「ほう」
「まあ料理にもよりますけどね。夏はやっぱり冷たい料理の方が美味しいし」
「矛盾していないか、惺夜? さっきは熱いほうが美味しいと言っておきながら」
「では翠は暑いときに熱い料理を食べたいわけですか?」
呆れたように言われ翠はムスッと黙り込んでしまった。
「ぼくらは損をしていたと思いますよ。紫苑が作ってくれるシチューなんて、とても美味ですから」
「紫苑が料理をするのか」
驚いたように言ってからこちらにいるあいだに、絶対に作らせようと心に決める衛だった。
「紫苑も生前の影響でしょうね。現世では猫舌のくせして、食べ物も飲み物も熱い方が好きですから。いつも火傷しそうになりながら、ふうふういって食べていますよ」
幾分、表情が明るくなった樹に衛は頷いてみせた。
それから自分が殺した兄の妃を見かけただけで、魂にまで衝撃を受けて倒れた世継ぎに想いを馳せた。
「あの子は感受性が強すぎるな」
ため息まじりの呟きに、樹は意外そうに眼を見開いた。
「意外か?」
苦笑ぎみの確認に樹が頷いて、衛は声を上げて笑った。
「紫苑は色々なことに影響を受けて、それをすべて自分の内側に取り込んでしまうところがある。感受性が強すぎる上に責任感が強すぎて、すこし自分否定の傾向もある。すべての事柄に対して、その責を自らに求めてしまうんだ」
過去を振り返りながら告げる。
せれは自責の念が言わせた言葉なのかもしれない。
水樹のことまで、すべての責任を自分に背負わせてしまう潔癖さが紫苑を追い詰めた。
自分を許してやることができれば、紫苑はもっと楽に生きられただろう。
自分のせいだと追い詰める責任感と自己否定が、紫苑を追い詰めたのだ。
紫苑はそこで自分を許してやれるほど器用ではない。
「……」
ため息はわかっていて、紫苑の苦しみを取り除いてやれなかった、衛の父親としての後悔なのかもしれない。
「おまけに紫苑は優しすぎるんだ。そういう子は自分で自分を雁字がらめに縛ってしまう。紫苑ほど生きていくのが難しい子もいないだろう。あの子は守ってくれる者がいなければ生きていけない。守ってくれるだれか。支えてくれるだれかが」
「……それは紫苑の兄上のことでしょうか」
傷ついた心を封じようとして、却って震えてしまった弟の声に、衛はふと我に返った。
翠が咎めるような眼をして衛を睨んでいる。
守護者の立場を忘れた言い方をした衛を。
「守ってくれるだれかと、支えてくれるだれかが、同一人物である必要などあるのか、惺夜?」
「……」
「好きだから独占したい。そのことを責めるつもりはない。守護者は多かれ少なかれ、独占欲が強いしな」
言いながら嫌味よろしく視線を投げられ、翠は気まずくなって顔を背けた。
先代継承者と守護者のやり取りを、樹が複雑な顔で眺める。
それもまた違う形をした同じ絆だと知って。
「しかし惺夜。心はひとつではないんだ」
「心はひとつではない?」
「そうだろう? だれかを好きだと思う心があれば、キライだと感じる心もある。好き嫌いとは別に、なんとなく苦手だと感じる心も。惺夜の好意のすべてが紫苑に集中していると言い切れるのか、惺夜は」
衛の科白に含みは感じたが、樹は無言で頷いた。
少なくとも樹にとって、いや、惺夜にとって紫苑はすべてだ。
「では、惺夜は紫苑以外の者はすべてキライなのか? わたしや翠も亡くなった父上たちも?」
「……そういうわけではありません」
困惑顔の弟に衛は肩を震わせる。
予想していたとおりの反応に。
「違う? では、わたしのことは兄として好きなのか?」
「当たり前でしょう」
苛立ったように吐き捨てられ、衛は急に表情を引き締めた。
「なら、そなたはわたしをキライになれるか。紫苑のために」
「……」
「肉親の情を切り捨てることができるのか、惺夜」
断罪のような質問に、樹は答えるべき言葉を持たなかった。
握りしめた拳が震えている弟を、衛は気づかうような眼をして見守る。
だが、わざと労りの言葉はかけなかった。
「すべての関心を独り占めしたいと望むのは愚かなことだ」
「兄上……」
「惺夜が本当に紫苑を大事にして、独り占めしたいと思うことは、わたしも理解できる。独り占めしたいほど、紫苑が大切だということも。だが、独占が束縛になったら、それはもう純粋な好意とは言わないものだ」
(独占が束縛に……?)
胸の内で呟かれた科白を、衛はわかっているのか、力強くうなずいた。
「本当に紫苑が好きで大切にしたいなら、多少の自由は認めてあげなさい。惺夜の兄がわたし以外にいないように、紫苑にとっても実の兄はひとりなのだから」
どんなに大切な相手でも、血の繋がった肉親に成り代わることはできない。
それは指摘されるまでもなく、永遠の真理だ。
肉親の情だけは理屈で説明できない。
血が呼び合う愛憎だけは、本人にもどうにもできない次元にある。
衛の説得は考えるまでもなくわかるのに、樹は頷けなかった。
拘りはあの頃のまま残っていて納得できない。
理性ではなく感情で。
「相変わらず強情だな、そなたは」
ため息まじりの独り言。
樹は唇を噛んで兄を見た。
憤りを瞳に浮かべ。
「ぼくはきっと紫苑の兄上がキライなんです」
「惺夜」
咎めるように名を呼んだ兄にかぶりを振る。
どんなに理詰めで論されようと、これだけは譲れなかった。
「あの人は自分から紫苑の手を放したんです。あの人のために紫苑がどんなに泣いたか」
「しかしそれは……」
「兄上の事情もあの人の事情も関係ありません。ぼくは心の問題を言っているんです」
譲らない気迫を込めて弟に断言され、衛は言い返すことができず沈黙した。
言い返すことを認めない、そんな気概を見て。
「ぼくはたしかに肉親を失う辛さは知りません。どんな気持ちで紫苑の兄上が彼を手放したか。それも理解してやれない。
そんなぼくがなにを言っても傲慢でしょう。それはわかっています。ですが兄上。他のなにを捨てても、彼は紫苑を見捨てるべきではなかった」
傷つけられた瞳の色は、紫苑が負った心の痛みを知っているからこそ。
見据える弟の眼差しにそれを見て、衛と翠は苦い顔を見合わせる。
ある意味でそれが真実だと知って。
「紫苑はたったひとりの肉親だったんでしょう? だったらどうして彼は紫苑に逢える日を待っていてあげなかったんですか? 本当に紫苑が大切で最後の肉親なら、彼は待っているべきでした。
仕方がなかったのかもしれない。紫苑の兄上も辛かったのかもしれない。でも、そのために彼が踏みにじったものは、1番大切な紫苑の気持ちです。
紫苑はずっとずっと帰ってこない兄上を待っていたんです。泣いて泣いて待っていた。ぼくはきっとそれを目の当たりにしてきたから、紫苑の兄上がキライなんだと思います」
水樹を身勝手だと責める瞳に気づいて、衛はため息をつく。
苦い気持ちで受け止めて言ってみた。
「だから、彼には紫苑を渡したくない?」
「いけませんか?」
絶対に譲らない。
見据えているだけで、それが伝わってくる眼差しだった。
弟の言い分も理解できるだけに、苦い気持ちを捨てられない衛であった。
おそらくそこまで泣かされていても、紫苑が水樹を忘れないことで、惺夜の反感が強くなったのだろう。
無理もないと思うのだが、衛の立場では同意もできなかった。
衛には水樹の気持ちも理解できるので。
「惺夜の言い分はよくわかった。それでもわたしはこう言うよ。紫苑を束縛してはいけないと」
「ぼくはっ」
「聞きなさい、惺夜」
脚の上に手をおいて身を乗り出してきた衛の瞳に、逆らうことを許さない光を見て、樹は言いかけた抗議を飲み込んだ。
「そなたの言い分はよくわかる。わたしもそのことに関しては、多少はそういう考えも持っていた。それでも惺夜。肉親の情は簡単に割り切れるものではないんだ」
「それは……わかっていますけど」
悔しそうに唇を噛む顔を見れば、言葉と本心が違うことくらい、だれの眼にも明らかである。
あまりに強情な弟に思わず衛は嘆息を漏らす。
。
「それでも紫苑が彼を必要だと思うのなら、惺夜が認めてあげるんだ。紫苑のことが本当に好きなら、あの子の気持ちも考えてやってほしい。板挟みになれば苦しむのは他ならぬ紫苑なのだから」
樹はムッとして口を閉じたまま答えない。
呆れたように翠も苦笑する。
同じ守護者の翠には惺夜の気持ちがよく見える。
それだけに責めるより苦笑してしまうのだ。
「あまりワガママを言えば紫苑が苦しむ。それでも認めたくないのか? 実の兄と守護者と、どちらかを選べと、あの子に強いるつもりなのか、そなたは」
兄として叱りつける声を、樹は心の深遠で受け止める。
それでも答えることはできなかった。
どうしても。
「惺夜は表面的には水樹によく似ているが、その我の強さは彼にはなかったな」
苦笑まじりに呟かれた独り言に、樹は無防備に顔を上げた。
感情の消えた顔で、じっと兄を凝視する。
「どうかしたのか、惺夜?」
「今……なんて?」
「なにが?」
問いかけの意味を知っていて問い返す。
傍らに控えている海里も、衛の思惑がわかるため、すこし気の毒そうに樹を見ていた。
それでも先程からの話し合いを聞いていると、樹に理解してもらう必要があるのだと海里にもわかっているが。
樹が受け入れてくれているのといないのとでは、絶対に紫苑の心理的な負担が違ってくるから。
もし樹が受け入れないままだったら、水樹を説得して動きだしても、今度は紫苑は兄と守護者のあいだで板挟みになる。
それでもなにも知らない樹が受けるだろう心の疵の深さを思い、海里も翠も苦い表情をしていた。
「ぼくがだれに似ているとおっしゃったんですか、兄上?」
「……水樹と似ていると言った」
「水樹? それが紫苑の兄上の名前なんですかっ!?」
驚いた顔のまま衛が頷くのを視界の端に収めて、樹はソファに崩れ落ちた。
「惺夜?」
呼びかける衛の声も遠くて心にまで届かない。
ただ信じたくない現実に、樹は激しくかぶりを振った。
脳裏に水樹の穏やかな笑顔が浮かぶ。
紫苑を見るときの切なげな彼の表情。
苦しげな紫苑の瞳。
年齢差はかなりある。
だが、ふたりの面影がきれいに重なっていく。
思い浮かべる紫苑の面影と水樹の面影は、他人の空似ではすまないほどに酷似していた。
気づけなかったのは、出自がはっきりしていなかったことと、年齢差によるものが大きい。
だが、そうと意識してみれば年齢差なんて無意味なほどに、紫苑と水樹はよく似ていた。
兄弟だと言われて納得する程度には。
どうしてあれほど水樹に拘ったのか、どうして水樹の問題では自分を見失うのか、すべての意味が飲み込めた。
そしてなぜ水樹が紫苑には無抵抗だったのか、その理由も知った。
ふたりのあいだに秘められていた揺るぎない絆。
どうして気づかなかったのかと、自分を責めたいくらいだった。
否定したい。信じたくない。
けれど、理性ではこれが現実なのだとわかっていた。
(嘘だ……。嘘だっ!!)
心で何度ぶつけても、見つけた真実は変わらない。
両手で頭を押さえ込んで、樹はきつく眼を閉じる。
腑に落ちなかったたくさんの事実。
納得できずにいた現実の矛盾。
すべての糸が解けていく。
紫苑と水樹のあいだに隠されていた絆の名を知って。
どうでしたか?
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