第十五章 皇帝、来訪す(3)
確かに一夜の遊び相手として考えるなら、吸血族の長たる紫は最適だろう。
紫ほど夜の相手に自信を持てる男はいないはずである。
ベッドの上であろうとなかろうと。
今の紫に言わせれば、この類稀な美貌も天性の口説きのテクニックも、すべて大事な商売道具なのだ。
しかし吸血鬼としての特徴だけに、ジゴロのように言われると、苦い気分になった。
「どういう風の吹き回しだい? なぜそこまで熱心にわたしを誘う? 鬼女王のベッドのお相手など、わたしはごめんだね」
誘うように身体を密着させる綾乃を、紫は素っ気なく突き放そうとした。
しかし腕を振り切ろうとしたとき、首に腕を回されて、拒む暇もなく唇を奪われた。
噛みつくようなキスだった。
突き放すことを許さず、首筋に腕を回し抱きついたまま、激しく貪ってくる。
目眩が起きる錯覚に、紫は眼を閉じて、細い腰に腕を回した。
毒を食らわば皿までの心境で。
あまりに濃厚なキスシーンに、ギョッとしたした視線が集中する。
すこし離れた場所に立っていた衛と翠も、驚いてふたりを見ていた。
「……ずいぶん開放的なところだな。人前で……」
どこか複雑な衛の独り言に、翠は気まずくなって視線を逃がした。
「拒むことは許さないわ、紫。一緒にきてもらうわ。どんなことをしても」
濃厚なキスの合間に綾乃が耳元でささやく。
受け止めて紫はため息をつきそうになるのを堪えた。
「見返りは?」
「わたしよ」
素っ気ない返答に紫が目を剥いた。
言葉の意味はベッドの相手、という意味だけではなかった。
これは紫を誘う見返りなのだ。
当然、吸血行為も含まれている。
鬼の女王だけあって、綾乃の血は一種の力を秘めていて、紫にとってはかなり極上の部類に入る。
本命の相手ほどの効力はないが、普通の人間を襲うより価値があった。
それだけに綾乃のガードは固かったはずである。
それを差し出しても紫を同行させたいのだ。
しかしその理由はわからなかった。
「毒を含む血など、わたしは欲しくない。無理やり引き戻されるのもごめんだね。断らせてもらう」
「あなたが断ったときは、宮城遠夜を連れていくわよ」
脅しに使われた名に紫が息を飲んだ。
その一言ですべてが飲み込めた。
綾乃は紫のことも調べ上げた上で誘っているのだ。
おそらく樹のことも承知しているのだろう。
たぶん和宮樹が惺夜の転生であることも。
遠夜の存在が樹にとっても、紫や蓮にとっても弱点であることも。
「今宵だけジゴロになろうか……」
ため息のように吐き出して、紫はきつい眼で綾乃を睨みつけた。
一瞬だけ蘇る魔将の眼差しに、綾乃はほんのすこしだけ笑みを浮かべる。
「でも、わたしはきみたちの元に戻るつもりはない。きみたちがなにをしようと関知する気もない。けれど遠夜に手を出すなら、わたしは敵だ。覚えておくがいい。彼に手出しはさせない」
「続きはホテルのベッドの上で、ね」
ささやいてもう一度重なる唇。
冷たい愛情の欠片もないキスを交わす。
ラブシーンというより、戦闘シーンのように酷薄なムードに、ついつい眺めていた衛が怪訝そうに首を傾げた。
「なんだ、あれは? 情愛の欠片も感じられん」
吐き捨てるような口調は、衛が感じている嫌悪の現れである。
衛はそういう意味では純情なタイプだった。
「あなたが怒るようなことでもないでしょう。彼らの自由ですよ、衛。それよりも出てきましたよ、彼らが」
その声に誘われて、衛がゆっくり視線を巡らせた。
背の高い少年に肩を抱かれて、よく似た少年が笑っている。
買い物でもしていたのか楽しそうに会話して。
言わずとしれた樹と遠夜のふたりだった。
その背後には荷物持ちと化した海里がいて、彼は敏感に近くに佇む皇帝と、その守護者の姿に気づいた。
軽く会釈する。
荷物を抱えていたので正式な礼は取れないが。
17年ぶりに逢う皇帝は、そんな海里に親しげな微笑みを投げた。
大地は衛と翠を迎えに行ったのだが、どうやら彼らの方が上手だったらしい。
大地と合流する前に発見されてしまった。
さすがは皇帝。
最強の力の所持者である。
その視線は一度海里に向かってから、その後はずっと遠夜に注がれている。
彼は弟、惺夜の転生した姿も、世継ぎの転生した姿も知っている。
それだけに言葉では形容できない想いが胸を満たして声が出ない。
泣きたくなるほど懐かしい。
肩に腕を回して話しかける樹に笑いながらじゃれる遠夜。
そんなふたりの楽しそうな姿を、衛は痛むような気持ちで眺めた。
ブティックから外に出たとき、空気の流れが変だった。
道行く人々が驚いたように、同じ方向に視線を向ける。
濃い闇の空気。絞られていく人々の関心。
惹かれるように遠夜が視線を向けたとき、そこに妖艶な美貌の女性を見つけた。
記憶も、自覚もなにもない。
けれど遠夜は驚愕に眼を見開いたまま動けなかった。
ガクガクと震えだす身体。
忘れられない「なにか」が蘇ってきそうで、怖くてたまらない。
脚が震え、無意識に後退る。
後ろにいた樹が怪訝そうに受け止めた。
「どうしたの、遠夜?」
顔を覗き込んでハッとした。
全身に冷や汗を掻いて、大きく瞳を見開き、遠夜は震えていた。
青ざめたその顔色。
どこを見ているのか気になって視線を流せば、濃厚なキスシーンが眼に入った。
「……紫?」
片方の人物は紫だった。
美女を腕に抱き、熱い抱擁の場面を展開している。
だが、感じる雰囲気の冷たさに、普通のラブシーンではないと気づいた。
政略的なムードがある。
紫が抱いている、あの美女……どこかで見たことがあるような……?
「――――――」
声にならない声が出た。
茫然と立ち尽くす遠夜から。
「遠夜っ!!」
なんの前触れもなく崩れ落ちた遠夜を抱き止めて、樹は信じられないと、ふたりを凝視した。
思い出した。
遠夜の独り言で思い出した。
彼女は綾乃だ。鬼女王、綾乃。水樹の妃の。
どうして彼女がここに?
しかも紫と一緒にいるんだ?
腕の中で遠夜は気絶している。
思わぬ現実に衝撃を受けて。
ふたりに気づかれる前に、立ち去るべきなのかもしれない。
どちらにしろ、遠夜には……柴苑には関わらせたくはない。
彼女にだけは。
「手を貸そうか?」
海里が動くよりも早く、耳に心地よい低い声がそう言った。
姿勢を正した海里は今度は皇帝と片腕たる翠に、軽く頭を下げた。
彼とはこの任務を任されたときに何度か逢ったことがあったので。
向こうも憶えていてくれたのか、クールで知られる彼にしては親しげに笑ってくれた。
まだ兄だと気づいていない樹がかぶりを振る。
「大丈夫ですから」
「つれないな。いつからわたしを頼ってくれなくなった?」
「え?」
予想外の返答に顔を上げれば、苦笑して顔を覗き込む男性がいた。
ストレートの黒髪。
精悍さには程遠くても、男らしさを宿した美貌。
面白がって輝く黒い瞳。
(この人は……)
「兄を忘れたわけではないだろう、惺夜?」
からかうような声音に、どう答えればいいのか、正直迷った。
もちろん忘れてはいない。
顔を見ただけですぐに気づいた。
でも、こんなときにどう言えばいい?
最期の挨拶すらできないまま、昔死に別れた兄を前にして。
「本当に……兄上なのですか?」
「わたしが別人に見えるとでも?」
柔らかくからかう声がして、大きな掌が髪を撫でた。
華奢で形のよい手。からかうように髪を撫でる仕種。
変わらない。
「どうして……」
喉が詰まって声が出ない。
言いたいことの半分も言えない。
ただ懐かしい兄の顔を見上げるだけ。
樹の動揺を読み取って、衛は背後の守護者を振り向いた。
「翠」
呼び声に翠が姿を現して、樹は二重の意味で驚いた。
まさか皇帝とその守護者が、ふたりで地球に?
「わたしが引き受けよう。惺夜」
懐かしい微笑み。
同じ守護者として打ち解けた笑みを見せてくれる懐かしい先達。
幼い頃から惺夜を可愛がってくれた人。
「翠までいらしたんですか?」
意外だと態度で訴えてくる樹に、翠は珍しく無防備な笑顔を見せた。
「陛下がいらっしゃるところにはわたしも行く。きみもそうだっただろう、惺夜?」
皇帝は必ずしも皇族として生まれるとは限らないが、守護者は例外なく皇族として生まれる。
翠は衛の従兄に当たり、惺夜にとっては兄同然の人だった。
戦闘術や体術など守護者として欠かせないことは、すべて先代守護者の翠に教わった。
今も忘れていないあの日々。
微笑んでくれる衛と翠を前に、衛はどんな反応をすればいいのか、それさえわからずにいた。
ふたりの顔を見比べながら。
「翠さま。それには及びません。わたしがお運び致しますので」
「そうだな。では頼もうか、海里に」
素直に場を譲った翠に頭を下げて、海里は意識を失った遠夜を抱き上げた。
おそらく本人には自覚はないだろう。
どうして彼女を見て倒れるほどの衝撃を受けたのかについては。
だが、これではっきりした。
紫苑の記憶が戻らないのは兄を殺したことが負い目となって、記憶が戻ることに歯止めをかけているせいだと。
それをなんとかしないことには遠夜の記憶は戻らない。
封じられた紫苑の記憶は。
「海里もすこし成長したようだな」
満足げな衛に海里は「とんでもないっ」と慌ててしまった。
どういうわけか、この人を前にすると慌ててしまう海里であった。
「……ぼくだけ状況についていけていないような……」
複雑そうな樹の声に3人は困ったように笑った。
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